2010年7月4日日曜日

『魏書倭人章』晉 陳壽撰(宋裴松之 註)3




 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    143頁

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹
【臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皂衣謂之戈綈是也此字不體非魏朝之失、則傳冩者誤也】
絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣丹木拊短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹。
『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


2010年7月3日土曜日

『魏書倭人章』晉 陳壽撰(宋裴松之 註)2


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    142頁


種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飮用邊豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飮酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐其行來渡海詣中國恆使一人不梳頭去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹出眞珠青玉其山有丹其木有枏杼豫樟楙櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有獮猴黒雉其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒
【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】
見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不to[偏女旁戸]忌不盜竊少諍訟其犯法輕者沒其妻子重者滅其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飮食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里。
 
 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年7月2日金曜日

『魏書倭人章』晉 陳壽撰(宋裴松之 註)1


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    141頁

 倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東冶之東其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年7月1日木曜日

宋槧本『太平御覧』所引『魏志』倭人章


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    139頁


第一粂

魏志曰倭国在帯方東南大海中依山島為旧国百余小國漢時朝見者今令使訳所通其三十国従帯方至倭循海岸水行歴韓国従乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千餘里始度一海千里至對馬國戸千余里大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方四百余里地多山林無良田食海物自活乗船南北市糴又渡一海一千里名曰 瀚海一大国置官与対馬同地方三百里多竹木叢林有三千軒許家亦有田地耕田不足食方行市糴又渡海千余里至末盧国戸四千浜山海居人善捕魚水無深浅皆能洗沉沈没取之東南陸行五百里到伊都国官曰爾支副曰泄謀觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王帯方使往来常止住又東南至奴国百里置官曰先馬觚副曰卑奴母離有二万余戸又東行百里至不弥国戸千余置官曰多模副曰卑奴母離又南水行二十日至於投馬国戸五万置官曰弥弥副曰弥弥那利又南水行十日陸行一月至耶馬台国戸七万女王之所都其置官曰伊支馬次曰弥馬叔次曰弥馬獲支次曰奴佳鞮其属小国有二十一皆統之女王之南又有狗奴国男子為王其官曰狗石智卑狗者不属女王也自帯方至女国万二千余里其俗 男子無大小皆鯨面文身聞其旧語自謂太伯之後又云自上古以来其使詣中国草伝辞説事或蹲或跪両手據地謂之恭敬其呼応声曰噫噫如然諾矣

第二粂

又曰倭国本以男子為王漢霊帝光和中倭国乱相攻伐無定乃立一女子為王名卑弥呼事鬼道能惑衆自謂年已長大無夫婿有男弟佐治国以碑千人自侍唯有男子一人給飲食伝辞出入其居處宮室楼観城柵守衛厳峻景初三年公孫淵死倭女王遣大夫難升米等言帯方郡求詣天子朝見太守劉夏送詣京師難升米致所献男生口四人女生口六仁班布二疋詔書賜以雑錦釆七種五尺刀ニロ銅鏡百枚真珠鈆丹之属付使還又封下倭王印綬女王死大作冢殉葬者百余人更立男王国中不伏更相殺数千人於数千人於是復更立卑弥呼宗女台挙年十三為王国中遂定其倭国之東渡海千里復有国皆倭種也又有朱中儒国在其南人長三四尺去俊倭四千余里又有裸国墨歯国復在其南船行可一年至

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月30日水曜日

『魏書倭人章』登場者の系譜


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    99~100頁


 「断定できる「実在」

 これで第1章は終わるが読者の中には

 『魏書倭人章』と『記・紀』とが一致したというだけで

 『記・紀』の登場人物が実在だといいきれるか?と、

 まだ疑問に思う方がありそうである。

 『記・紀』が『魏書倭人章』をもとに作られたものなら

 一致は当然で、

 何も「実在」の証拠にはならない。

 という気がするかも知れない。

 だが考えてみると、

 たとえ『記・紀』が
 
 『魏書倭人章』を写したものであったとしても、

 『魏書倭人章』の方は、

 日本国民をだまそうという目的で作られた

 「ニセの歴史」などではなく、

 帯方郡使が外国人の眼で

 「客観的に見聞きした事実」の報告書を、

 陳寿が編集しただけに過ぎない。

 郡使は何もウソを書く必要も理由もないから、

 そこに登場する人物は全て、実在者ばかりである。

 それをもとに『記・紀』が書かれたとしても、

 「事実の記録による実在者の歴史」であることには変りはない。

 しかも『記・紀』は『魏書倭人章』をもとに

 書かれたものではない。

 なぜなら『記・紀』は『魏書倭人章』の人物が、

 だれだったか知らない。
 
 ことに『日本書紀』は<卑弥呼>を<神功皇后>だと考えて、

 <卑弥呼>が<難升米>を魏へ派遣したことなどを、

 小文字ではあるが何年にもわたって書き添えている。

 『日本書紀』は天皇たちの治世年数を書いているから、

 その遣使の年から数えると、

 本当の<卑弥呼>である<倭迹迹日百襲姫>は、

 それから320年も前に死んだことになっている。

 これではとても『魏書倭人章』の焼き直しだとはいえない。

 また卑弥呼は女王と書かれ、

 男弟は政治を補佐しているに過ぎないのに、

 その男弟を崇神天皇、

 卑弥呼を単なる天皇の姑と逆に書いている。

 かと思えば

 『魏書倭人章』では分らない卑弥呼の死に方などを

 『記・紀』は詳しく知っている。

 『記・紀』を詳細に分析してみると

 『魏書倭人章』とは関係なく、

 どちらも独立して書かれていることが立証される。
 
 だから事実の記録に一致する

 『記・紀』の登場者は「実在だ」と断定できるのである。

 『魏書倭人章』登場者の系譜


 「『魏書倭人章』登場者の系譜」(主に『日本書紀』により『古事記』で補う)

                 孝霊天皇
   ┌───┬─────┬────┻━━━┯━━━━━━━┓
  稚武彦 彦狭島  彦五十狭芹彦  倭迹迹日百襲姫   孝元天皇
                     (男 弟)    (卑弥呼)
             ┌──────┬────┬────┸─────┐
            武埴安彦   彦太忍信 倭迹迹姫 開化天皇   大彦
          (狗右制卑狗)                         ┃          │
           ┏━━━━━━━┯━━━━━━━━━━┛    武渟川別
          崇神天皇     彦座         彦湯隅    (難升米)
          (男 王)                │
           ┃                 丹波道主
           ┃                  │
     ┌──┬───┼──┐       ┌────┬──┴─┐
      ∧  ∧  ∧∧  ∧       ∧     ∧   ∧
     八掖 彦伊 垂伊卑 豊都      沼奴  歌弟薊弥  日弥
     坂邪 五声 仁支弥 城市      羽佳  凝比瓊馬  葉馬
     入狗 十耆 天馬弓 入牛      田鞮  比売入獲  酢升
     彦∨ 狭∨ 皇∨呼 彦利      入∨  売 媛支  媛∨
        茅    素  ∨      日      ∨     │  
            ┃ ∨         売          │
          ┗━━━━━━━━┳────────────┘
                   ┃
                       ┌──────┻━━━━┓
           倭姫命                 景行天皇
          (壹  與)       (戴斯烏越)



 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月29日火曜日

4官名が揃う垂仁天皇朝


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    77~78頁


 これまでみてきた候補者たちのうち誰々が、

 『魏書倭人章』に記録された<邪馬壹国の4人>なのであろうか。

 それを見分けるカギは第一に4人が揃っていること、

 第二に4人が地位の順に並んでいること、

 第三に政権担当者に相応(ふさわ)しい人物であること、

 といった条件である。

 第一の条件に合うのは崇神天皇朝と垂仁天皇朝であるが、

 崇神朝で筆頭官の伊支馬に当たる名をもつ人物は、

 皆子供ばかりで、

 地位順という第二の条件に合わない。

 同じことは景行天皇朝についてもいえる。

 <伊支馬>にあたる<倭建命>は皇子で、

 天皇より上位ということはありえない。

 このことは第三の条件にも合わない。

 では一つだけ残った垂仁天皇朝はどうか、

 も少し許しく検討してみることにしよう。

 筆頭の<伊支馬>は垂仁天皇自身。

 これは合格である。

 次の<弥馬升>は<日葉酢姫皇后>でこれも合格。

 第三の<弥馬獲支>は妃の<円野阿邪美妹歌凝比売>でこれも合格。

 第四の<奴佳鞮>もやはり妃の<沼羽田入比売>でこれも合格。

 4人が揃い、4人が地位の順に並び、

 4人とも政権担当者に相応しい人物であることという、

 三つの条件が完全に揃っている。

 さらにもう一つ絶対に忘れてはならない条件がある。

 それは『記・紀』の記事内容の年代が、

 『魏志倭人章』の邪馬台国の年代と、

 かけ違っていては何にもならないということである。

 ほぼ年代が確実とされているのは、

 「倭の五王」時代に合う点の多い仁徳系皇朝であるが、

 この4~5世紀の記事の前に、

 適当な間隔を置いて配置された垂仁天皇朝の記事は、

 3世紀半ばの実在である邪馬台国の年代と、

 よく合っていて何も問題は残らない。

 これほどよく一致することは、どんなに偶然が重なったとしても、
 絶対にありえない。

 ほんの少しの偶然が重なることもごく希なのに、

 これを大量の偶然が重なった奇跡とする者がいれば、

 それは余りにも非科学的で、

 良識に欠けるとしかいいようがない。


      官名
          <卑弥呼> <伊支馬> <弥馬升> <弥馬獲支> <奴佳鞮>

   皇朝

  3 安寧                            ※   

  5 孝昭                 ※           ※

  7 孝霊      子

  10 崇神      ※     子      ※      ※     ※ 

  11 垂仁          ※      ※      ※      ※        ※

  12 景行            子             ※     子

  14 仲哀                                           ※

 これを見ると<伊支馬>、<弥馬升>、<弥馬獲支>、<奴佳鞮>の

 四官名が揃っているのは、明らかに垂仁朝だけである。

 『魏書倭人章』の<邪馬壹国>は、

 『記・紀』の垂仁政権以外にありえない。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月28日月曜日

同じ名の捜査システム

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    69~70頁


 『魏書倭人章』と『記・紀』との官名・人名には、

 互いに方言差があることがお分り戴けたと思う。

 そのことを頭において双方を比較して見ていくと、

 かなりの精度で元は一同じ名前だったと分るものを

 見つけることができる。

 母音が多少ちがっていても、

 子音がほぼ同じ順序で並んでいるものを、

 捜せばいいのである。

 「ほぼ」というわけは、『記・紀』の中の名前には、

 いろいろな助詞(「ノ」とか「ヌ」とか「ツ」とか「ガ」

 といった「…の…」に当たるもの)が、

 間に付け加えられたものがあるから、

 その分だけ原名と、合わなくなっているからである。

 例えば「伊声耆」に合う官名は、

 「五十狭芹彦」と「五十狭茅」など幾つもあるが、

 前者は<イサキンヒコ>。後者は<イサチ>と別の名のように見える。

 しかし沖縄方言で「キ」は「チ」と

 発音されることを知っていると、

 「イサキ=イサチ」で、この部分までは同じであることが分る。

 間題はその次の「ン」である。

 これは助詞の「ノ」を南九州方言で「ン」と発音するので、

 その助詞である可能性が高い。

 そこで他にも同じ例がないか調ペてみる。

 あれば助詞であるから本名とは無関係な、

 任意に挟まれた「余分な音」として無視してよく、

 なければ固有のものとして、前者と後者を厳密に区別して、

 この二つの名は全然別物で無関係だということになる。

 この官名の場合は同じものが沢山見つかる。

 「天日矛」は「あめ・ノ・ひほこ」と

 <ノ>をいれて発音するが同じ例は多数ある。

 「武埴安彦」は分析すると「

 安彦」は「兄彦」を意味していることが確定する。

 兄は古音「ア・エ」で、

 助詞の「ノ」の方言「ン・ヌ・ニ」がついて

 「アン・エヌ・アニ」と変化したものである。

 だから彦の前の「ン」は助詞である。

 これも「○○<ノ>命」のように称号の前に

 助詞をつける習慣の方言化で、決して例外ではない。

『魏書東夷傳倭人章』

 官名・人名発音比較リスト:Bernhard Karlgren 氏中古音

 日本の『記・紀』万葉時代の古音:『記・紀』の該当者名

  (原名)      (B・K氏中古音)      (日本の8世紀音) (『記・紀』の該当者)

 卑狗     ピーコー        ピコ       日子・比古・彦

 卑奴母離   ビーノモーリー     ピナモリ     夷守

 爾支     ジーチ         ジチ       直(ジキ)・日子(ジツ)木(チ)

 泄謨觚      ヤィモークォ      ヤリボコ     (槍矛=八千矛)

 柄渠觚   ピューコクォ      ピホコ      天の日矛

 兕馬觚   ヂマクォ        ジマカ(ン)    田道間守

 多模        タモー         タモ       田裳見宿弥(見=耳)

 弥弥    ミェミェ        メメ       遠津年魚眼眼妙媛

 弥弥那利  ミェミェナリー     ミミダリ     耳垂

 伊支馬      イチーマ        イキマ      活目入彦五十狭茅
 弥馬升   ミェマシャング     ビバス      日葉酢姫

 弥馬獲支    ミェマクァッチー    メマクワシ    遠津年魚眼眼妙媛

 奴佳鞮   ヌカディー       ヌハダイー    沼羽田入比売

 狗右智卑狗 コウチーピーコー    コウチヒコ    武殖安彦

 大倭        ダイワ         オホヤマト    大日本

 卑弥呼   ピーミェクォ      ピーメヲ     倭迹迹日百襲姫(姫王)

 難升米      ナンシャングミー    ヌンシェンビーチ 武渟川別 

 都市牛利  トヂギャーンリー    トチギイリ    豊城入彦

 伊声耆   イシャンギー      イッサンキン   五十狭芹彦     

 掖邪狗      ヤヂャカウ       ヤジャク     八坂王(八尺入彦)

 卑弥弓呼素  ピーミェキウンクォソ  ピメキウーンカソ (姫木王の父)

 載斯烏越  ツァイシゥオジューブツ タアシオジロベツ 大足彦忍代別

 壹与     イェチゥオー      イチヲー     倭姫命(市王) 


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月27日日曜日

沖縄方言型の官名・人名

 

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    67~68頁


 『魏書東夷傳倭人章』の官名・人名を、『記・紀』の

 それと比較すると、

 よく似てはいるが、

 どうもどこか、しっくり行かない点が多いことに、

 お気付きになったと思う。

 彦・日子は<ヒコ>という発音が正しいのに、

 <ヒク>になっているし、

 田裳は<タモ>なのに、<タム>になっている。

 これをアルファベットで書いてみると、

 hiko=hiku

 tamo=tamu  

 と、語尾の母音が、

 そろってになっているのがわかる。

 こうした母音の違いは、方言による違いなのである。

 沖縄方言では標準語のと発音する。

 この<ヒク・タム>という発音の仕方は、

 沖縄方言と全く同じである。

 御刀姫(ミバカシ姫)=眼眼妙媛で、

 眼に当たる発音は<ミ>である。

 沖縄方言では眼、目など<メ>の音を<ミ>と発音する。

 これもまた沖縄方言と同じだ。

 さらに目立つのは<ナ>と<ヌ>の逆転である。

 渟名は<ヌナ>なのに

 『魏書倭人章』の方は<ナヌ>になっている。

 <イサナキ>も<イサヌキ>になっている。

 沖縄方言では汝(ナンジ=あなた、君)を<ヌージ>という。

 <ナ>と<ヌ>の逆転が明瞭にみられる。

 <伊支馬>も<万葉ガナ>では<イキマ>になるが、

 漢字の上古音では<イチマ>に近い。

 沖縄方言では<キ>を<チ>と発音する。

 君は<チミ>、菊は<チク>である。

 沖縄方言は母音がの三つしかない。


 だから沖縄方言は三母音語に属し、

 すぐ見分けることが出来るのである。

 こうしてみて行くと、

 『魏書倭人伝』の官名・人名の特徴は、

 沖縄方言型のものが実に多いことがわかる。

 帯方郡使が当て字で記録して置いてくれた名前は、

 倭国の人々の内に沖縄方言を話す人たちがいたことを、

 はっきりと証言しているのである。
 

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月26日土曜日

官名・人名発音比較リスト


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    57~60頁
 『魏書東夷傳倭人章』


 官名・人名発音比較リスト:Bernhard Karlgren氏上古音

     日本の『記・紀』万葉時代の古音:『記・紀』の該当者名

  (原名)      (B・K氏上古音)     (日本の8世紀音) (『記・紀』の該当者)

 卑狗     ピェグク       ピク       日子・比古・彦

 卑奴母離   ピェグノマグリァ   ヒナモリ     夷守

 爾支     ニャチェグ      ニチ       根子(日子(ニチグァ))

 泄謨觚      ヂャッマグクォ    ヂマコ      島子

 柄渠觚   ピャンギョクォ    ピポコ      天の日矛

 兕馬觚   ヂェマクォ      ジマカ      田道間守(タ・ジマカン)

 多模        タマグ        タマグ(之)    玉櫛比古(姓氏録)

 弥弥    ミャミャ       メメ       遠津年魚眼眼妙媛

 弥弥那利  ミャミャナリア    ミミダリ     耳垂(耳成山)

 伊支馬      ヤチェグマ      イキマ      活目入彦五十狭茅

 弥馬升   ミャマシェング    ビバス      日葉酢姫

 弥馬獲支    ミャマグァッチェグ  メマクワシ    遠津年魚眼眼妙媛

 奴佳鞮   ノケグディェグ    ヌハダイー    沼羽田入比売

 狗右智卑狗 クウチェグピェグク  コウチヒコ    武殖安彦

 大倭        ダッワル       オホヤマト    大日本

 卑弥呼   ピェグミャゴ     ピメゴ      倭迹迹日百襲姫(姫御)

 難升米      ナンシェングミャ   ヌンシェンビーチ 武渟川別 
 都市牛利  トヂャギュウグリャ  トチギイリ    豊城入彦

 伊声耆   ヤシェンギャ     イサンキ     五十狭芹彦     

 掖邪狗      ヂャクヂオク     ヤジャク     八尺入彦

 卑弥弓呼素  ピェグミャキュンゴソ ピメキウーンゴソ (姫木王の御祖)

 載斯烏越  ツァグシェグオギワツ タアシオジロワク 大足彦忍代別

 壹与     イェッヂョ      イチジョオー   倭姫命(市女王) 



 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月25日金曜日

名詞漢字発音リスト2


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    65頁

『魏書東夷傳倭人章』

 名詞漢字発音リスト:日本の『記・紀』万葉時代の古音

 「当時の使用例が不明のものは近似した文字を

  『 』内に挙げ

  それもないのは、

  参考音(ひらがな)だけを挙げて置く」

 多 タ             

 不 フ

 対  (たい・つい)        

 柄 (ひ・へい)

 大  タ・ダ・(だい)            

 米 メ・(べい・まい)

 臺 (だい・と)         

 母 モ・(ぼ)

 智 チ                 

 謨 ム・モ・(ぼ)

 持 (ぢ)            

 末 マ・(まつ)

 鞮 『提(テ・ディ・(でい))』  

  弥 ビ・ミ・メ・(や)

 都 ツ・ト             

  模 ム・(も)

 投 (とう)             

  掖 (えき)『夜(ヤ)・(よ)』

 奴 ド・ヌ・ノ        

 耶 サ・ヤ             

 那 ナ               

 邑 オ・(ゆう)      

 難 ナ・(なん)        

  与 ヨ・ヲ

 爾 ジ・『尓(ニ)』          

 離 (り)

 巴 ハ                

  利 ト・リ

 馬 マ・メ・(ば)         

  率 (りつ・そつ)

 卑 ヒ            

 盧 ル・ロ

 百 ホ・モモ・(ひゃく・はく)

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月24日木曜日

名詞漢字発音リスト1


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    64頁

 
 『魏書東夷傳倭人章』

 名詞漢字発音リスト:日本の『記・紀』万葉時代の古音

 「当時の使用例が不明のものは近似した文字を

  『 』内に挙げ

  それもないのは、

  参考音(ひらがな)だけを挙げて置く」

 伊 イ                     

 呼 ヲ             

  倭 ワ・『委(イ)』

 古 コ          

  惟  (い)             

 已  イ・ヨ            

  為 イ・シ            

 拘 (句(ク))              

  一  イ・イチ・(ひ)            

 好  (こう)          

  壹  イ・イチ               

 載 (さい)         
 
 烏  ウ・ヲ(からす)          

 市 チ・(いち)           

  越  ヲ・(こし・しろ)         

 支 キ         

  佳 (か)             

 斯 シ          

  華 (くわ)・『渦(ワ)・和(ワ)』    

 升 (す・つ・しょう)        

  獲 ワ・(くわく)             

 臣 オミ(しん・じん)         

  鬼 マ・(き)               

 兕 (じ)           

  耆 キ                  

 邪 ザ          

  牛 (ぎゅう・ご)            

 衰 (すい)        

  弓 (きゅう)              

 声 (せい)        

  躬 (きゅう)              

 制 セ         

  渠 コ・ホ・(きょ)            

 泄 (せつ)・『世(セ)・(よ)』         

  郡 ク・(ぐに・こほり)         

 蘇 ソ

  狗 (句(ク))                 

 素 ス・ソ・(しろ)

  觚 (くわ)                

 姐 (ソ)・(ちぇ)


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月23日水曜日

官名・人名の万葉ガナ読み


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬

壹国
    63~65頁


 『魏書倭人章』の主な官名・人名を<万葉ガナ>読みすると、

 大体つぎのようになる。

 (<万葉ガナ>にない文字は、他の同系の文字によって発音を推定し、
 
 また先にみた升が<ス>、<ツ>という半音だけでなく、

 <ジョウ>という複音としても使われていることや、

 中国音の使用も考えにいれて、

 『記・紀』の官名・人名と比較しやすくしてある。)

 卑弥呼(ピメヲ・ピメゴ)

 伊支馬(イキマ)

 弥馬升(ミマス・ミマツ・ミマジョウ)

 弥馬獲支(ミマカキ・メマクワシ)

 奴佳鞮(ヌハダイ・ヌカティ)  

 都市牛利(トチギウリ・ツチゴリ)

 伊声耆(イサキ・イセヌキ)

 掖邪狗(ヤザク)

 壹與(イチヨ・イヨ)

 狗右制卑狗(クウチアィピク)

 爾支(ジキ)

 難升米(ナンジョウメ・ナヌシェンベ) 

 弥弥(メメ・ミミ・ビビ) 卑狗(ピク)

 弥弥那利(メメナリ・ミミナリ・ビビナリ)

  卑奴母離(ピノモリ・ピヌモリ・ピドモリ)

 (この読みと合う『記・紀』の中の名前を、次ぎに挙げてみる。) 

 イキマ(活目)

 ミマツ(観松・御真津)

 ミマジョウ(御間城)

 ミマカキ(御間城) 

 メマクワシ(眼々妙・目目微)

 ヌハダイ(沼羽田入) 

 トチギウリ(豊城入)

 トチニウリ(十市瓊入)

 イサキ(五十狭芹彦)

 ヤザク(八尺入)

 ピク(彦・日子)

 ビビ(大日日) 

 ミミ(耳) 

 メメ(目目)

 ヒヌモリ(夷守) 

 (母音の発音差は方言差=次の章で詳しく説明する。)

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

原名と変型の証明


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    62頁


 『魏書倭人章』と『記・紀』との

 官名・人名を比較するためには、本来、

 <中国の古音>で書かれていた名前を、『記・紀』編者らが

 (1) どう変型させてしまったか?。

 (2) なぜ変型させてしまったか?。

    徹底的に研究する事が最重要課題である。

    だが変型してしまったものを、

 (3) どうして元の名前が変型したものだと、

    判定することができるか?それが先ず

    大きな問題である。それには

 (4) 「原型と変型との間に共通する」ものを

    見つけ出すことが必要である。

 原型はカールグレンの古音が教えてくれる。

 卑弥呼は ピェグ ミャ ゴ

 伊支馬は ヤル チェ グマ  であるから、

 原型のままではとても『記・紀』のなかには

 見つかりそうにもないが、

 『記・紀』万葉が書かれた8世紀前後の日本で、

 盛んに使われていた<万葉ガナ>で読んでみると、

 伊支馬=イキマ=活目。

 弥馬升=ミマツ=観松。

 弥馬獲支=ミマカキ=御間城。

 といった調子にうまく合うことは、

 先にすでにみたとおりである。

 このことから分かったことは、

 『記・紀』の編者たちは、

 天皇たちの名を耳で聞き伝えて知っていたのではなかった、

 という重大な事実である。

 彼等はそれらの名を

 『魏書倭人章』と同じ当て字の「文字」で知った。

 だからそれを当時の知識で、

 <万葉ガナ>で読んでしまったとすれば、

 これで4つの謎はすべて答が出たことになる。

 (1) <万葉ガナ>読みに発音を変型させて、

    それに合う別の文字を当て字した。

 (2) <万葉ガナ>読みしたために、変型させてしまった。

 (3) 原名を万葉読みしたものと同じ読み方ができるから、

    同じ原名から蛮型したものだ、

    と判定できるので

 (4) の「共通するもの」は、<万葉ガナ>式発音だ、

    ということになる。


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月21日月曜日

変化した『記・紀』万葉音


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
61頁

    
 しかしこれで、すぐ『記・紀』の人名と、

 比較できると思うのは早トチリである。

 なぜなら、これで出た答は3世紀当時の中国の発音であって、

 8世紀か、それ以後に書かれた『記・紀』の発音は、

 これとは随分ちがったものだからだ。

 さきに見た弥馬升を<ミマツ>と読んだり、

 <ミマジョウ>と涜んだりしている事実は、

 もうすでに3世紀の発音が分らなかったことを、

 はっきり示しているのである。

 『記・紀』の人名、官名のもとになった記録を、

 『記・紀』の筆者は自己流の読み方をして、

 いい加減に当て字していたことが、はっきり見て取れる。

 そうしたものがどれ位い違っているか、

 次ぎの一覧表でよくみていただきたい。

(言語学で使う専門的な表音記号は、

 多くの読者にはわかりにくいので、カナ書きを採用した。)

    カールグレン氏の上古音と『記・紀』万葉時代音の比較

   カ氏   記・紀  

 伊 セル   イ    

 都 ト    ト・ツ

 烏 オ    ウ・ヲ  

 奴 ノ    ド・ヌ・ノ

 呼 ゴ    ヲ    

 那 ナル   ナ

 越 ギワッ  ヲ    

 卑 ピェグ  ピ

 支 チェグ  キ    

 弥 ミャル  ビ・ミ

 耆 ギャル  キ    

 馬 マ    マ・メ・バ

 古 コ    コ    

 模 マグ   ム・モ

 渠 ギョ   コ・ホ  

 謨 マ    ム・モ・ボ

 斯 シェグ  シ    

 母 マ    モ・ボ

 爾 ニャル  ジ    

 柄 ピヤング ヒ

 多 タ    タ    

 与 ジョ   ヨ・ヲ

 智 チェグ  チ    

 利 リャ   ト・リ

 市 ヂヤ   チ


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年6月20日日曜日

人名・官名の正しい発音(3)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    57~60頁

 

    (上古音)(中古音)      (上古音)(中古音)    

 多 ta      ta     不 pwo     puo

 対  twad    tuai        柄 piang   piwbng

 大  dad     dai         米 miar    miei

 臺 dag     dai         母 mag     mau

 智 tieg    tie         謨 mag     muo

 持 diag    zi          末 mwat    muat

 鞮 dieg    diei        弥 miar    mjie

 都 to      tuo         模 mag     muo

 投 tu      tau         掖 ziak    ia

 奴 no      nuo         耶 

 那 nar     na          邑 iap     iap

 難 nan     nan         与 zio     iwo

 爾 niar    nzie        離 lia     ljie

 巴 pag     pa          利 liad    lji

 馬 ma      ma          率 sliwat  siuet

 卑 pieg    pjie    盧 lio     liwo

 百 pak     pbk

 言語学上の音表文字や四声の符号などは専門家以外は読みづらく、

 かえつて理解をさまたげるので普遺のアルファベットに直し、

 符号は糾した

 厳密にはXの音を一部、に変えたものがあるが、

 大きな違いはない。

 『魏書倭人章』官名・人名・原発音リスト:
  カールグレン上古音による

 卑 pieg   狗 ku                     ピェグク 
 卑 pieg   奴 no   母 mag   離 lia        ピェグノマグリァ
 爾 niar   支 tieg                   ニャチェグ
  泄 ziad   謨 mag   觚 kwo                         ヂャッマグクォ
 柄 piang  渠 gio     觚 kwo             ピャンギョクォ
 兕 dzier  馬 ma   觚 kwo             ヂェマクォ
 多 ta    模 mag                                     タマグ
 弥 miar   弥 miar                   ミャミャ
 弥 miar   弥 miar   那 nar   利 liad      ミャミャナリア
 伊 iar   支 tieg  馬 ma                   ヤチェグマ
 弥 miar   馬 ma      升 sieng            ミャマシェング
 弥 miar   馬 ma   獲 gwak  支 tieg           ミャマグァッチェグ
 奴 no    佳 keg     鞮 dieg            ノケグディェグ
 狗 ku    右 u 智 tieg  卑 pieg   狗 ku    クウチェグピェグク
 大  dad   倭 war                                     ダッワル
 卑 pieg   弥 miar  呼 go             ピェグミャゴ
 難 nan   升 sieng  米 miar                        ナンシェングミャ
 都 to     市 diag 牛 ngiug 利 liad        トヂャギュウグリャ
 伊 iar   声 sieng  耆 giar            ヤシェンギャ
 掖 ziak   邪 dzxia   狗 ku                          ヂャクヂオク
 卑 pieg    弥 miar  弓 kiung 呼 go 素 so    ピェグミャキュンゴソ
 載 tsag   斯 sieg 烏  o  越  giwat         ツァグシェグオギワツ
 壹  iet   与 zio                   イェッヂョ


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書