2010年5月31日月曜日

王者の利器『鏡』(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    152頁

  畏友<鳥越憲三郎>氏はその著書「伊勢神宮の原像」

 (講談社=162頁)に

 筆者の鏡に関する研究を一部援用されたが、

 これは幾度かの雑談によるもので、

 論文からのように正確なものではないから誤解もある。

 <鈕>(チュウ)に棒を通して

 その日影で日時を知る役にも立てたとあるのはその一例で、

 正しくは写真の通りか、垂直に鏡をさげた紐の影を用いる。

 鈕に棒を通すのは方位盤としての用法であって、

 これも図で御理解戴きたい。

 これが単なる想像の産物でないことは、

 鈕孔をもたず方位棒をもっている

 筆者所蔵鏡の一面が充分証明してくれる。

 次頁の写真をよく御覧戴きたい。

 ついでに少し触れておきたいのは<鏡を測量に使うこと>は、

 倭人だけの特技ではなかったということである。

 これは中国でも古くから使われたという動かせない証拠がある。

 それは鏡という文字である。

 金へんは金属製であるから当然として

 <竟>の字は何を意味するか。

 これは<境>が<サカイ>であり国境が国と国の境を意味し、

 <境内が聖域を示す>のと同じ<サカイ>の意味をもっている。

 <鏡>という字は「境界のための金属製品」という

 構造をもっているのである。

 これがもし顔面を写すものなら、金へんに彦か、

 面をくっつけるべきであったことは

 少し考えればわかることである。

 「写真:日時計鏡(ひどけいきょう)」

 鈕のまわりに<十二支>が文字と絵で書かれている。

 <子>の方角(真北)に向って、<子>の字が

 真っぐ読めるように置く

 (写真の通り<子>の字が手前にくる)と、

 鈕の影が時間を示す。

 写真では<午>(正午)と<未>(ヒツジ、1時)との

 中間をさしているから

 12時半であることがわかる。

 (古鏡でも鈕に結んだ垂直のヒモを使えば同じことができる)

 中国清代のもの。(筆者所蔵)

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月30日日曜日

壮大な倭人の測量文化(3)

典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    152頁

 
 「図:応神陵の構成要素と各陵墓の関連性」(加治木原図)

 ① <1>安閑皇后陵 <2>正北 <3>安閑皇后陵

   <4>古室山古墳 <5>安閑天皇陵 

   <6>仲津姫皇后陵 <7>敏達天皇陵を経て藤原武智磨墓

 ② <9>日本武尊陵 <10>允恭天皇陵 <11>聖徳太子墓

   <12>城山古墳 <13>日本武尊陵

   <14>千塚 <15>推古天皇陵 <16>城山古墳

   <17>応神天皇陪塚を経て清寧天皇陵

 ③ <18>古室山古墳 <19>孝徳天皇陵 <20>城山古墳

   <21>応神天皇陪塚 <22>吉備内親王墓

   <23>松塚 <24>河内大塚 <25>黒姫塚 <26>孝霊天皇陵

   <27>大津皇子墓 <28>雄略天皇陵 <29>野中寺伽藍跡

   <30>文珠院西古墳 <31>河内大塚

   <32>仁徳陵円頂部中心 <33>東首舌鳥古墳

   <34>島の山古墳 <35>顕宗天皇陵

   <36>河内大塚 <37>大座間池中之島を経て野尻古墳跡

 ④ <38>孝霊天皇陵 <39>牧野古墳 <40>仲哀天皇陵

   <41>大座間池を経て平岡古墳

 ⑤ <42>孝霊天皇陵 <43>来目皇子墓 <44>吉備内親王墓

  (実際はこの二倍以上の線が関連しているが、

  本章の証明にはこれで充分であり、

  繁雑で専門的に過ぎるので省略した)

 「写真:直線上の古墳」(加治木原図)

 空から見ると古墳が直線上にならぶことが

 一と目でわかるものもある。

 相互の距離と大きさが

 写其のピントの合う範囲にあるものは少ないが。

 (これは山の辺陵墓群のうちの手前かち景行陵。

  崇神陵。手白香墓(衾田陵=継体皇后墓)。

  乙木社の森。)前々図の7、S、6参照。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月29日土曜日

壮大な倭人の測量文化(2)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    150~151頁

  「図:古墳造営は壮大な設計と測量に基づいでいる」

 (実際には数百の線が交叉しているが省略)加治木原図

 ① <N>仁徳天皇陵→<O>応神天皇陵→<S>崇神天皇陵。

   この3陵を結ぶ線は東進して伊勢神宮に達している。

 ② 奈良(大仏殿)天理→崇神天皇陵→景行天皇陵→桜井→

   良助法親王墓を結ぶ線は

   南進して熊野大社(新宮)に達している。

 ③ <J>神武天皇陵 <K>欽明天皇陵 <1>神功皇后陵 

   <2>成務天皇陵 <3>磐之姫命陵

   <4>元正天皇陵 <5>島の山古墳 <6>衾田陵

   <7>景行天皇陵 <8>箸墓 <9>崇峻天皇陵

   <10>良助法親王墓 <11>石舞台古墳 <12>橿原神官

   <13>宜化天皇陵 <14>斉明天皇陵

   <15>孝安天皇陵 <16>孝昭天皇陵 <17>大津皇子墓

   <18>飯豊天皇陵 <19>孝霊天皇陵

   <20>聖徳太子墓 <21>推古天皇陵 <22>敏達天皇陵

   <23>雄略天皇陵 <24>帝塚山古墳 <25>履仲天皇陵

 枚岡神社 玉租神社 法隆寺 

 石上神官 大神神社 談山神社

 三輪山 鳥見山 香具山

  国見山

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月28日金曜日

壮大な倭人の測量文化(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    149頁


 これらのことで、はっきり意識しておいて戴きたいのは、

 <倭人>は<中国系文明>でなく、

 <インド系文明>の持ち主だったという点である。

 また海を越えて50数km先の距離を湘定する方法

 すなわち<三角法>または<天測法>を

 知っていたということである。

 三角法はギリシャの天文学者ヒッパルコス

 (B.C190~B.C124年)が創始者とされているが、

 これは地球と月の距離や、月の直径、百個の恒星の詳細、

 <地球の歳差運動>などの測定といった驚くべき業績によるもので、

 彼がこれだけの応用をなしとげたどいうことは、

 彼に至るまでに、


 三角法の発達の歴史があったということである。

 だがそれは余談にわたる。

 ここでは<3世紀の倭人>が、

 それを実地に役立てていたという事実が、 

 それ程不思議でもないということを知って戴く参考になれば

 それでいいのである。

 では<倭人>は、どんな器具を使って、

 そんなに精密な測量ができたか。

 現存する遺物ではそれは<鏡>しかない。

 鏡面の反射で、その位置を確認すると同時に、

 その背面にある目盛りを分度器として用いれば

 立派に測量ができる。

 三角法を御存知の読者にはその使い方を

 今さら説明する必要はあるまい。

 だから<倭人>がこのシステムを使うほかに方法のない

 <大土木工事>を、

 実際に行っていたという証拠を簡単に御覧にいれておこう。

 それは卑弥呼の墓を出発点とする古墳の築造である。

 筆者は40年前に、奈良県の古墳が直線上に

 並んでいるという事実を発見して以来、

 これにとり組んできたが、それは図ではっきりお判りのように、

 山脈を越えて正確に配列している。

 それは山間に隠れた広川寺の西行墓や、

 聖徳太子墓などを余すことなく貫いているだけでなく、

 遠く伊勢神宮に及んでいるのである。

 これは鏡による光通信なくしては行い得ない文化所産である。

 また、応神、仁徳などの大陵は、その重要な点と線が、

 すべて他の陵墓や、池中の島などと結合している。

 これも本書ではとうていお話しすることは

 不可能であるからいずれ

 ダイジェストしてご覧に入れることにして、

 小さくて不鮮明だが、略図で御辛抱戴くほかない。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月27日木曜日

倭人章中、最大の謎


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    143~146頁

 
 以上を見ると、朝鮮の人々は<大国主>に悪感情をもっていず、

 上代語とパーリ系の人々が

 朝鮮語をわざわざ曲解したということになる。

 どれが語源であったかほハッキリしているから、

 それからどう変化したか、

 時間帯を考えてみて戴くのも興味があろう。

 では<伊都国>は、当時いったいどこにあったのであろう?

 原文は「末盧国から東南へ五百里で<伊都国>に到る」とある。

 真相を知るには、

 ① 末盧国の位置。

 ② 国と書かれたものは国境線か中心政庁の所在地か。

 ③ 東南という方角は果して正しいか。

 ④ 五百里の正確なkm換算。

 ⑤ 伊都国の位置。が明確にならねばならない。

 幸い私たちは

 ④については動かぬ知識をもっている。

  五百里は27.82km、約28kmだ。

  と確信をもって答えられる。

 ②もそう難かしくない。

 倭人伝の国と国の距離が百里という記事は、

 僅か5.5kmだが

 国境線のことでないことを明示している。

 国境線が当時あったとしても、

 それは隣国との問では一本しかなく、

 百里もの幅をもっていたとは考えられない。

 これはまた当時の中国文献が

 すべて現代と同じく政庁所在地を基点とする習慣で

 統一されていることと一致する。

 次に③を考えてみょう。

 御存知の通り、これまでの邪馬臺論は、

 すべて伊都を糸島に、奴を博多に決めている。

 本書冒頭で見て戴いた図の通り

 倭人章の原文の方角に合うものは一つもない。
 
 この<奴>や<不弥>から南は陸行でとても水行できないし、

 またこの辺りから船に乗るのなら、

 一体なぜ海流にさからって末盧へ上陸し、

 前を進む者さえ見えないような悪路を重い旅行道具を担いで、

 30km近くもあるいはそれ以上も歩き続ける必要があるのか?

 それより、

 海流に乗りながら楽に壱岐から博多へなぜ直行しないのか?

 実に理解しょうもない、

 常識はずれのことが行なわれたことになり、

 これは倭人章中でも最大の謎だというほかない。

 果して当時の<倭人>たちはそんなにも野蛮で、

 現代の邪馬臺論者たちのように、

 そんな不合理なことが平気だったのであろうか?

 当時の倭人の手で壱岐~対馬間の距離が

 誤差なく測定されていたことを知る私たちには、

 彼等がそんな愚かな事をしたとは信じられない。

 その測量は三角または天測法を高度に使いこなせないと

 不可能である。

 天測儀やトランシットはもちろん、

 望遠鏡もない時代なのである。

 それは現代よりも更に難かしい仕事だったはずである。

 では愚かだったのは魏人の方か?

 中国には周代のはじめ、

 すでに周公が天文台を作ったり前漢までの紀元前に精密な暦が

 天測をもとにして作られ、

 次々に改良されて行った事実を知る私たちには、

 3世紀の魏人が天測を知っていたからといって、

 別に驚ろく程の事でもないのである。

 <倭人>、<魏人>ともに高度の知性をそなえた人々で

 あったことは間違いない。

 とすれば、未盧で一たん上陸々行して、

 また船に乗って旅を続ける、というのは、

 どうしてもそうするほかない合理的な理由が

 あったと考えるほかない。

 それは何故か?

 と想像に走るようでは駄目である。

 なぜなら、この問題には答えに直結する条件が、

 ハッキリと明示されているからである。

 それはどうにでも読めるようなものではなく、

 動かしようのない限定条件なのである。

 ① 末盧から、

 ② 東南へ、

 ③ 五百里で、

 ④ 伊都に至る。

 ⑤ そこか、または<不弥>が港で、

 ⑥ 南へ、

 ⑦ 水行できる場所。

 と指定してあるからである。

 「図:ただ一つのコース」(加治木原図)

 対馬→壱岐→唐津というコースは、

 はっきり、ただ一つのコースを目ざして直進している。

 博多や宇佐や大和へ行くのなら、

 わざわざ唐津へ上陸する必要はない。

 ことに対馬と壱岐の間は魔の潮流が渦巻いている。

 大和へ行くのならそれを避けて、

 逆に潮流を利用しながら倍以上の速度で航海できるのである。

 倭人章のコース記事は

 宇佐、大和両説の無茶なことを立証しているのである。

 対馬海流(分流)日本海流(黒潮) 

 これだけ、はっきり書いてくれてあるのであるから、

 その位置を見つけるのは、ごく簡単なことである。

 壱岐から船が着いた所は間違いなく九州北岸で、

 それも壱岐から55kmの範囲内である。

 そこから東南28kmの所に、

 南へ船出できる水路がある所は、

 たった一か所しかないからである。

 間違いたくても間違いようのないその場所は、

 もうお気づきのように、有明海の北部である。

 佐賀と長崎の二県が有明海をかかえこむようにして

 回廊を形づくっている。

 そこだけが二つの海を結ぶ最短距離であることは、

 地図をチラツと見ただけでわかる。

 そしてその距離がおよそ30kmぐらいということもわかる。

 ④以外の6条件を完全に満たしている。

 この事実がわかると、巨大な謎に見えたものが、

 吹きとんでしまう。

 そればかりかさらに新らしい真相を話してくれる。

 自的は有明海を南下することであり、

 そこへは壱岐から西まわりに船で進むことが

 できなかったという事実である。

 何故か。

 それは西南方からすさまじい勢いで北上している

 黒潮のためである。

 それにまともに向っては非常に難航し、

 あるいは続行不能な船であったという事実である。

 半島から、島伝いに九州北岸へは来れても、

 西海岸沿いには南下できない、

 という二つの条件の間に、

 当時の船を復原するための貴重な証拠が詰っているのである。

 あわや倭人章最大の謎と見えたものは

 一瞬にして泡沫のように消え去ってしまった。

 しかし、それよりも大きい謎を残した。

 何故、多くの学者と自任した人々が、

 こんな簡単な事実さえわからなかったのか。

 という……。 

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


2010年5月26日水曜日

邪馬臺国と山代国

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    137~138頁



 「写真:インドの山鉾巡行」

 インドを始めヒンドゥ教徒の住む地方では、

 至る所で祇園や八幡社のものそっくりの

 山車(ダシ)の類が見られる。

 日本のものを仏教伝来以後のものと想像するのはあやまりで、

 これは<シバ信仰>と共に入っていたのである。

 それはこの行事が寺院でなく神社のものであることが

 証明している。

 写真はカルカッタ西南オリツサ州プリのもの。

 (インド政府提供)

 京都にはこのほかに<山鉾巡行>で有名な<祇園祭り>があるが、

 この<祇園社>は<八坂神社>というのが正式の名であって、

 <八坂刀売命>や<掖邪狗>と同名であり、

 主祭神は<牛頭大王><スサノオの命>である。

 日本三大祭中随一といわれる壮大な山鉾は、

 いかにも日本の古式床しい祭と思われているようだが、

 高楼を組み、多勢の氏子がひいて市街を練り歩く習俗は、

 そのままインドの<ヒンドゥ教行事>である。

 これはいまもインドやマレーシアなど各地で、

 そっくりのものが見られる。

 こうみてくると京都には長野県とはまた違った濃厚な

 <ヒンドウ教>の影響がみられる。

 しかも神名からも行事の内容からも、

 それは従来説明されて釆たような仏教の影響ではない。

 なぜなら、

 仏教は平安以後、

 同じ仏教内でも対立抗争を繰り返した様に

 排他性の強いものである。

 それが仏教の敵たるヒンドゥの行事を、

 わざわざ輸入したり拡めたりするはずがない。

 ことに日本の仏教は唐代以後に入ったものは

 インド直伝のものではなく、

 中国経由のものであって、

 郷土色豊かなインドの風習を伝える余地はなかった。

 なぜなら中国にはこうした<山鉾巡行>など見られないからである。

 それを仏教のものと誤認させるようにしたのは、

 抜きがたい習俗に手を焼いた僧侶たちが、

 <本地垂跡説>を唱え、神仏を混肴した結果に他ならないが、

 ここでは脱線になるから、

 これらを京都へもちこんだ者は誰であったかを考えてみよう。

 これもまた名前が簡単に謎をといてくれる。

 <太秦氏>と書いて<ウヅマサ氏>と呼ばれた人々。

 彼等は平安京が生れる前から、

 京を中心とする山代(やましろ)国の大族であった。

 この<太秦>は<ウヅマサ>と読むのには骨が折れるが、

 <タイシン>と読むのは楽である。

 <タイシン>とはマレー語で「海」を意味する。

 また<タイシン>に<大臣>の文字をあてることもできるが、

 <賀茂建角身>(タケチヌミ)という名は

 <建角身>と沖縄式によめば、

 そのまま<武内(タケチ)大臣(ヌオミ)>という名に

 つながっていることを思わせる。

 <大臣>はまた<大人>とも同音である。

 とすれば紀が<大人>を<ウシ>と発音させる理由が、

 ここで始めて明らかになるのである。

 そして<ツヌミ>と<ウシ>はそのまま

 <ツヌガアラシト>と<ウシキアリシチ>につながる。

 沖縄弁で<大>は<ウ>であり<シン>は

 <真>も<信>も<チヌ>であった。<秦>と書いても同じである。

 ということは<太秦>と書いてあれば、

 沖縄系の人々には直ちに<ウチヌ>即ち

 <沖縄>のこととわかるものを、

 わざわざ<太と点を一つ>多く打っている。

 これは気をまわせば想像に傾きすぎるから、

 <大>では<ダイ>よまれて、

 マレー語本来の<タイシン>の発音と意味が忘れられるために、

 わざと太(タイ)の字を選んだとみておくことにしよう。

 また、太ヶ秦(タケチヌ)とよむためにも、

 これは太でなければならない。

 かくてまた私たちは<ウチヌ>と<牛>と<シバ神>との集団に

 京都で出あった。

 では国名はどうか。

 もう<山代>という文字は、

 そのものずばりで<ヤマダイ>と読むことができる。

 これが偶然のソラ似音などと思う方はないはずである。

 また事実、

 ここで御覧にいれた証拠は実際のもののごく一部分であって、

 <山代>が<邪馬臺>であったことは疑がう余地がない。

 だから従来の論争型式から行けば、

 それらをずらりと並べなくても、 

 もうこれで邪馬臺国への旅は終るところである。

 しかし、

 私たちのシステムではそんな非学問的なことは許されない。

 なぜなら、まだまだ多くの邪馬臺候補地が

 残っているからであり、さきにもみたように、

 近畿は倭人伝の記載と余りにも違いすぎ、

 また3世紀から7世紀頃までの日本の状態は、

 すべての国や人の大移動のあとを、

 はっきりと示しているからである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月25日火曜日

牛と角と雷への崇敬

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    134~136頁


 
 「写真:シバ大神の神像」(今村甫氏蔵)

 シバ神の像はヒンヅー教の各派によって解釈が異なり、

 また仏教にも大自在天としてとり入れられており、

 その像も多くの種類がある。

 しかしそのいずれもが頭骸骨を連ねたネックレスを

 かけていることが共通している。

 これは<御頭祭>が示すものと同一の考えに基くもので、

 その威力を象致しているのである。

 写真の像はその妻<カリー>を伴ったもので

 北インド神像の形式を備えている。

 シバの表記はサンスクリットとインドシナでは

 ジャワでは

 マレー語圏ではまたは

 ボルネオではと変わる。
 この<ニワ>はこを<ミ>と発音する沖縄へ入ると

 <ミワ>と発音される。

 <三輪の大神>は<シバ>神を意味する。

 またインドでは<シバ>は<ジャッカル>をも意味する。

 これは日本では<狼>にあてられたことが、

 <オオカミ>という和名で証明されるのである。

 また中国地方にあるイザナミ伝説地が<ヒバ>山と呼ばれ、

 また志波彦神社(宮城県の元国幣中社)そのほか

 <シバ>神を祭るものはかなりの数にのぼる。

 沖縄では<庭><ニワ>を<ミヤ>。

 <新><ニイ>を<ミイ>(<新婿><ニイムコ>→<ミイムーク>など)。

 <睨みくらべ>を<ミイクウミー>などと、<ニ>を<ミ>と発音する。

 またこれまで語意も語源も不明とされてきた

 「ミシャグチ神」とは何か。

 これもパーリ語で読んでみると一遍に謎はとける。

 <シバ神>の故郷インドには今は死語になった

 パーリ語という言語があった。

 それによると<シバ>とは<幸福>、<吉祥>を意味する。

 これにはまた<平安>、<安泰>の意味も含まれている。

 <シアワセ>という日本語と、この<シワ>も似ているが、

 次のように熟語になる。

 「シバ・ガミ・マッガ」。

 これを直訳すると<安全の法>、<平安への道>ということになる。

 これに対して「安全を護る」「守護する」はパーリ語で<グッチ>。

 <供>、<従者>は<ミッサ>という。

 「ミッサグッチ」とは<守護する供人>ということであり、

 <ミシャグチ>神とは本来<シバ神>を

 <守護する供神>のことだったのである。

 とすると、諏訪の神使が各村にいる<ミシャグチ>神を

 召集して神事を始める理由も

 初めて理解できるのである。

 またインドでは<牛>が神聖視されている。

 これは牡牛が<シバ>神の顕現であると信じられてきたためで、

 牛や角が聖なるものの象徴とされるのである。

 このことが理解できないとインドからマレー語圏、

 さらに我が津々浦々に祭られる神社から伊勢神宮に至るまでの

 「千木」の神聖さが不明になるのである。

 その<ヌガンディ>の名をもつ<牛の像>は実は我が国にも

 古くから祭られていた。

 それは現在でもなお各地で見られる。

 ほかでもない<天神様の牛>である。

 世俗には菅原道実が太宰府へ流された際、

 彼を運んだ牛車の牛であるとされている。

 しかしこれは余りにも不合理な説明である。

 供をしたのは牛だけではないし、

 流人が船でなく牛車に乗って福岡まで行ったというのもおかしい。

 よく考えてみると、

 天神様の牛には全く必然性が無いことがわかるのである。

 これは理由ははっきりしている。

 天神様というのは菅公よりはるかに前から祭られていた神で、

 当時すでに祭神の不明になっていた社に、

 道実を合祀しただけのことなのである。

 もうおわかりのように<天(チヌ)神>とは<角(ツノ)神>であり、

 <牛>が本体あったのである。

 そして同じ京都の大氏神(うじがみ)は葵(アオイ)祭で

 名高い賀茂社であるが、

 その祭神中の氏の祖は、<加茂建角身命>であり、

 その孫神は<賀茂別雷命>である。

 <角>と<雷>がセットになっていて、

 天神様の先祖を証明しているのである。

 「コラム:伊勢はシバ大神の名」

 <シバ>神はインドでは、

 Is、Isa、Isana、(イス、イサ、イサナ)という通名で

 呼ばれている。

 <イサ>の大神または<イサナ>大神が、

 鹿児島弁や関東弁式に語尾の

 発音して<イセ>の大神となったことは疑問の余地がない。

 また仏教化して(マハ・スワラ)とも呼ばれている。

 直訳すれば<マハ>は<大>。

 <スワラ>は<日や光または声を発する者>という意味である。

 これに漢字をあてれば諏訪羅(スワ国)。

 命令を発する者「命<ミコト>」である。

 それは同時に<日の国>、<日の神>でもある。

 さらに伊勢国風土記は、

 この2つの地名を結びつける重要な役割を果たしている。

 <国津神>の<伊勢津彦>は神武東征の時、

 <天日別命>に国譲りを迫られて東に去り、

 割注に「今信濃の国に来り住む。」とある。

 彼は<地名>と<空っぽの神宮>を残して行ったのである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


2010年5月24日月曜日

聖牛名をもった官名


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    130~132頁

 
 伊勢の神宮建築をさらに深く観察してみると、

 <千木>が<角>を意味することが、

 誤りでないことを証明するものが幾らでも見つかる。

 図を御覧戴けば充分なように、

 それは<牛の頭部>を表現する数々の努力の跡を

 止どめているのである。

 まさか<神宮>と<牛の頭>とお思いになる方も多いと思うが、

 天照大神の弟であるスサノオの命は間違いなく

 「牛頭天王」とされているし、

 邪馬臺国の官名にもそれが見られる。

 その証拠に<『記・紀』の世界>と<倭人章世界>を結ぶ

 重要なシムボルが、<牛>であるという事実を、

 これから御覧に入れることにしょう。

 漢字音が時代によって大きく変化したことは

 もうすでにお話ししたが、

 コラムの説明のとおり、

 カールグレン氏によってそれが

 <上古音>、<中古音>、<近世音>に三大別された。

 邪馬臺国四つの官名のうち<奴佳鞮>は、

 この研究結果に従がうと、

 中古音で「ヌォガィディェイ」と

 発音せねばならぬことになるが、

 これはどうみても日本語や朝鮮語ではない。

 どこの言葉に一番似ているかというとマレー語なのである。

 例をあげると、マレーの<州>は<ヌグリ>とよばれる。

 また少し発音が変わるが<N>が語頭に来る

 <Nガ>(<ン>と<ガ>を別々に発音してはいけない。

 一種の鼻音で、しいていえば

 <ヌァ>に近い音にきこえる)云々という語が、かなりある。

 <ンガリル>は「流れる」という意味をもっているから

 <ヌガリル>の方が<ナガレル>に

 近いことはすぐおわかりになると思う。

 <ンギアウ>は<ネコの啼き声>だから、

 <ニヤウ>であって<ン何々>でないこともおわかりと思う。

 では<ヌォガィディェイ>に一番近い言葉は何かというと、

 <ヌガンディ>という名詞である。

 <ヌガンディ>とは何かというと、

 これは<牛の像の名>なのである。

 ジャワの有名なチャンディ・プレムバナン」寺院にある

 <ジワ教>の<聖なる牛像>は今でも

 「ヌガンディ」とよばれて信者の崇敬を集めている。

 次に<載斯烏越>を同じく<中古音>で読むと

 「ツァイシェウォ<ジワ>ブト」ということになる。

 この<ツァイシェウォ>を、

 旁国名にあてはめてみると「対蘇王」と

 当て字されたものに合うが

 ジワブトは右の<ジワ>と人(びと)

 「ジワ人(と)」と読めるのである。

 また<掖邪狗>を中古音でよむと

 「ヤ<ジワ>ォカウ」となり、八<ジワ>公ともなる。

 さらに、<都市牛利>をみると中古音で

 「ツオジ<ヌギャンリ>ー」となり

 <ヌギャンリー>の部分は<ヌガソディ>とそっくりになる。

 しかもこの名は最初からヌギャンリーに対して

 「牛利」と文字の意味まで一致する用字になっている。

 さらに思い出して戴きたいのは

 <卑弥呼>の語源であった<天の日矛>の別名、

 <ウシキアリシチ>や、<ツヌガアラシト>であり、

 そのまた語源である沖縄の国名の音が、

 <チヌ>、すなわち「角」であったことである。

 一体、こんなに偶然が重なることがあるであろうか?

 「図:牛頭を象った神宮建築の棟飾部」(加治木原図)

  角・上顎・鼻面・耳・歯・下顎

 「カールグレンと漢音」

 スェーデンの支那(中国)学者ベルンハルド・カールグレンは

 1915年以来、

 中国文化についての優れた業績を残したが、

 中でも中国語の声韻が、

 時代によって大きく変化したことを、はっきりと突きとめ、

 それを一般に理解し易い形で解説してくれたことは、

 中国語ばかりでなく、

 漢字文化の一面を担う日本の古代史学にとっても、

 貴重な貢献であったことを忘れてはならない。

 彼はこの学問の創始者でもなく、

 またその結果にも限界があるが、

 それは人力として当然のことであって、

 彼がこの学問を新らしいシステムによって人類に

 役立つものに高めた事実は永く感謝される価値をもっている。

〔例〕    上古音 中古音 現代音

    邪    dzia    zia     sie

    邪    dzio    ziwo    su

    馬  ma   ma      ma

    臺  deg     dai     tai

        壱    iet     iet     yi     

    奴    no      nuo     nu   

        佳    geg     gai     gia     gie   

        佳    keg     kai     kia     kie

        鞮    dieg    zie     chi    

    鞮    dieg    diei    ti    

       烏   o       uo      wu  

    越    giwat   jiwbt   yue  


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月23日日曜日

神宮建築の原型(3)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    129頁


 「写真:ラムパの神殿」(A.グルーバウエル撮影)
 
 インドネシアの

 スラウェシ中央部ワッタウ近郊のラムパ村の神殿である。

 千木の位置に見事に作られた木彫りの角が取りつけられている。

 同様のものはスラウェシ各地で見られるが、

 様式は多様化分化している。

 また、この屋根の形は大和の高塀造りや

 飛騨の合掌造りなどに多くの共通点をもっている。



 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月22日土曜日

神宮建築の原型(2)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    127~128頁
 「写真:スラウエシの神殿」

 「写真:神明造の神殿」

(いずれも模型標本=筆者所蔵)

 神明造は伊勢神官に見られる建築様式であるが、

 それをスラウェシ(セレベス島)に今も見られる神殿と

 比較してみると多くの共通点が見られる。

 ① 神明造の特徴とされる棟持柱は

   スラウェシのものにも明らかに認められる。

 ② それは左右に突き出た屋根という特別な共通物を

   支えるためのものであることがよくわかる。

 ③ 高床であること。

 ④ その床は四方に広く張り出してバルコニーを形成している。

 ⑤ どちらも牛頭の飾りをもっていること。

 スラウェシのものは棟でなく壁面に、

 誰が見てもわかる描写のものをとりつけている。

 神明造は様式化が進んで誰一人牛頭で

 あることに気づかなかった。

 このことは同じ原型から出発したものではあっても、

 スラウェシでは原始的状態を止めている。

 ということができる。

 なお牛頭の上部にL字型の突出物があるが、

 これと同じものが家屋文鏡の神殿にも描かれている。
 
 また共に切妻屋根である点と共に、

 もう一度比較して御覧戴きたい。

 この他まだ多くの共通点があり、

 さらに模型でなく実物同志比較すれば面白いが、

 本書では逸脱になるから省略する。

 伊勢神宮の建築様式のうちで特に印象的なのは

 左右に長く突出した切妻屋根と、

 それを支えるために屋外に独立して立てられた

 「棟持柱(むねもちばしら)」であるが、

 写真でおわかりの通り、

 全く同じ構造の棟持柱をもった建築様式が

 インドネシア各地に見られる。

 また、これを見ると、

 何故棟持柱が必要なのかがよく理解できる。

 その屋根の張り出しは伊勢のそれよりも、

 はるかに大きく日蔭を作っているからである。

 また、その神殿には牛の頭の彫刻がつけられている。
 
 これは他の様式の神社では棟の両端にあって、

 丁度日本の千木にあたるものが、

 牛の角を表現している。

 これと全く同じものが、

 さきの家屋文鏡の中にもはっきりと写しとられている。

 こうしたことは、古代の家屋文鏡の製作者と、

 今セレべス島などに住んでいる人々との間に、

 はっきりとつながりのあることを示しているのである。

 このことは名詞の面からも明らかになる。

 私たちがこれまで<千木>を<チギ>とよんできたのは、

 正しくは「チヌギ」(千之木)と助詞の「ヌ」を入れて、

 読まねはならなかったのだ。

 ということである。

 なぜなら、<チヌギ>とは沖縄弁で、

 ツ(チ)ノ(ヌ)ギ(角木)のことであり、

 その原型たる<角木>はインドネシアに厳としで実在しており、

 家屋文鏡もまた、

 古型が 現在の千木よりも、

 現在のインドネシアの<角型>に近かったことを

 証明しているからである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年5月21日金曜日

神宮建築の原型(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    125~126頁

 
 「図:家屋文鏡」(加治木原図)

 (奈良県佐味田宝塚古墳出土=宮内庁諸陵寮蔵)

 有名な家屋文鏡(4世紀頃)に見る

 弥生期前後の建築物には4つの建築図が見られるが、

 その4つとも棟端に千木をもっている。

 またその建築様式が後述のものと

 多くの共通点をもっているのである。

 これでわかるのは、

 言語と文明だけがセットになってはいって来るという事実と、

 人間自身が言語と文明を携えてやってくることがある、

 という事実の、

 二通りがあるということである。

 その差は何であろうか。

 それは、文明を伝達する手段としての言語を、

 人間自身が運ぶ必要があった時代と、

 文字や電波または録音や映画という媒体のある時代との相違だ、

 ということである。

 弥生期の日本には文字はほとんど知られていなかった。

 何故なら、数多く出土する土器や農機具類のどれにも、

 全く文字らしいものの痕跡がみられないからである。

 土器に文字を刻んで焼くことはごく容易なことなのに、

 全くそれをしなかったのは、

 土器製作者の大多数は文字を知らなかったという

 動かしがたい証拠なのである。

 では、

 家屋文鏡にみる建築様式はどこの文明に属するものであろうか。

 これは現在では広くマレー語圏に分布するほか、

 北鮮から満洲にかけても実在したという

 明治10年代の記録がある。

 (梅原末治氏書「佐味田及新山古墳研究」)

 しかし新羅が九州から朝鮮半島へ北上したという事実を知り、

 また拙著「異説、日本古代国家」をお読み戴いた方は

 高句麗も同じ南九州から北鮮を超えて満州にまで

 進出したという知識をお持ちであるから、

 今さら少しも不思議でも何でもない。

 いや、むしろ気候や地理条件の全く異なる地域に住んでも、

 人々はその習慣を変えず、

 現代に至るまで、

 遥かな土地の習俗を維持し続けるものだという点に、

 感銘を覚えるのである。

 これと全く同じ感銘は、伊勢、出雲を始め、

 各地に鏡座する神社建築からもうける。

 これらの建築様式が家屋文鏡中の宮殿とごく近いことは

 一見しただけでわかるが、

 いまインドネシアやタイの農村を族行すれば、

 この家産文鏡のそれよりも、

 さらに伊勢神宮的な特徴を備えた神社や住居が

 実在しでいることを実見できる。

 もちろん千年をはるかに超える隔離と、

 文化進展のちがいが、

 多少の変型を与えてはいるが、

 それらが同一起源のものであることと、

 その分離の時代が弥生期をさかのぼらないことが

 容易に観察できる程度の変異しかない。


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書