2011年6月2日木曜日

日本にやってきた『角のある王子』の物語


※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ヒミコ・プロブレム
真説:日本誕生 黄金の女王卑弥呼
26~46頁






「ヒミコは神功皇后と同時代か?」

本居宣長は著書の中で

「卑弥呼とは姫児のことで『古事記

(本当は『日本書紀』の一書)の神代の部分にある


萬幡姫児玉依姫命]などの名の中にある

姫児と同じだとしでいるが、

かんじんの卑弥呼がだれかについては、

「南九州地方で勢力のあった熊襲などの類(たぐい)の女酋長で、

当時有名な神功皇后のことを聞き伝えて、

その使いだとウソをいって魏に使者を派遣したものだと思う」

といっている。

だから本居宣長説は

「卑弥呼は熊襲のカシラだ」というものなのである。

ここで重要なのは、
彼は卑弥呼を「神功皇后と同時代」の人間だとしている点である。

彼はなにを根拠に

「卑弥呼と神功皇后は同時代だ」と決めたのであろうか?

このナゾの答は「日本書紀」の神功皇后のことを書いた部分

(史学では略して「神功皇后紀」という。

他の天皇たちも同じように略称する)に、

本文ではないが例の割り注(但し書き)として小さな字で、

次のように書きこみがしてあるからである。

39年。魏志云、

明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等詣郡……(以下略)

40年。魏志云、

正始元年、遣建忠校尉 梯儁(ティシュン)等……(以下略)

これは『魏書倭人章』を写したもので、

だれがみてもその年の記録のようにみえる。

「この部分は後世の人のメモ的な書きこみだ」という説もあるが、
最初から書いてあったとすれば、

『日本書紀』の編集者が知っていた知識か編集前の古記録に

書きこんであったものだから、

理由もなく「後世の人の書きこみだ」ということは、

せっかくの記録をドブに捨てるような行為で許せない。

どちらが正しいかは、もう少し読んでいただければ分かるはずだ。


「肥前風土記に書かれた女神ヒメコソが」

記・紀』には、

これ以外に「ヒミコ・ヒメコ」に一致する名は見つからないから、
『記・紀』と同じころに編集された『風土記』を見てみると、

肥前国風土記』の松浦(まつら)郡の件に、

「ひれふる(摺振)の峰」というのがあり、

弟日姫子」という名がでてくる。

この人物は、有名な[松浦佐用媛(マツラ・サヨヒメ)]と

同じ場所、同じ話なので、

相手の[大伴狭手彦(オオトモ・サデヒコ)]は、

ずっと後世の宣化(せんか)天皇の時の

武将だということになっている人物だ。

これも卑弥呼とは関係ない。

だが同じ『肥前国風土記』の基肄郡(キのコホリ)の部分に

姫社郷(ヒメコソ)」というのがでてくる。

これもソは余分だが「ヒメコ」がそろっている。

調べてみよう。

この部分にある話は、

この名が女神のものであるという以外、

余り参考にならないので省略して、

その女神とはいったいどんな神なのか調べてみよう。

それは『日本書紀』の「垂仁天皇紀」にでてくる。

こんな物語だ。


「垂仁天皇紀の不思議な『比売語曽物語』」

ツヌガアラシト(都奴我阿羅斯等)という人が、

黄色い牛に農機具類をのせて田んぼへ行く途中、

ちょつとしたすきに牛が消えてしまった。

そこでさがしわまったところ、

ある村で一人の老人が牛のことを教えてくれた。

「あんたがさがしている牛はここへきましたじゃ……。

村長らは『背中に刃物をのせてるところをみると、

殺して食べるつもりだから、もし返してくれという者がきたら、

なにかで弁償すれば済む』といって、食べてしまいましたワイ。

だからあんたはお金や物より『この村の神様をくれ』

といいなされ……」という。

アラシトがそのとおりいうと、村長らは白い石をくれた。

それをもって帰って部屋のなかにおいておいたら、

美しい少女になった。

アラシトは大変よろこんだが、ちょっとよそへ行っているまに、

いなくなってしまった。

びっくりして奥さんにきくと

「東のほうへ行きましたよ」という。

そこで、あとを追って、

とうとう海を渡って日本(ヤマト)にまできてしまった。

少女のほうは難波(ナニワ)に着いて

比売語曽の社(やしろ)の神様になり、

また移動して豊国のクニサキ(国前)郡の

比売語曽の社の神様になった」という話だ。

まるでタアイもないおとぎ話だが、

こんなものが日本の正史である『日本書紀』の、

天皇の歴史のなかに、

大きなスペースをさいて掲載されているのである。

これはきっとナゾ解きのキーになるぞと思って、

戦後すぐ、大阪市東成区にある比売碁曽神社へ行ってみたが、

それは日本中どこにでもあるような氏神様でしかなかった。


「日本にやつて来た「角のある王子」の物語」

なぜ、そんなおとぎ話が『日本書紀』にのっているのか……。

このナゾの答は、その話の前の部分にある。

そこにはツヌガアラシトについて、

さらに許しい情報が書いてあるからだ。

「崇神天皇の時代。

額に角のある人が船でコシ(越)国の

ケヒ(笥飯)の浦にやってきた。

土地の人があんたはだれか、と尋ねると、

「私はオホカラ(意富加羅)国の王子でツヌガアラシト、

別名をウシキアリシチ・カヌキ

(于斯岐阿利叱智干岐)という者です。

日本には聖天子がおいでになると聞いてやってきました。
アナト(穴門)に着いたとき、

イヅツヒコ(伊都都比古)と名乗る人が、

「わしがこの国の王だ。

わし以外に王はいない。

ほかへ行くことはない」といいましたが、

彼のようすは、どうみても王様らしくないので、

そこを出てあちらこちらたずね回って、

出雲を経由してやっとここへやってきたのです」と答えた。

ところがその時は、もう崇神天皇の治世ではなかったので、

垂仁天皇につかえて3年たった。

そして国に帰りたいというので天皇は、

「君が道を迷わなければ崇神天皇にも会えたのに

残念だったと思う。

だから今後は君の国の名を

ミマキ(御間城=崇神)天皇の名にちなんで変えてはどうか」

といった。
その国をミマナ(彌摩那)というのだ。

また天皇は赤い絹をプレゼントした。

ところがシラギ(新羅)人が攻めてきて、

その絹を全部とってしまった。

これが二つの国が憎みあうようになった始まりだ

という話である。


「またまた別名、ソナカシチ」

この王子は「別名をもっている」と話したが、

もう一つ前にも、もう一つの別の名が出てくる。

「ミマナ(任那)の人、ソナカシチ(蘇那曷叱智)が

「国に帰らせてください」と願いでた。

これは前の天皇の時にきて、まだ帰らずにいたのか。

そこで天皇は赤い絹百巻をミマナ王へ土産にもたせて帰した。

ところがシラギ(新羅)人が途中で、その絹をとってしまった。

二つの国が仲が悪くなった原因はこれだ」と書いてある。

これは「名前」と

「前の天皇のときに来た」というのとが違っているが、

そのほかは全くいっしょで、同じ人物の同じ話だと分かる。

では「崇神天皇には会えなかった」というのと、

「前の天皇のときに来た」というのと、

一体どちらが正しいのだろう。

その答は「崇神天皇紀」の六十五年のところに書いてある。

「六十五年の秋七月、ミマナ(任那)の国の

ソナカシチが使者として貢ぎ物をもってきた。

ミマナとはチクシ(筑紫)国の北、

海をへだてたシラギ(鶏林)の西南にある国だ」。


それから三年あとの六十八年に死んだことになっているから、

「前の天皇のときに来た」というほうが正しいことになる。

これで分かることは、日本の「正史」だからといって、

『日本書紀』は絶対は正しい真実だけが書いてあるとはいえない」

ということである。

同じ話だと分かるものでさえ、

こんなにたくさんな食い違いがある。

だから今のこの話だって、

まだまだ真相は分からないと思っていい。

しかし、それは『日本書紀』を編集した人たちが悪いのではない。

彼等は真剣に多くの史料を集めて書き残してくれたのであり、

その元の史料の記録がちがっていただけである。

それを勝手に訂正せずにそのまま残したのは、

立派な歴史家だと誉めねばならない。


「恋人を追つて日本にきた『ヒホコ王子物語』」

さてソナカシチは別名を幾つももっていて、

どれが本名だかさっぱり分からない人物だが、

『古事記』をみると、

まだもう一つ別名をもっていたことが分かる。

その名は、アメノヒホコ(天の日矛)だ。

応神天皇記」の中にあるその物語はこうだ。

「昔、シラギ国主の子に天の日矛というのがいた。

彼は日本にやってきたが、なぜやってきたかというと、

その訳はこうだ。

シラギにアグヌマ(阿具沼)という沼があって、

ある娘が昼寝をしていた。

ある男がそれを見ると、

日の光がまるで虹のような七色に輝いてその体にさしている。

男はそれを不思議に思つて気をつけていると、

その娘はそのときから妊娠し「赤い玉」を産んだ。

そこでその男はその玉を譲ってもらって、

布に包んでいつも腰につけていた。

彼の田は谷間にあったので、

田で働いている人たちの弁当を牛に積んで谷に入ったところ、

そこで天の日矛王子に出会った。

ところが王子は、
「お前は食料を牛に積んで山の中へ何しにいくんだ。

みんなでこの牛を殺して、ないしょで食おうというのだろう」

といって、その男を捕まえて監獄に入れようとした。

男は、
「いいえ、牛を食べようというのではありません。

田んぼの連中に昼飯を運ぶところです」

と訴えたが許してもらえそうもないので、

大切にしておいた例の「赤球」を差し出して、

「これを上げますから、どうかゴカンペンを……」と泣きついた。

王子はそれで許して、赤玉をもって帰って部屋におくと、

なんとその玉が美しい娘になった。

そこで結婚式をして妻にしたが、料理がじょうずで、

いつも気をつけて夫を大切にあつかったので、

王子はだんだんうぬぼれがでて、妻にいばりちらし、

大声でどなりつけたりするようになった。

ところが、その妻は

「私はもともと、あんたなんかの妻になる女ではない。

私は私の先祖の国へ行く」

といって家出してしまった。

そして、ひそかに船にのって日本に逃げてきて、難波に住んだ。

(これが難波の比売語曽社にいらっしゃる

アカルヒメ(阿加流比売)の神だ)

天の日矛王子はそれを追って日本に渡ってきて

難波にいこうとしたが、その港の長官が邪魔して

入国させてくれない。

そこでしかたなく帰るとみせて、

大回りして多遅摩(タジマ)国へいったが、

そのままタジマにいて多遅摩の俣尾(マタオ)の娘、

前津見(サキッミ)と結婚して子供が生まれた。

その子は……」と、次々に子孫代々の系図が書かれている。

これでお分かりのように、天の日矛も、

やはりツヌガアラシトの別名の一つだったのである。

話の内容は、ここでもずいぶんちがっているが、

かんじんのヒメコソの名前が

「アカルヒメ」だということも分かったし、

彼女の先祖が日本人だということも分かった。


「お話も名前もなぜこんなに変わるのか?」

でもなぜこんなにも、人の名前や話が変るのであろうか。

それを永年かかった調べてみると、

やはり先にお話した沖縄語などの言葉によるものだったのである。

このツヌガアラシトという人物は、

ヒミコその人ではないので本題からそれるが、

ヒミコとは最後まで重大な関係にある人物なので、

もう少し詳しく、しかし手みじかにお話しておこう。

「ツヌ」これは沖縄語では「角」のことである。

「ガ」はいうまでもなく「○○が…」

というときに使う助詞である。

「アラシト」は、

この「角が…」という言葉を受けているのだから

「有る人」の訛ったものだとすぐ分かる。

人をシトと発音するのは、

東京周辺や南九州では今も日常、耳にする言葉である。

ここで少し古代の言葉について新しい情報を提供しておこう。

それは「我(ガ)」は、

古代には「カ」と濁らずに発音していたという話である。

お正月に付き物の『小倉百人一首』には、

一つも濁点が打ってない。

「淋しさに、宿を立ち出で眺むれば、

いづこも同じ秋の夕暮れ」は、

「さひしさにやとをたちいてなかむれは

いつこもおなしあきのゆふくれ」と書いてある。

今の言葉なら幾つ濁点が抜けているか数えてほしい。

このことは平安時代の人たちが書き残した他のものでも分かるし、

またそれ以前の

『万葉集』でも分かる古い日本語の特徴なのである。

また沖縄語では「ツ」を「チ」と発音する場合も多い。

「天津乙女」は「アマチウチミ」と聞こえる。

だから先の「都怒我」は沖縄語で読むと1チヌカ」なのである。

この「チヌカ」も耳で聞くと「チンカ」に聞こえる。

そこで今、沖縄の人に「チンカ」と言って、

それを漢字で書いてもらうと、十人が十人みな「天下」と書く。

これで分かることは、

沖縄の人たちには

「都怒(チヌ)」と「天(チヌ)」とは同じなのである。

ここまでわかると「日」もまた「カ」という発音をもっている。

「天日矛」の「天日」は「都怒我」と同じものだったのである。

では残る「矛」はどうなる? これも何かと同じなのだろうか。

これを説明するには、先にもう一つの別名

「蘇那曷 叱智(ソナカシチ)を片付けるほうが便利である。

これを見やすいように

「都怒我阿羅斯等」と並べて、見て戴きたい。 
ソナカ シチ(阿羅の部分がない)

ツヌカ シト

よく似ていることは一見して分かる。

しかし<ソ>と<ツ>が同じ言葉から変化するだろうか?

分かりやすいようにだれでも知っている英語の

「The」を使って説明しよう。

このスペルをローマ字読みすると

「テヘ」か「テ」としか読めないのに、

実際には「ザ」とか「ジ」とか「ゼ」と読んでいる。

この式でいくと「タ」「チ」「テ」とも読めることになる。


「「ZU」の音を聞いて、ヅと書くかズと書くか?」

今度は「zu」を見ていただきたい。

これは普通なら「ヅ」か「ツ」と読むが、

フィリピンやスペインや中南米の人は1ス」と発音する。

このように「ツ」と「ス」は簡単に入れ変わる発音なのである。
「しかし日本語の場合は?」

と疑問に思うかたは、次の私の質問に答えていただきたい。

今、例としてあげた

「zu」は「ヅ」か「ズ」か「ツ」か「ス」か?

「ズイズイ、ズッコロバシ、ナマミソ、ズイ」は

これで正しいのだろうか。

「ヅイヅイ、ヅッコロバシ、ナマミソ、ヅイ」

ではないのだろうか。

それとも

「酸い水(すい)、突っころ箸、生ま味噌、吸い」なんだろうか。

それとも「ついつい術転ばし、生身そ、つい」なんだろうか。

百人一首が証明したように、

古代日本に濁音を使わない人たちがいたことは確実だが、

その人たちが「zu」の音を聞いたとき、

やはり今のあなたのように、

それを「ツ」と書くか「ス」と書いてしまった。

しかし、それはその人たちがお互いに遠く離れていて、

方言がちがっていたためではない。

なぜそれが分かるか。

それは本土の人間なら

「ト」と読む「都」を「ツ」の音に当てているし、

本土の人間なら「ソ」とよむ「蘇」を「ス」に

当てているからである。

この字は『日本書紀』編集当時の唐音では「ス」だったのである。

ソのかわりにスを使うのは「oとe」のない三母音語の特徴で、

沖縄系の人たちしか使わない当て字である。

また「シト」と「シチ」を比べてみれば、

「ト」は三母音ではないから、この名のほうは、

沖縄と本土の言葉が入りまじっている地域、

先に検討した大隅地方で書かれたものだし、

同じものを「チ」と当て字したのは、

まちがいなく純粋の沖縄語地域の人の記録だと分かるのである。

「シチとホコが同じなのは『書紀』よりも古い記録のせい」

これらの別名の記録は、最初から奈良県で書かれたものではない。

それは奈良県で編集された『日本書紀』の中に、

あとで取りこまれただけで、

原文はもっと古い時代に沖縄や南九州で

書かれたものだったのである。

そのことは次の主題である

「シト」「シチ」「ホコ」の関係でも、

じゆうぶん証明されている。

「シト」は「ヒト」の鹿児島なまりであるし、

「シチ」は「シト」の沖縄なまりである。

そして「ホコ」は、この二つとは別物のようにみえるが、

これもまた同じものの変化したものである。

東京周辺と鹿児島県で「シ」と「ヒ」が入れかわることは、

もう一度説明するまでもないと思う。

だからこれは「火」という文字を当てても、

少しも不都合はない。

この「火」は古代には「ホ」と発音されていたのである。

神武天皇の名は「ヒコホホデミノミコト」で、

『日本書紀』では「彦火火出見尊」と書いてあるが、

この「火」が「ホ」と読まれるのは、

『古事記』に同じ名を「日子穂穂手見命」

と書いているからである。

また「木」は、

木の花開耶姫」「コのハナサクヤひめ」

と読むのでも分かるように 「コ」とも発音するし、

沖縄語では「君」を「チミ」と発音するように、

「キ」は「チ」になる。

「火木」と書いたものは、

「ヒコ」「ヒキ」「ヒチ」「シコ」「シキ」「シチ」

「ホコ」「ホキ」「ホチ」と読めるのである。

「ト・ツ・チ」の変化は先にお話したから思い出していただきたい。

これでこの主人公名の、後のほうについている部分のナゾが解ける。

並べてみよう。

都怒我 阿羅 斯等    シト┐
ツ├都
蘇那曷    叱智    シチ┘
火木
天日     矛     ホコ


「「有る」が「ナイ」話」

こうしてみると、まだ一つ分からない部分が残っている。

それは後の二つには「阿羅(アラ)」の部分がないことだ。

これは蘇那曷の「曷」の字は、

「アッ」という発音もあることで解ける。

鹿児島方言では「有・在」という意味の

「ある」を1アッ」と発音する。

また都怒我の「我」は「角が」という場合の

「ガ」という助詞と見られていた。

こうした助詞は古代には書いたり略されたりキマリがなかった。

だから「曷」の字は、いろいろに解釈されて別名を生んだ。

この間題は、まだまだたくさんな研究材料と答があるが、

この本では幾らおもしろくても脱線になるので、以上でやめよう。

まだ一つつけ加えておく必要があるのは、

この「アル」という言葉が、

わざわざ加えられた「角が有る人」という解釈には、

もっと重要で意味の深い「決定的な答」がある。

ということである。

それはこの本の一番最後でお話する。

蘇那  曷 叱智     ソナカ    シチ

蘇那ガ 曷 叱智     ソナガ アッ シチ

スナガ 有  シ都    スナガ アィ シッ

都怒我 阿羅 斯等    ツヌガ アラ シト

角我  阿羅 斯等    ツノガ アラ シト


「女神ヒメコソの夫の本名は王子「スナカ」」

これで、このヒメコソの夫の名は、

元は一人の人間で、一つの名が、

「間違い」によって「分裂」したものだったことが確認できた。

では、これまで見た名のうちどれが最初の「本名」だったのだろう?

天の日矛は、

「都怒我」を「チンカ」(正確にはティンクァに近い)

と読んだ発音につけた当て字だから、

いうまでもなく都怒我のほうが先である。

都怒我阿羅斯等の「斯等」は語尾にがあるから、

純粋な沖縄語では使わない文字であるが、

「叱智」は沖縄語の発音だから、

都怒我阿羅斯等という文字は

「完全な沖縄語の名である(スナカシチ)」という名を

スをツと訛って、

沖縄語と鹿児島語の発音を「ゴチヤまぜ」にして写したものである。

この逆のことは起こらないから、

これでスナカシチのほうが先だったことがはっきり分かる。

本名は「蘇那曷叱智」だったのである。

このことには、この「発音の流れによる順序」だけでなく、

もっとしっかりした証拠がある。

それはこれまで見てきた「お話」はどれもこれもが、

「よその国からやってきた流れ者の、

まるでおとぎ話のような、頼りない聞き書き」

に過ぎなかったが、

この「蘇那曷叱智」には別に実に詳しい、

立派な「歴史記録」が残っているからなのである。


「その王子は、神功皇后の天・仲哀天皇?」

従来「オキナガ・タラシ・ヒメ」と読め、

といわれてきた神功皇后の名は、

『古事記』では「息長帯比売命」と書いてある。

この文字をよく見ていると

「息長」は「ソク」と「ナガ」で普をとると「ソクナカ」になる。

これは古代の当て字だから

「息」は「ソ」に対する当て字である場合もあるし、

また沖縄で当て字をした場合は「ス」に対する

当て字である場合もある。

とすれば、これは「スナカ」にいちばん近い名だということになる。

しかし彼女はいうまでもなく女性だから、

蘇那曷叱智(スナカシチ)と比較するには、

その夫の仲哀天皇のほうを調べなければいけない。

するとすごい答が出たのである。

この天皇の名は『日本書紀』に「足仲彦天皇」と書いてある。

これをよくみると「足はソク」だから「息ソク」と同じこと。

「仲ナカ」は「長」よりも濁音がないだけ、

よけいに「スナカ」に表している。

従来は、

この名は「タラシ・ナカツ・ヒコ」と読めと教えられてきた名だ。

しかし夫婦で、まるで別の名というのはおかしい。

「ソナカ」か「スナカ」と読めば、

はじめて夫婦が同じ家の家族だと分るのである。

これは従来の読み方、教え方が、

とんでもないデタラメなものだったことをはっきり立証している。


「間違いだらけの天皇名の読み方」

しかし『記・紀』には、もう一つずつこの夫妻に

別の当て字をしている。

帯中日子天皇」というのは『古事記』。

気長足姫尊」というのは『日本書紀』である。

これはどちらも、

どんなにしても「スナカ」「ソナカ」とは読めない。

ではこれは『記・紀』の編集者が、天皇家のことを思って、

天皇が「新羅王子だった」というような奇妙な

真相が分からないようにと、わざと別の字を選んでつけたのであろうか?

そういえば、

『古事記』と『日本書紀』とで、

どちらも一つずつ食いちがっていて、

片方だけではナゾが解けないようになっている。

わざわざ、そうしたと勘ぐれば、あやしく思えないこともない。

しかしこの後の二つも実は、単に真相を隠すため、

小細工して文字を変えたのではないようである。

なぜならそんなに厄介な話なら、

わざわざ1天の日矛」の話などを幾重にも収録しなかったはずである。

それこそ切り捨てても、だれにも分かりはしなかったのだから……。

そしてもう一つの理由は、この後の二つの名も、

それらの別名と同じように、

やはり理由のある重要な名だからである。

それは次のような構造になっていたのだ。


「ソナカの変貌」

*=本名 〈 〉内は間違った読み方

Tsurukalninのパーリ語ナマリ

*Sonaka 蘇那曷 叱智
足仲  彦  →(↓タリナカ=下の鹿児島語の原音)
タラシナカツヒコ→タイナカ=大中=帯仲=胎中

 Sunaka 須那迦 アショカ王の東方宣教団法王(『善見律毘婆沙』の用字)

    Sonaga 息長                 →Sunaga 須永・砂川
オキナガ
牛   于斯岐・阿利叱智・干岐〈カヌキ〉
(ソ=朝鮮語)→ウシキ    シチ・ヒキ(ヒキ=日本=ヒコ=日子=彦)
津            (沖縄語ではキ=チ=津=の)

    Tsuruka …… alnin
  (有人)

    Tsunuga 都怒我・阿羅斯等                  →Tsuruga 敦賀
  (角が)

    Tsinuga 気長                (沖縄語はキをチと発音)
オキナガ            チヌ国=金 国=沖縄
キヌガ         →木の花・紀の国・紀伊・支惟国・絹が
チヌカ・ 日木

Tsinuka 天 日・ 矛 アメノヒボコ→茅沼海・姐奴国
↓   ホコ ↓
ヒコ
    Tenchi   天 椎・ 彦 アメノワカヒコ  →      天若日子

    Tsinuki[火葦北]・阿利斯登(「敏達天皇紀」)→Tsunagi    津奈木

    Tenka   天 日・ 人 テンカビト    →       天下人


「帯」の字は先の例でタラシと読まないとすれば、

後は「タイ」か「オビ」である。

これは、とても何かの意味がありそうにもない。

しかし「タイ」を鹿児島方言化して「ティ」と読むと、

「ティナカ」になる。

これなら沖縄では「チンカ」に変わるから、

「天の日矛」の「天日」と同じになる。

では皇后のほうはどうなるだろう?

「気」は沖縄語で「チ」になることは、

先に「君=チミ」といった例でお分かりいただいたとおりである。

だから「気長=チナカ」。

これもやはり

「チヌカ=都怒我」「チンカ=天日」への当て字だったのである。

では「彦・日子」はどうなるか。

もうお分かりだと思うが、「日木」と書けば

「ヒコ」とも「シチ」とも読める。

完全に名前の全部が一致するのである。

これで先に語源だとした別名の本当の出発点が分かった。

それは他の名前では、夫妻が別々だったが、

この天皇夫妻では、どちらも同じ

「ソナカ」「チンカ」で一致して

ワン・セットそろっているからである。

過去に「タラシナカツヒコ」とか

「オキナガタラシヒメ」と読めと教えられていた名前は、

全然関係のない架空のものに過ぎなかった。

そんなもので古代史のナゾが解けるわけがない。

これで、これまで何となく頼りなかった

わがヒロイン「ヒメコソ」女史は、ナゾのヴエールを脱ぎ始めた。

そして新しい手掛り「ソナカ」という名前が、

ライト・アップされて浮かび上がった。

それはまだまだ「卑弥呼」には遠いが、

ヒメコソの名はかなり強いウエイトを持ちはじめたことを

お感じになると思う。


「ヒメコソと神功皇后がピタリ一人に!」

しかし名前がピッタリ同じだとしても、

その「内容」がちがっていては、何にもならない。

この点をたしかめてみよう。

先にみた「別名たち」の記事は、細かい点で多少くいちがったが、
大切なところは同じだ。

それは、

1 女性が「不思議な超能力の持ちぬし」だったこと。

2 女性と男性は別々に船でヤマトヘくる。

3 男性は角我(ツヌガ)の笥飯(ケヒ)にくる。

4 女性は神として祭られていること。

5 その名は「ヒメコソ」という神として祭られていること。

*(従来は比売語曽・比売碁曽と書いてあっても、

ニゴらずに読むことになっていた)といった点で一致していた。

では仲哀・神功夫妻のほうは、どうなっているであろうか?

比較しやすいように同じ順番に書いてみよう。


1 皇后も「不思議な超能力の持ちぬし」だった。(一致)

2 皇后と天皇は別々に船でヤマトヘくる。(一致)

3 天皇は角我(ツヌガ)の笥飯(ケヒ)にくる。 (一致)

  4 皇后は神として祭られている。(一致)

5 これは前の四つをみると、その行動がすベて一致している。

「ヒメコソ」の神が、皇后であることは、まちがいない。(一致)

そして皇后が卑弥呼であれば、その呼び名にもう一人、

この内容と同じ条件のそろっている人物がいる。

次の章では、その人物について徹底的に考えてみることにしよう。

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