2011年6月3日金曜日

卑弥呼の両親はイザナキ・イザナミだつた!


 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     KKロングセラーズ ムックの本
     ヒミコ・プロブレム
     真説:日本誕生 黄金の女王卑弥呼
     47~70頁



 


 「三種の神器の原型」

 リュキア(古代ギリシャ領小アジア半島最南部、

 ロドス島の東北)の銀貨。

 曲玉マンジも太陽の象徴。

 アポロンの生まれ変わりと称した

 アレクサンドロスも愛用していた。

 三角縁神獣鏡の一種。

 方位を示す突起がついた世界でただ一つの珍しいもの

 (3世紀卑弥呼時代=鹿児島県伝世の神宝・加治木義博談)。

 シャカ(サカ、スキュタイ)人の黄金宝石装宝剣。

 アレクサンドロス大王も同じ系統の剣を愛用していた。

 (韓国・三国時代の新羅古墳から出土した副葬品)


 「天照大神は日本へきたか?」

 
 私たちがこの本で真相を求めている卑弥呼は、

 いうまでもなく「女王」として知られている。

 そして今、見つかった候補者神功皇后は、

 皇后と呼ばれてはいるが、夫天皇の死後、

 自ら政治を主宰した女王である。

 そうして今から検討しようとする人物は、

 日本の歴史では『記・紀』ともに、

 最高権力をもった大女王として描かれている。

 それは「天照大神」である。

 ただ問題なのは、彼女はタカマガハラ(高天原)にいて、

 その孫のニニギノミコトが日本へきたという点である。

 卑弥呼も神功皇后もヒメコソも、日本に来たという点では

 完全に一致している。

 まず

 天照大神は日本へきたか?

 というナゾから解かなければいけない。

 この「タカマガハラ」だが、

 戦前は「天の上にあった神がみの政府」だと教えられていた。

 日本政府の文科省が「そう教育しろ」と、

 教師たちに命令していたのである。

 今では子供でもマトモには受けとらないことを、

 なんと文科省が! 強制していたのだ。


 仮にそれが真実だとすると、ニニギノミコトというのは、

 宇宙人の子供だったことになる。

 そのミコトから万世一系だという今の天皇家の人たちは、

 人類ではないことになるが、

 私たち国民は、どこからみても、また自分で考えてみても、

 ごくふつうの人類であって変わったところはない。

 以前の文部省は、私たち天皇家は

 「アカの他人」だと教えていたのである。

 そんなことで、よく太平洋戦争が戦えたと思う。

 戦前の日本人はそんなに知能指数が低かったのであろうか?

 今はタカマガハラが空にあったなどと本気で考えている人などいない。

 では、天孫降臨神話は古代人の空想の産物だったのであろうか?

 調べてみると、それは歴史事実が、神話のように間違えられていただけで、

 決して「神話」として書かれたものではなかったのである。

 タカマガハラは実在したし、今もそのまま実在している。

 それは立派な「地名」として日本の大地の上に生きて残っているのである。

 天照大神は、まちがいなく日本にやってきたし、日本に住んでいた。

 だから彼女が卑弥呼である可能性はじゅうぶんある。

 まず「高天原」とはどこかからお話しょう。


 「古事記が注意書きで指示する「高天原」の正しい読み方」

 『古事記』の本文の一番最初のところに、

 この「高天原」という名が出てくる。

 そしてその下に例の「割り注」(マニュアル)が

 小さい字で書いてある。

 それを原文どおりに書いておく。

 「訓 高下天 云 阿麻 下効 此」

 これは「高の字の下の天の字は、オマと読む。

 これから後も同じょうに読め」という意味である。

 「高天原」という三字が書いてあって、

 はじめてこれを読む人は、何と読むのか分からない。

 漢字音で「コーテンゲン」と読むのか、

 和訓(日本よみ)で「タカアマハラ」と読むのかと迷う。

 そこで「コー」「テン」「ゲン」という三字のうち、

 高の字の下の「天」だけを漢字音ではなく、

 「日本よみ」で「オマ」と読んでください、というのである。

 これは今「重箱よみ」といっている読み方である。

 捨てておけば「コウテンゲン」か「タカアマハラ」

 としか読まないから、

 そうではなく「コー・オマ・ゲン」ですよと、

 特殊な重箱よみをしてくれと、

 わざわざ注意書きをしてあるのである。

 ところがこれまでは「タカ・マガ・ハラ」などと、

 全然この注意を守らないで平気でいた。

 「天」を「オマ」と読まずに「マガ」などと読むだけでなく、

 「コー」を「タカ」、「ゲン」を「ハラ」と、

 全部まちがった読み方をしてきたのである。


 「高天原は南九州の能毛地方のこと」

 『古事記』を書いた本人が「こう読んでください」と、

 わざわざ書いた「地名」をまちがったデタラメな読み方をしていては、

 それがどこか分かるはずがない。

 神奈川をジンナセンといったってだれにも分からない。

 「メイフルオク」といわれて、

 すぐ名古屋だと分かる人がいなくても当たり前である。

 それでも日本人で名古屋を知らない人はいないから、

 少し考えるとナゾは解けるが、

 「高天原」のほうは今でもどこのことか分からない、

 人の知らない地名だったのである。

 当て字を書いた本人以外、何と読むのか、

 どこのことか、だれも知らないのだ。

 しかし「コー・オマ・ゲン」と正しく読んでも、

 まだよく分からないと思う。

 ところが先に説明したように、この記事の部分は、

 南九州より南の地域での歴史だから、

 三母音の沖縄語で読まねばならない。

 を除いて

 「コー」は「ク」。
 「オマ」は「マ」。
 「ゲン」は「ギヌ」と読むと

 「クマギヌ」、沖縄の人ならすぐ「熊毛の」だと分かるのである。

 熊毛(クマゲ)というのは、屋久島と種子島など島々ばかりの、

 鹿児島県の南の海上の郡の名になっているし、

 山口県にも同じ名の郡がある。

 天照大神が山口県にいたという記録はないが、

 ニニギノミコトが「アマくだった」のが

 鹿児島の高千穂の峰だとされているから、

 その南方の熊毛地方なら地理的にもぴったりだ。


 「同時通訳だった『古事記』の筆者」

 これで古来、

 日本の歴史で最高のナゾとされてきた問題「高天原はどこか?

 というナゾ」は完全に解けた!

 それは『古事記』筆者が、せっかく親切に書いておいた注意を、

 まるで実行しなかった連中の、

 ばかげた読みソコナイがナゾを作りだしていただけで、

 なんのことはない、

 ごく分かりやすい地名への簡単な当て字にすぎなかったのである。

 ではなぜ『古事記』筆者は「熊毛」と書かなかったのだろう?

 それは彼にも本当のことが分からなかったからである。

 その筆者は『古事記』の序文を書いた

 「太安萬侶(おおのやすまろ)」だとされているが、

 その序文にはこう書いてある。

 稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱する古いお話を

  細かく拾い集めて編集しましたが、

  昔の言葉は素朴で、それを文章にするのに苦労しました。

  そのまま書いても何のことか分からないでしょうし、

  そうかといって詳しく説明していては、

  長ったらしくて読みづらいでしょう。

  だから便宜上、重箱読みも使うし、

  「音」だけを万葉ガナで書くこともしたのです」

 今、私たちが疑問に思ったことを全部説明している。

 彼はヒエダのアレが暗記していた話を、同時通訳して、

 それを元に『古事記』を編集しただけだったのだ。

 だから「アレ」の言葉がなにを意味するか、

 分からないまま「音」に当て字したものも多かったのである。


 「天照大神(オオヒルメのムチ)はどんな子だったか?」

 天照大神の政府が天空のどこかでなく、

 熊毛の島のどこかにあったことが、これではっきりした。

 では、彼女はその島の出身だったのだろうか。

 『記・紀』には次にように書いてある。

 イザナキ(伊弉諾)イザナミ(伊弉冉)のミコト(尊)が

 日本列島と山川草木を生んだ後、

 日の神を生みオオヒルメのムチ(大日霊貴)と名をつけた。

 一書では天照大神だという。

 その子は光り輝くように明るく美しく国中を照らしたので、

 二人の神様は喜んで

 「子供はたくさん生まれたが、こんなに不思議な子はいない。

  いつまでもこの国に置くより、早く天に送って、

  天上の仕事をさせよう」といった。

 そのころはまだ天地の距離が短かったので、

 天の柱を使って天上にあげたのである。

 次に月の神が生まれた。

 一書では月弓の尊、月夜見の尊、月読の尊という。

 その光りは日に次ぐので、日にそえて天上を治めさせようと、

 また天に送った。

 次に淡島とヒルコ(蛭児)を生んだが、

 蛭児は三年たっても足が立たなかったので、

 アメノイワクスブネ(天の磐楠船)にのせて、

 風のまにまに流して捨てた。

 このあとにスサノオのミコトの話が続くが、

 それは今は省略しておこう。

 それならなぜ、月の神やヒルコのことまで見たのか?

 その理由は次のページですぐお分かりになる。

 
 「桑幡家に伝わったもう一つ『オオヒルメ物語』」

 天照大神のオオヒルメという名は、変わった珍しい名前だが、

 実はまったく同じ名をもった「オオヒルメ」の、

 別の伝承がもう一つある。

 いま鹿児島県隼人(はやと)町にある鹿児島神宮は、

 「大隅(おおすみ)一の宮」、

 または「正八幡宮(しょうはちまんぐう)」という。

 先祖代々この神宮の神官だったという桑幡(くわはた)家に、

 『正八幡の縁起(えんぎ)』という古文書が伝わっている。

 それは昔の神社解説書『二十二社註式』や、『惟賢比丘(いけんぴく)筆記』にも写され、

 柳田国男氏の『妹(いも)のカ』でも紹介されている。

 加治木義博も『邪馬臺国の言葉』(1976年=コスモ出版刊)および

 県出身者の教養親睦誌『随筆かごしま』に

 1978年から7年間に亘って連載した


 ならびに「言語復原史学会」刊の『垂仁天皇の邪馬壹国』などで、

 くりかえし取上げているが、そのあらすじは次のようなものだ。

 「シンタンコク(震旦国)のチン(陳)大王の姫の

  オオヒルメ(大比留女)が、七歳で子供をみごもって

  王子を産んだ。

  王たちは驚いて父親はだれだときくと、

 『貴い人と寝た夢を見て目が覚めると朝日が胸にさしていました。

  その日から、なにか不安な感じの日が続くと

  思っているうちにこの子が生まれたのです』と答えた。

 王たちは悩んだ末に決心して小さな母子をウツロブネ(空船)に乗せ、
 身分を証明する印綬(地位を現わす王印と

 それを胸にさげるヒモがセットになったもの)をさずけて、

 『流れ着いた所を領地にしなさい』と祈りながら海に押し流した。

  船は流れて今の鹿児島県の大隅に着いた。

  その王子の名が八幡(ハチマン)なので到着点を八幡崎という。

  母のオオヒルメは筑前(福岡県)の若椙(ワカスギ)山に移って、

 のち「香椎聖母(カシイショウモ)大明神」と崇拝され、

 王子は大隅にいて正八幡宮に祭られた」というのである。

 ご覧のとおり「オオヒルメ」という名が、

 天照大神と同じ名であるだけでなく、

 幼い男女が両親と離れて暮らすという点や、

 ヒルコの話の子供が船で流されるというのとも共通している。

 また日の光が体にさして夫なしで子供を産んだというのは

 ヒメコソと共通し、そして生まれた子供が、

 共に「八幡」という名をもっているのは神功皇后と共通している。

 さらに直接、鹿児島神宮へいって調べてみると、

 表に信じられているのとは違って、主祭神は「ヒルコのミコト」。

 副祭神が神功皇后で、皇后の話にまつわる

 「海の潮の干満を左右する玉」も現存していて、

 特別に見せてもらった。

 こうしたことは「ヒルコ」と八幡とが、

 実は同一人だということになる。

 しかし違った点を研究しないで、

 それだけで「同じだ」と決めるのはまだ早い。

 この二人のオオヒルメは、生まれたところも、

 両親の名も違っている。

 これも同じものか、どうか?それを捨てておいて

 「同じだ。別の話だ」と決めることはできない。

 しかしチン大王という名も「天日矛」の話で

 明らかになったように、沖縄方言の「天=チン」と同じである。

 『記・紀』では、天照大神と月神は、

 その「天」に押しあげられたことになっていた。

 古代の話というものは、次第に食いちがうのは当り前なのだから、
 
 これだけ一致点があれば、

 もとは同じ一つの話が、変化しただけである可能性はある。

 こうした神話とされてきた伝承は、

 これまではいい加減に扱われてきた。

 徹底して研究しないで、ただ比較して、ちがった点があると、

 一応「別の話だ」とか、

 歴史とは無関係な作品「フィクション」だとして

 『神話』と呼び、

 ましなばあいでも「文化移動のしるし」ぐらいにしかあつかわずに、
 「歴史とは無関係」を証明することに努めてきたのである。

 しかしそのために真実の歴史がどれくらい隠され消されて、

 史学の進歩を「止めて」きたか知れない。

 この間題はこの本の生命なので、

 読者の皆さんにはとくによく分かってほしい。

 だから、さらに念を入れてみよう。

 同じ時に、同じ地域で、

 同じ名の人物が、同じ内容の複数の要素を、

 きちんとそろえている事件がヾ同時に多発することは、

 この世界では「絶対に」起こらない。

 一般に「他人のソラ似」や「偶然」と呼ばれるようなことが、

 ときたま起こるが、

 それはこの天照大神とオオヒルメの話のように、

 こんなに多く重なることはない。

 そして見落してならないのは、このヒメコソ、神功皇后、

 天照大神、オオヒルメの場合は、

 すべて「支配者」の事件なのだ、という点である。

 支配者は庶民とちがって、ごく限られた数しかいない。

 そのわずかな人々のあいだに、

 全く同じ名、同じ内容の事件が、同時期に、幾つも、

 くりかえし起こることは「絶対に」ないと思われる。

 しかし念を入れて、こんどは逆に考えてみよう。

 古い話は、時とともに変化し、尾ヒレがつき、

 次第に別の話のようになって分裂していく。

 それはごく自然な、当たり前のことである。

 それを後世になって比べてみると、

 違っている点がよく目につくことも当たり前である。

 そこでウカツ者はあわてて「区別」してしまう。

 しかしその時、これだけの原則が分かっていると、

 これらの分裂した話、

 ことに二つのオオヒルメの話は

 「千年を経ても、まだこのていどの変化しかしていない」

 ともいえるのである。

 それを頭から「作り話」だと決めてかかっていたから、

 日本の歴史は今に至るまで「世界の笑いもの」にされていた。

 皆さんは、そうした

 学問という名で行なわれた早ガテンをどう思われるだろうか。


 「天照大神の神代(かみよ)と卑弥呼の3世紀は同じ時代?」

 しかし若い読者は別として、

 昔の天照大神観(かん)が頭に残っている方には

 「しかし神代に入っている天照大神と3世紀の卑弥呼とでは、

  たとえ名前がぴったり一致しても、

  また話の内容がどんなに似ていても、

  かんじんの「時代」が違いすぎるのではないか?」

 と、まだ疑問の残っている方もあると思う。

 天照大神の話の中でよく知られているものの一つに、

 天孫降臨がある。

 ニニギのミコトに

 「ヤサカニ(八坂瓊)の曲玉」

 「ヤタ(八咫)の鏡」

 「クサナギ(草薙)のツルギ(剣)」

 という三種の神器を与えて、

 「豊葦原(とよあしはら)のミズホの国は

  我が子孫の君たるべき地なり、

  なんじ皇孫ゆきてしらせ…」といって、

 多くの家臣たちをつけて、日向の高千穂の峰にくだらせた、

 という話がある。

 この「鏡」はいうまでもなく青銅鏡であるが、

 「剣」は鉄製である。

 それは実物またはそのままのスタイルで

 複製(レブリカ)されたものが、天皇家その他に残っているから、

 その様式で鉄製の剣だったことが確認できているのである。

 だとすれば、天照大神はまちがいなく

 「青銅器時代の終り」「鉄器時代の始め」の人物なのである。

 ではもう一方の卑弥呼はどうだろう。

 彼女の記録でいちばん有名なのは、

 彼女が魏の皇帝から百面の

 「青銅の鏡」をプレゼントされたことである。

 それは3世紀で、239年のことだとはっきりしている。

 その時はまさに日本の

 「青銅器時代の終り・鉄器時代の始め」にあたっている。

 天照大神と卑弥呼の時代は完全に一致するのだ。


 「分かった卑弥呼の「出身地」!」

 しかし

 「天照大神の物語にしろ、オオヒルメの縁起にしろ、

  どうみてもおとぎ話じゃないか。

  とても実際にあった話だとは思えない」

 という声が聞こえそうである。

 もし本当に天照大神とオオヒルメが同一人なら、

 その両親は単に「イザナキ、イザナミのミコトだ」

 ということだけでは済まされない。

 もっと具体的な答が必要だということになるだろう。

 それはこれまでに得られた答えでは、同時に神功皇后の両親であり、
 なによりもまず、この本の主人公「卑弥呼」の両親なのだ。

 それがはたして分かるだろうか?

 これまでの調査で、私たちのヒロインは、まずその名前が、

 沖縄語の影響で方言化していることが分かった。

 またその行動範囲も鹿児島県の南の海上、

 沖縄県に至る南の島々であることも分かった。

 だとすれば、その島々の中に、

 ナゾを解くカギがあることはまちがいない。

 すべての島々を、

 一つ一つ検討してみると実に多くの手掛りが見つかった。

 卑弥呼がどこで生まれたか。

 彼女の両親がだれだったか、疑う余地もなくはっきり、

 完全に分かったのである。

 沖縄本島の北に沖絶県島尻郡という海域がある

 「海洋博」のあった本部(もとぶ)半島の真北だ。

 そこにイゼナジマ(伊是名島)という面積5平方km。

 人口2千人ばかりの島がある。

 全島でイゼナソン(伊是名村)、一村だ。

 沖縄語がどんな言葉だったか、思い出していただきたい。

 それは三母音語で、の発音がないのが特徴だった。

 だとすればこの島の名はナンダ……?

 「Izena]には「e」があるではないか……。

 これはいうまでもなく、当て字のほうが間違っているのである。

 1609年4月1日、

 島津軍に首里(しゅり)城を落とされて、

 表面は独立国のままだったが、

 実質的には属領になった沖縄は鹿児島からきた役人によって治められていた。

 鹿児島語は「aをe」と発音する。

 そのため本来「イザナ」だったこの島の名が

 「イゼナ」と発音されるようになった。

 それが後世には「eをi」と発音する沖縄語のくせで

 「イジナ」と発音されるように変わったので、

 本来の「イザナ」が忘れられてしまったのである。


 「イザナキ・イザナミのミコトは実際に存在していた」

 このイザナキ・イザナミの二神が、

 夫妻であることはよく知られているが、

 その名は最後の一字が違っているので、

 史学では「岐・美(キ・ミ)二神」と略称する。

 キが男性、ミが女性の名である。

 これは王のことを「キミ」といったので、

 それを二つに分けたのだ、というような説もあるが、

 それが沖縄語であることが分かれば、本当の意味はすぐ分かる。

 沖縄語では「キはチ」だった。

 そもそも「キミ」という発音がないのである。

 だから本来はこの「岐」の字は「チ」と読まなければいけない。

 チとは何か?

 彼は天照大神の父だったのであるから、

 「父を意味するチ」だったのである。

 「ミ」は女性だから、普通の古語なら「女(メ)」であるが、

 沖縄語だから「ミ」と発音されているのである。

 父に対して母でなく「女」なのはおかしいと思うのが普通だが、

 これは『記・紀』をみるとすぐナゾがとける。

 この二人は、男専女卑の始まりだったのだ。

 そこには女性が先に声をかけたりしたために、

 身体障害者のヒルコや淡島が産まれたので、

 以後、男を先にたてまつったという、

 今ならセクハラで有罪まちがいなし、という記事がある。

 そして事実、

 日本では系図に女性の名も記録しないような社会が

 現代まで続いたのである。


 「発見=イザナキのミコトの生活遺跡」

 「イザナキ」とは「伊是名の父」。

 「イザナミ」とは「伊是名・女」だったのである。

 この「父」の真意は、単に天照大神の父というだけでなく、

 「全・伊是名島民の父」すなわち「伊是名・王」を意味する。

 そして彼こそが、「卑弥呼の実父」だったのである。

 ではなぜ、彼は「オオヒルメの父」になると、

 まるで縁のなさそうな「震丹王」などと

 書かれているのであろうか?

 これは見落すことのできない「相違点」なのだ。

 それをいい加減にしてズボラをすると間違った答を出して

 後の人に「犯罪者扱い」されるのである。

 この名前は、だから伊是名・王ではない別の

 「震丹・王」として、改めて研究して、それでも一致すれば、

 はじめて同一人だと決めてもいい。

 それはこの話が進むにつれて、次第に明らかになっていくはずだ。

 伊是名島には今ではだれも記憶していなかった史実が実在していたのである。

 この島の名は後世のだれかが神話を実在らしく見せようと

 偽作した可能性はない。

 なぜならそんなことをして得をする者はいないし、

 第一、これまでそれが『記・紀』と関係がある、

 と思った者さえなかった。

 だれもそこに、

 そんな遺跡があるなどとは夢にも思わなかったのである。


 「天照大神を祭る伊勢は沖縄が本家だった」

 これで永く神話だとされてきた天照大神が実在の人物で、

 その出身地まで現存していることが証明された。

 しかし証拠としては、

 イザナキによく似た名前があったというだけじゃなと思う方が

 まだあるかも知れない。

 それに答える証拠は、まだまだいくらでもある。

 しかしそれはこの本の目的ではない。

 この本は一冊でヒミコのナゾを解くのが仕事である。

 だから右の疑問には、だれがみても後に疑問を残さないものを、

 もう一つだけ提出して終りにしよう。

 伊是名という名は島の名前だといってしまえばそれまでだが、

 それには何かの意味があるはずである。

 それを明らかにしておこう。

 これはそのまま読めば「イゼナ」であるが、

 濁音のなかった時代には何だったのか。

 それは「イセナ」。

 「ナ」は古代の「国を意味する名詞の一つ」である。

 先にお話したミマナ(任那)のほか、

 嘉手納、恩納、山名、猪名、伊那、稲、古那、与那国といった

 地名に今も残っている。

 これは「イセ国」で、漢字で書けば「伊勢国」だったのである。

 これでなぜ、天照大神が「伊勢の大神」だったかが分かったと思う。

 ではその「イセナ」の語源は?

  と次々にきりがないが、それもまた分かっている。

 でもそれは後の「卑弥呼の鬼道とは何だったか?」の説明に

 必要だし、分かりやすいので、そこでお話することにする。

 
 「「天へのぼる話」は、ごく常識的!」

 さきに天照大神と月神の生まれたときのお話を簡単にしたが、

 あれは『日本書紀』にある話の一つで、

 『古事記』になるとガラリと変わって

 「イザナミのミコトが死んだあと、

  イザナキのミコトが左目を洗うと天照大神が、

  右目を洗うと月読のミコトが、鼻を洗うとスサノオのミコトが

  生まれた」と書いてある。

 しかしこれは、いかにもおとぎ話で、

 『日本書紀』の話のほうが原型であることが分かる。

 『日本書紀』の話で、その内容を分析する。

 両親は子供たちを、「天上の事」をさせようと「天」へ送った、

 と書いてあったが、それを沖縄語の知識を使って読むと、

 こういう意味だったことが理解できる。

 「天上」=チンヅウ=本土語のシンドウ。

 これは「神道」と当て字できる。

 「天」=チン。沖縄語で沖縄のことを「ウチナ」と発音するが、

 これは「大天」と当て字できる。

 そして「天に上げる」は、

 今でも首都へ向かうことを「ノボリ」といい

 「地方から来た人」の意味で

 「おノボリさん」というのと同じことである。

 だからこの話は、伊是名島(伊勢の島)から、

 当時首都だった「沖縄本島へ神道に従事させにやった」

 という常識的な記録だったのだ。

 そして沖縄本島までは約20km、

 肉眼でもよく見えている距離にあったのだから、

 楠で作った丸木船で充分だったのである。


 「「鬼姫」が攻めてきた遠い記憶」
 
 この常識的な話が、

 歴史的な「大展開」をしたのはナゼだったのだろう?

 それは沖縄本島 へ送られたオオヒルメではなく、

 八幡の母の方が別のところへついたためだった。

 どこへ着いたか?

 それは『正八幡縁起』は大隅に着いたという。

 だが大隅地方は県の東半分を占めてい見たところ

 東京都や大阪府ぐらいある。

 その中のどこへついたというのだろう? 

 そこには鹿児島湾に面した大根占(オオネシメ)という町がある。

 さきに鹿児島の方言は、

 大隅側は沖縄語の影響が強いとお話したが、

 この名は地元では「オニシメ」と発音されている。

 これに当て字すると「鬼姫」という名ができる。

 これは怖い名だが「鬼道」と書かれた卑弥呼の仕事と、

 なにか共通する名でもある。

 また広東語などの南中国語では、「倭人」を「オニ」と読む。

 とすれば確かに卑弥呼も天照大神も神功皇后も、

 名実ともに「鬼姫」だったことはまちがいない。

 皆、よろいかぶとに身を固めて、

 戦争をした記憶をもっているからである。

 そしてこの地方では、幼児が夜遊びをしたり、

 いうことをきかないと、

 「ワンがくっど(ワニ=倭人が来るぞ)」といっておどかす。

 いまもなお、潜在意識の下に、

 かつて倭人が攻めてきて上陸した記憶が残っているのである。


 「ほかの人の記憶が混じったか?」
 
 しかし、恐怖の記憶が残っているのは、

 「幼児の姉弟が流された」という天照大神の話と、

 「七歳で子供を生んで流された」という「正八幡縁起」の話との、

 二つの『オオヒルメ物語』のイメージとは、たいそう違っている。

 これはどうもおかしい……。

 この疑問は、やはりその

 「大根占(おおねしめ)」という名がといてくれる。

 この「根」という文字は古代と同じく

 「タラシ」と読むと意味の通る名前になる。

 (それは重要な語源があるためだが、

  本書の後の部分に読者がかならずピックリなさるような

  すごいお話の目玉として残してある)

 大根占は「オオタラシシメ」とも読まれる。

 これに当て字した

 「大帯姫」「大足姫」という名は神功皇后の別名として、

 全国の多くの神社の祭神名の中に残っている。

 もうお分かりのように、

 そこへ攻めこんだのは「皇后」だったのである。

 皇后は生後すぐに移動したのではなく、

 仲哀天皇と結婚後、分かれて移動している。

 それは『天日矛』や『ツヌガアラシト物語」でみたように、

 少なくとも一人前の少女になっている。

 そして他人の助けを借りずに自分で「ヤマト」へ帰った。

 これは明らかに「生まれ故郷」から「天」に昇ったり、

 大隅に流れついたりしたオオヒルメの話とは、

 少し食い違っている。

 とするとこれまで無条件に

 「オオヒルメと同一人」だとしてきた神功皇后の話には

 似てはいるが、別人の話が混じりこんでいるのかも知れない。

 それは古い話につきものの「尾ヒレ」のイタズラもあるが、

 考えられるのは「卑弥呼の後をついだイチヨ(壹與)」のことが、
 
 同じ名乗りのために区別できずに混じりこんでいるだろう、

 ということである。

 この点をよく注意する必要がある。

 しかしその事件が本当にあったという証拠は、

 大根占という地名のほかにもたくさんある。

 ついでにみておいていただきたい。

 大根占にとなりあって「根占」というところがある。

 これは沖縄発音なら「ニシメ」。

 沖縄発音では「ニシメ・西銘」という姓は有名だ。

 また八幡崎は鹿児島では

 「ハッマンザッ」これの当て字は「浜崎」。

 大根占には今は故人になったが地元の名門で

 県会議員にも選ばれた私の親友、浜崎隼人氏がいた。

 「オニ」は沖縄語は「ウニ」。

 沖縄の海には、あのトゲだらけのウニの仲間で、

 太い角をもった恐ろしげなのがいるから語源は同じだと分かる。

 ところが人間の「ウニ」さんもいる。

 「宇根」と書く。これは沖縄語

 「大はウ」だから「大根=オオタラシ」。

 やはり歴史的な、重要な苗字だったのである。

 タラシといえば「天照」も沖縄語では「チンタラシ」。

 これは有名な郷土民謡「アサドヤ・ユンタ」にある。

 「チンダラ・カヌシヤマよ」というのは、

 「死んだら神様になる」というのではなくて、

 「天照大神様よ」という祈りの言葉なのである。


 「方言や名前も目にみえない無形の文化財だ」

 ほかの人の「いい伝え(伝承)」が混じっているにしても、

 その通りの地名や、特別な姓が、

 今もそのいい伝えどおりの場所にはっきり現存しているのである。

 こういった貴重なものこそ本当の「史的文化財」なのだ。

 決して「形のある」発掘品や、遺物だけが歴史遺産ではない。

 また「芸能や技術」だけが「無形文化財」なのでもない。

 私は大阪府の文化財保護の審議委員をしていた当時、

 おりあるごとに、

 新聞や雑誌、著書の中でその重要性を訴え続けた。

 またそれによってはっきり重要な歴史遺跡だと分かったもの、

 例えば大阪府の河内、和泉地方にある「溜め池」が、

 どれほど大切な歴史遺産であるかを新聞紙上で訴えたりした。

 しかし無学な公務員たちは、

 そんなことは理解もできずに勝手に壊したり無くしたり、

 地名を変えたりして、跡形も残らないようにしてしまった。

 それはどんなにピカピカの金メッキの王冠や靴よりも、

 はるかに貴重な人類の宝だったのに……。

 そしてそれ以上に、やはり無形の

 「方言や地名・苗字」というものが、

 どんなに大切な古代遺産だったか…ということが、

 今、皆さんにはお分かりいただけたと思う。

 これまでは「方言」は「いなかっペえ」の証拠で、

 「なまり」があることは恥かしいことだと思われてきた。

 そして幼稚なコメディアンなどが「ヘタに真似て」、

 あるいは「自虐的にわざと使って」

 おっさん、おばはんを笑わせてきた。

 しかしその笑いのなんと下等だったことか……。

 そんな連中にかぎって、フランス語や英語が話せると、

 立派! だとか、

 上品! だとか、

 偉いとか感じてきた。

 しかしちょっと考えれば分かることだが、

 外国語というのもやはり「方言」にすぎないし、

 東京語だって「方言」にすぎない。

 それなのに今では、

 明治のばか者が考えた「標準語政策」が、

 貴重な「日本人の宝」をゴミ同然に捨て続けて、

 どこへいってももう大変な老人以外、

 本当の「方言」を話せる人はいなくなってしまった。

 そうした人こそ、

 「トキ=日本人が絶滅させてしまった鳥、

  皮肉にもニッポニア・ニッポンという学名がつけられていた」

 よりも、はるかに貴重な人なのである。

 その人たちがトキのように「絶滅」したとき、

 私たちは先祖の残した日本の歴史の証拠を「半分」失うのである。

 そして「国を無くした、かつてのユダヤ人」のように、

 「歴史を無くしたみじめな集団」になり下がるのである。

 それは今、くいとめなければ永久に「悔い」を残すのである。

 開発という言葉が実は正反対の

 「発開=ハ・カイ=破壊」だったように、

 私たちの「かけがえのない宝」を「無知」が破壊し続けている。

 そしてそれを「エライ人」が指導しているのである。

 彼等はあと数年後には、彼等の罪が洗いざらいさらけ出されて

 「汚職以上に非難攻撃される時代」がくることを知らない。

 罰せられて当然ではあるが……。


 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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2011年6月2日木曜日

日本にやってきた『角のある王子』の物語


※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ヒミコ・プロブレム
真説:日本誕生 黄金の女王卑弥呼
26~46頁






「ヒミコは神功皇后と同時代か?」

本居宣長は著書の中で

「卑弥呼とは姫児のことで『古事記

(本当は『日本書紀』の一書)の神代の部分にある


萬幡姫児玉依姫命]などの名の中にある

姫児と同じだとしでいるが、

かんじんの卑弥呼がだれかについては、

「南九州地方で勢力のあった熊襲などの類(たぐい)の女酋長で、

当時有名な神功皇后のことを聞き伝えて、

その使いだとウソをいって魏に使者を派遣したものだと思う」

といっている。

だから本居宣長説は

「卑弥呼は熊襲のカシラだ」というものなのである。

ここで重要なのは、
彼は卑弥呼を「神功皇后と同時代」の人間だとしている点である。

彼はなにを根拠に

「卑弥呼と神功皇后は同時代だ」と決めたのであろうか?

このナゾの答は「日本書紀」の神功皇后のことを書いた部分

(史学では略して「神功皇后紀」という。

他の天皇たちも同じように略称する)に、

本文ではないが例の割り注(但し書き)として小さな字で、

次のように書きこみがしてあるからである。

39年。魏志云、

明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等詣郡……(以下略)

40年。魏志云、

正始元年、遣建忠校尉 梯儁(ティシュン)等……(以下略)

これは『魏書倭人章』を写したもので、

だれがみてもその年の記録のようにみえる。

「この部分は後世の人のメモ的な書きこみだ」という説もあるが、
最初から書いてあったとすれば、

『日本書紀』の編集者が知っていた知識か編集前の古記録に

書きこんであったものだから、

理由もなく「後世の人の書きこみだ」ということは、

せっかくの記録をドブに捨てるような行為で許せない。

どちらが正しいかは、もう少し読んでいただければ分かるはずだ。


「肥前風土記に書かれた女神ヒメコソが」

記・紀』には、

これ以外に「ヒミコ・ヒメコ」に一致する名は見つからないから、
『記・紀』と同じころに編集された『風土記』を見てみると、

肥前国風土記』の松浦(まつら)郡の件に、

「ひれふる(摺振)の峰」というのがあり、

弟日姫子」という名がでてくる。

この人物は、有名な[松浦佐用媛(マツラ・サヨヒメ)]と

同じ場所、同じ話なので、

相手の[大伴狭手彦(オオトモ・サデヒコ)]は、

ずっと後世の宣化(せんか)天皇の時の

武将だということになっている人物だ。

これも卑弥呼とは関係ない。

だが同じ『肥前国風土記』の基肄郡(キのコホリ)の部分に

姫社郷(ヒメコソ)」というのがでてくる。

これもソは余分だが「ヒメコ」がそろっている。

調べてみよう。

この部分にある話は、

この名が女神のものであるという以外、

余り参考にならないので省略して、

その女神とはいったいどんな神なのか調べてみよう。

それは『日本書紀』の「垂仁天皇紀」にでてくる。

こんな物語だ。


「垂仁天皇紀の不思議な『比売語曽物語』」

ツヌガアラシト(都奴我阿羅斯等)という人が、

黄色い牛に農機具類をのせて田んぼへ行く途中、

ちょつとしたすきに牛が消えてしまった。

そこでさがしわまったところ、

ある村で一人の老人が牛のことを教えてくれた。

「あんたがさがしている牛はここへきましたじゃ……。

村長らは『背中に刃物をのせてるところをみると、

殺して食べるつもりだから、もし返してくれという者がきたら、

なにかで弁償すれば済む』といって、食べてしまいましたワイ。

だからあんたはお金や物より『この村の神様をくれ』

といいなされ……」という。

アラシトがそのとおりいうと、村長らは白い石をくれた。

それをもって帰って部屋のなかにおいておいたら、

美しい少女になった。

アラシトは大変よろこんだが、ちょっとよそへ行っているまに、

いなくなってしまった。

びっくりして奥さんにきくと

「東のほうへ行きましたよ」という。

そこで、あとを追って、

とうとう海を渡って日本(ヤマト)にまできてしまった。

少女のほうは難波(ナニワ)に着いて

比売語曽の社(やしろ)の神様になり、

また移動して豊国のクニサキ(国前)郡の

比売語曽の社の神様になった」という話だ。

まるでタアイもないおとぎ話だが、

こんなものが日本の正史である『日本書紀』の、

天皇の歴史のなかに、

大きなスペースをさいて掲載されているのである。

これはきっとナゾ解きのキーになるぞと思って、

戦後すぐ、大阪市東成区にある比売碁曽神社へ行ってみたが、

それは日本中どこにでもあるような氏神様でしかなかった。


「日本にやつて来た「角のある王子」の物語」

なぜ、そんなおとぎ話が『日本書紀』にのっているのか……。

このナゾの答は、その話の前の部分にある。

そこにはツヌガアラシトについて、

さらに許しい情報が書いてあるからだ。

「崇神天皇の時代。

額に角のある人が船でコシ(越)国の

ケヒ(笥飯)の浦にやってきた。

土地の人があんたはだれか、と尋ねると、

「私はオホカラ(意富加羅)国の王子でツヌガアラシト、

別名をウシキアリシチ・カヌキ

(于斯岐阿利叱智干岐)という者です。

日本には聖天子がおいでになると聞いてやってきました。
アナト(穴門)に着いたとき、

イヅツヒコ(伊都都比古)と名乗る人が、

「わしがこの国の王だ。

わし以外に王はいない。

ほかへ行くことはない」といいましたが、

彼のようすは、どうみても王様らしくないので、

そこを出てあちらこちらたずね回って、

出雲を経由してやっとここへやってきたのです」と答えた。

ところがその時は、もう崇神天皇の治世ではなかったので、

垂仁天皇につかえて3年たった。

そして国に帰りたいというので天皇は、

「君が道を迷わなければ崇神天皇にも会えたのに

残念だったと思う。

だから今後は君の国の名を

ミマキ(御間城=崇神)天皇の名にちなんで変えてはどうか」

といった。
その国をミマナ(彌摩那)というのだ。

また天皇は赤い絹をプレゼントした。

ところがシラギ(新羅)人が攻めてきて、

その絹を全部とってしまった。

これが二つの国が憎みあうようになった始まりだ

という話である。


「またまた別名、ソナカシチ」

この王子は「別名をもっている」と話したが、

もう一つ前にも、もう一つの別の名が出てくる。

「ミマナ(任那)の人、ソナカシチ(蘇那曷叱智)が

「国に帰らせてください」と願いでた。

これは前の天皇の時にきて、まだ帰らずにいたのか。

そこで天皇は赤い絹百巻をミマナ王へ土産にもたせて帰した。

ところがシラギ(新羅)人が途中で、その絹をとってしまった。

二つの国が仲が悪くなった原因はこれだ」と書いてある。

これは「名前」と

「前の天皇のときに来た」というのとが違っているが、

そのほかは全くいっしょで、同じ人物の同じ話だと分かる。

では「崇神天皇には会えなかった」というのと、

「前の天皇のときに来た」というのと、

一体どちらが正しいのだろう。

その答は「崇神天皇紀」の六十五年のところに書いてある。

「六十五年の秋七月、ミマナ(任那)の国の

ソナカシチが使者として貢ぎ物をもってきた。

ミマナとはチクシ(筑紫)国の北、

海をへだてたシラギ(鶏林)の西南にある国だ」。


それから三年あとの六十八年に死んだことになっているから、

「前の天皇のときに来た」というほうが正しいことになる。

これで分かることは、日本の「正史」だからといって、

『日本書紀』は絶対は正しい真実だけが書いてあるとはいえない」

ということである。

同じ話だと分かるものでさえ、

こんなにたくさんな食い違いがある。

だから今のこの話だって、

まだまだ真相は分からないと思っていい。

しかし、それは『日本書紀』を編集した人たちが悪いのではない。

彼等は真剣に多くの史料を集めて書き残してくれたのであり、

その元の史料の記録がちがっていただけである。

それを勝手に訂正せずにそのまま残したのは、

立派な歴史家だと誉めねばならない。


「恋人を追つて日本にきた『ヒホコ王子物語』」

さてソナカシチは別名を幾つももっていて、

どれが本名だかさっぱり分からない人物だが、

『古事記』をみると、

まだもう一つ別名をもっていたことが分かる。

その名は、アメノヒホコ(天の日矛)だ。

応神天皇記」の中にあるその物語はこうだ。

「昔、シラギ国主の子に天の日矛というのがいた。

彼は日本にやってきたが、なぜやってきたかというと、

その訳はこうだ。

シラギにアグヌマ(阿具沼)という沼があって、

ある娘が昼寝をしていた。

ある男がそれを見ると、

日の光がまるで虹のような七色に輝いてその体にさしている。

男はそれを不思議に思つて気をつけていると、

その娘はそのときから妊娠し「赤い玉」を産んだ。

そこでその男はその玉を譲ってもらって、

布に包んでいつも腰につけていた。

彼の田は谷間にあったので、

田で働いている人たちの弁当を牛に積んで谷に入ったところ、

そこで天の日矛王子に出会った。

ところが王子は、
「お前は食料を牛に積んで山の中へ何しにいくんだ。

みんなでこの牛を殺して、ないしょで食おうというのだろう」

といって、その男を捕まえて監獄に入れようとした。

男は、
「いいえ、牛を食べようというのではありません。

田んぼの連中に昼飯を運ぶところです」

と訴えたが許してもらえそうもないので、

大切にしておいた例の「赤球」を差し出して、

「これを上げますから、どうかゴカンペンを……」と泣きついた。

王子はそれで許して、赤玉をもって帰って部屋におくと、

なんとその玉が美しい娘になった。

そこで結婚式をして妻にしたが、料理がじょうずで、

いつも気をつけて夫を大切にあつかったので、

王子はだんだんうぬぼれがでて、妻にいばりちらし、

大声でどなりつけたりするようになった。

ところが、その妻は

「私はもともと、あんたなんかの妻になる女ではない。

私は私の先祖の国へ行く」

といって家出してしまった。

そして、ひそかに船にのって日本に逃げてきて、難波に住んだ。

(これが難波の比売語曽社にいらっしゃる

アカルヒメ(阿加流比売)の神だ)

天の日矛王子はそれを追って日本に渡ってきて

難波にいこうとしたが、その港の長官が邪魔して

入国させてくれない。

そこでしかたなく帰るとみせて、

大回りして多遅摩(タジマ)国へいったが、

そのままタジマにいて多遅摩の俣尾(マタオ)の娘、

前津見(サキッミ)と結婚して子供が生まれた。

その子は……」と、次々に子孫代々の系図が書かれている。

これでお分かりのように、天の日矛も、

やはりツヌガアラシトの別名の一つだったのである。

話の内容は、ここでもずいぶんちがっているが、

かんじんのヒメコソの名前が

「アカルヒメ」だということも分かったし、

彼女の先祖が日本人だということも分かった。


「お話も名前もなぜこんなに変わるのか?」

でもなぜこんなにも、人の名前や話が変るのであろうか。

それを永年かかった調べてみると、

やはり先にお話した沖縄語などの言葉によるものだったのである。

このツヌガアラシトという人物は、

ヒミコその人ではないので本題からそれるが、

ヒミコとは最後まで重大な関係にある人物なので、

もう少し詳しく、しかし手みじかにお話しておこう。

「ツヌ」これは沖縄語では「角」のことである。

「ガ」はいうまでもなく「○○が…」

というときに使う助詞である。

「アラシト」は、

この「角が…」という言葉を受けているのだから

「有る人」の訛ったものだとすぐ分かる。

人をシトと発音するのは、

東京周辺や南九州では今も日常、耳にする言葉である。

ここで少し古代の言葉について新しい情報を提供しておこう。

それは「我(ガ)」は、

古代には「カ」と濁らずに発音していたという話である。

お正月に付き物の『小倉百人一首』には、

一つも濁点が打ってない。

「淋しさに、宿を立ち出で眺むれば、

いづこも同じ秋の夕暮れ」は、

「さひしさにやとをたちいてなかむれは

いつこもおなしあきのゆふくれ」と書いてある。

今の言葉なら幾つ濁点が抜けているか数えてほしい。

このことは平安時代の人たちが書き残した他のものでも分かるし、

またそれ以前の

『万葉集』でも分かる古い日本語の特徴なのである。

また沖縄語では「ツ」を「チ」と発音する場合も多い。

「天津乙女」は「アマチウチミ」と聞こえる。

だから先の「都怒我」は沖縄語で読むと1チヌカ」なのである。

この「チヌカ」も耳で聞くと「チンカ」に聞こえる。

そこで今、沖縄の人に「チンカ」と言って、

それを漢字で書いてもらうと、十人が十人みな「天下」と書く。

これで分かることは、

沖縄の人たちには

「都怒(チヌ)」と「天(チヌ)」とは同じなのである。

ここまでわかると「日」もまた「カ」という発音をもっている。

「天日矛」の「天日」は「都怒我」と同じものだったのである。

では残る「矛」はどうなる? これも何かと同じなのだろうか。

これを説明するには、先にもう一つの別名

「蘇那曷 叱智(ソナカシチ)を片付けるほうが便利である。

これを見やすいように

「都怒我阿羅斯等」と並べて、見て戴きたい。 
ソナカ シチ(阿羅の部分がない)

ツヌカ シト

よく似ていることは一見して分かる。

しかし<ソ>と<ツ>が同じ言葉から変化するだろうか?

分かりやすいようにだれでも知っている英語の

「The」を使って説明しよう。

このスペルをローマ字読みすると

「テヘ」か「テ」としか読めないのに、

実際には「ザ」とか「ジ」とか「ゼ」と読んでいる。

この式でいくと「タ」「チ」「テ」とも読めることになる。


「「ZU」の音を聞いて、ヅと書くかズと書くか?」

今度は「zu」を見ていただきたい。

これは普通なら「ヅ」か「ツ」と読むが、

フィリピンやスペインや中南米の人は1ス」と発音する。

このように「ツ」と「ス」は簡単に入れ変わる発音なのである。
「しかし日本語の場合は?」

と疑問に思うかたは、次の私の質問に答えていただきたい。

今、例としてあげた

「zu」は「ヅ」か「ズ」か「ツ」か「ス」か?

「ズイズイ、ズッコロバシ、ナマミソ、ズイ」は

これで正しいのだろうか。

「ヅイヅイ、ヅッコロバシ、ナマミソ、ヅイ」

ではないのだろうか。

それとも

「酸い水(すい)、突っころ箸、生ま味噌、吸い」なんだろうか。

それとも「ついつい術転ばし、生身そ、つい」なんだろうか。

百人一首が証明したように、

古代日本に濁音を使わない人たちがいたことは確実だが、

その人たちが「zu」の音を聞いたとき、

やはり今のあなたのように、

それを「ツ」と書くか「ス」と書いてしまった。

しかし、それはその人たちがお互いに遠く離れていて、

方言がちがっていたためではない。

なぜそれが分かるか。

それは本土の人間なら

「ト」と読む「都」を「ツ」の音に当てているし、

本土の人間なら「ソ」とよむ「蘇」を「ス」に

当てているからである。

この字は『日本書紀』編集当時の唐音では「ス」だったのである。

ソのかわりにスを使うのは「oとe」のない三母音語の特徴で、

沖縄系の人たちしか使わない当て字である。

また「シト」と「シチ」を比べてみれば、

「ト」は三母音ではないから、この名のほうは、

沖縄と本土の言葉が入りまじっている地域、

先に検討した大隅地方で書かれたものだし、

同じものを「チ」と当て字したのは、

まちがいなく純粋の沖縄語地域の人の記録だと分かるのである。

「シチとホコが同じなのは『書紀』よりも古い記録のせい」

これらの別名の記録は、最初から奈良県で書かれたものではない。

それは奈良県で編集された『日本書紀』の中に、

あとで取りこまれただけで、

原文はもっと古い時代に沖縄や南九州で

書かれたものだったのである。

そのことは次の主題である

「シト」「シチ」「ホコ」の関係でも、

じゆうぶん証明されている。

「シト」は「ヒト」の鹿児島なまりであるし、

「シチ」は「シト」の沖縄なまりである。

そして「ホコ」は、この二つとは別物のようにみえるが、

これもまた同じものの変化したものである。

東京周辺と鹿児島県で「シ」と「ヒ」が入れかわることは、

もう一度説明するまでもないと思う。

だからこれは「火」という文字を当てても、

少しも不都合はない。

この「火」は古代には「ホ」と発音されていたのである。

神武天皇の名は「ヒコホホデミノミコト」で、

『日本書紀』では「彦火火出見尊」と書いてあるが、

この「火」が「ホ」と読まれるのは、

『古事記』に同じ名を「日子穂穂手見命」

と書いているからである。

また「木」は、

木の花開耶姫」「コのハナサクヤひめ」

と読むのでも分かるように 「コ」とも発音するし、

沖縄語では「君」を「チミ」と発音するように、

「キ」は「チ」になる。

「火木」と書いたものは、

「ヒコ」「ヒキ」「ヒチ」「シコ」「シキ」「シチ」

「ホコ」「ホキ」「ホチ」と読めるのである。

「ト・ツ・チ」の変化は先にお話したから思い出していただきたい。

これでこの主人公名の、後のほうについている部分のナゾが解ける。

並べてみよう。

都怒我 阿羅 斯等    シト┐
ツ├都
蘇那曷    叱智    シチ┘
火木
天日     矛     ホコ


「「有る」が「ナイ」話」

こうしてみると、まだ一つ分からない部分が残っている。

それは後の二つには「阿羅(アラ)」の部分がないことだ。

これは蘇那曷の「曷」の字は、

「アッ」という発音もあることで解ける。

鹿児島方言では「有・在」という意味の

「ある」を1アッ」と発音する。

また都怒我の「我」は「角が」という場合の

「ガ」という助詞と見られていた。

こうした助詞は古代には書いたり略されたりキマリがなかった。

だから「曷」の字は、いろいろに解釈されて別名を生んだ。

この間題は、まだまだたくさんな研究材料と答があるが、

この本では幾らおもしろくても脱線になるので、以上でやめよう。

まだ一つつけ加えておく必要があるのは、

この「アル」という言葉が、

わざわざ加えられた「角が有る人」という解釈には、

もっと重要で意味の深い「決定的な答」がある。

ということである。

それはこの本の一番最後でお話する。

蘇那  曷 叱智     ソナカ    シチ

蘇那ガ 曷 叱智     ソナガ アッ シチ

スナガ 有  シ都    スナガ アィ シッ

都怒我 阿羅 斯等    ツヌガ アラ シト

角我  阿羅 斯等    ツノガ アラ シト


「女神ヒメコソの夫の本名は王子「スナカ」」

これで、このヒメコソの夫の名は、

元は一人の人間で、一つの名が、

「間違い」によって「分裂」したものだったことが確認できた。

では、これまで見た名のうちどれが最初の「本名」だったのだろう?

天の日矛は、

「都怒我」を「チンカ」(正確にはティンクァに近い)

と読んだ発音につけた当て字だから、

いうまでもなく都怒我のほうが先である。

都怒我阿羅斯等の「斯等」は語尾にがあるから、

純粋な沖縄語では使わない文字であるが、

「叱智」は沖縄語の発音だから、

都怒我阿羅斯等という文字は

「完全な沖縄語の名である(スナカシチ)」という名を

スをツと訛って、

沖縄語と鹿児島語の発音を「ゴチヤまぜ」にして写したものである。

この逆のことは起こらないから、

これでスナカシチのほうが先だったことがはっきり分かる。

本名は「蘇那曷叱智」だったのである。

このことには、この「発音の流れによる順序」だけでなく、

もっとしっかりした証拠がある。

それはこれまで見てきた「お話」はどれもこれもが、

「よその国からやってきた流れ者の、

まるでおとぎ話のような、頼りない聞き書き」

に過ぎなかったが、

この「蘇那曷叱智」には別に実に詳しい、

立派な「歴史記録」が残っているからなのである。


「その王子は、神功皇后の天・仲哀天皇?」

従来「オキナガ・タラシ・ヒメ」と読め、

といわれてきた神功皇后の名は、

『古事記』では「息長帯比売命」と書いてある。

この文字をよく見ていると

「息長」は「ソク」と「ナガ」で普をとると「ソクナカ」になる。

これは古代の当て字だから

「息」は「ソ」に対する当て字である場合もあるし、

また沖縄で当て字をした場合は「ス」に対する

当て字である場合もある。

とすれば、これは「スナカ」にいちばん近い名だということになる。

しかし彼女はいうまでもなく女性だから、

蘇那曷叱智(スナカシチ)と比較するには、

その夫の仲哀天皇のほうを調べなければいけない。

するとすごい答が出たのである。

この天皇の名は『日本書紀』に「足仲彦天皇」と書いてある。

これをよくみると「足はソク」だから「息ソク」と同じこと。

「仲ナカ」は「長」よりも濁音がないだけ、

よけいに「スナカ」に表している。

従来は、

この名は「タラシ・ナカツ・ヒコ」と読めと教えられてきた名だ。

しかし夫婦で、まるで別の名というのはおかしい。

「ソナカ」か「スナカ」と読めば、

はじめて夫婦が同じ家の家族だと分るのである。

これは従来の読み方、教え方が、

とんでもないデタラメなものだったことをはっきり立証している。


「間違いだらけの天皇名の読み方」

しかし『記・紀』には、もう一つずつこの夫妻に

別の当て字をしている。

帯中日子天皇」というのは『古事記』。

気長足姫尊」というのは『日本書紀』である。

これはどちらも、

どんなにしても「スナカ」「ソナカ」とは読めない。

ではこれは『記・紀』の編集者が、天皇家のことを思って、

天皇が「新羅王子だった」というような奇妙な

真相が分からないようにと、わざと別の字を選んでつけたのであろうか?

そういえば、

『古事記』と『日本書紀』とで、

どちらも一つずつ食いちがっていて、

片方だけではナゾが解けないようになっている。

わざわざ、そうしたと勘ぐれば、あやしく思えないこともない。

しかしこの後の二つも実は、単に真相を隠すため、

小細工して文字を変えたのではないようである。

なぜならそんなに厄介な話なら、

わざわざ1天の日矛」の話などを幾重にも収録しなかったはずである。

それこそ切り捨てても、だれにも分かりはしなかったのだから……。

そしてもう一つの理由は、この後の二つの名も、

それらの別名と同じように、

やはり理由のある重要な名だからである。

それは次のような構造になっていたのだ。


「ソナカの変貌」

*=本名 〈 〉内は間違った読み方

Tsurukalninのパーリ語ナマリ

*Sonaka 蘇那曷 叱智
足仲  彦  →(↓タリナカ=下の鹿児島語の原音)
タラシナカツヒコ→タイナカ=大中=帯仲=胎中

 Sunaka 須那迦 アショカ王の東方宣教団法王(『善見律毘婆沙』の用字)

    Sonaga 息長                 →Sunaga 須永・砂川
オキナガ
牛   于斯岐・阿利叱智・干岐〈カヌキ〉
(ソ=朝鮮語)→ウシキ    シチ・ヒキ(ヒキ=日本=ヒコ=日子=彦)
津            (沖縄語ではキ=チ=津=の)

    Tsuruka …… alnin
  (有人)

    Tsunuga 都怒我・阿羅斯等                  →Tsuruga 敦賀
  (角が)

    Tsinuga 気長                (沖縄語はキをチと発音)
オキナガ            チヌ国=金 国=沖縄
キヌガ         →木の花・紀の国・紀伊・支惟国・絹が
チヌカ・ 日木

Tsinuka 天 日・ 矛 アメノヒボコ→茅沼海・姐奴国
↓   ホコ ↓
ヒコ
    Tenchi   天 椎・ 彦 アメノワカヒコ  →      天若日子

    Tsinuki[火葦北]・阿利斯登(「敏達天皇紀」)→Tsunagi    津奈木

    Tenka   天 日・ 人 テンカビト    →       天下人


「帯」の字は先の例でタラシと読まないとすれば、

後は「タイ」か「オビ」である。

これは、とても何かの意味がありそうにもない。

しかし「タイ」を鹿児島方言化して「ティ」と読むと、

「ティナカ」になる。

これなら沖縄では「チンカ」に変わるから、

「天の日矛」の「天日」と同じになる。

では皇后のほうはどうなるだろう?

「気」は沖縄語で「チ」になることは、

先に「君=チミ」といった例でお分かりいただいたとおりである。

だから「気長=チナカ」。

これもやはり

「チヌカ=都怒我」「チンカ=天日」への当て字だったのである。

では「彦・日子」はどうなるか。

もうお分かりだと思うが、「日木」と書けば

「ヒコ」とも「シチ」とも読める。

完全に名前の全部が一致するのである。

これで先に語源だとした別名の本当の出発点が分かった。

それは他の名前では、夫妻が別々だったが、

この天皇夫妻では、どちらも同じ

「ソナカ」「チンカ」で一致して

ワン・セットそろっているからである。

過去に「タラシナカツヒコ」とか

「オキナガタラシヒメ」と読めと教えられていた名前は、

全然関係のない架空のものに過ぎなかった。

そんなもので古代史のナゾが解けるわけがない。

これで、これまで何となく頼りなかった

わがヒロイン「ヒメコソ」女史は、ナゾのヴエールを脱ぎ始めた。

そして新しい手掛り「ソナカ」という名前が、

ライト・アップされて浮かび上がった。

それはまだまだ「卑弥呼」には遠いが、

ヒメコソの名はかなり強いウエイトを持ちはじめたことを

お感じになると思う。


「ヒメコソと神功皇后がピタリ一人に!」

しかし名前がピッタリ同じだとしても、

その「内容」がちがっていては、何にもならない。

この点をたしかめてみよう。

先にみた「別名たち」の記事は、細かい点で多少くいちがったが、
大切なところは同じだ。

それは、

1 女性が「不思議な超能力の持ちぬし」だったこと。

2 女性と男性は別々に船でヤマトヘくる。

3 男性は角我(ツヌガ)の笥飯(ケヒ)にくる。

4 女性は神として祭られていること。

5 その名は「ヒメコソ」という神として祭られていること。

*(従来は比売語曽・比売碁曽と書いてあっても、

ニゴらずに読むことになっていた)といった点で一致していた。

では仲哀・神功夫妻のほうは、どうなっているであろうか?

比較しやすいように同じ順番に書いてみよう。


1 皇后も「不思議な超能力の持ちぬし」だった。(一致)

2 皇后と天皇は別々に船でヤマトヘくる。(一致)

3 天皇は角我(ツヌガ)の笥飯(ケヒ)にくる。 (一致)

  4 皇后は神として祭られている。(一致)

5 これは前の四つをみると、その行動がすベて一致している。

「ヒメコソ」の神が、皇后であることは、まちがいない。(一致)

そして皇后が卑弥呼であれば、その呼び名にもう一人、

この内容と同じ条件のそろっている人物がいる。

次の章では、その人物について徹底的に考えてみることにしよう。

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