2011年6月1日水曜日

卑弥呼と神功皇后をつなぐ謎のことば

※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ヒミコ・プロブレム
真説:日本誕生 黄金の女王卑弥呼
3~25頁




「角がある人」

「絵」アレクサンドロス・コイン(B.C.E.4世紀)

ツルカルニン=二本角のある人=アレクサンドロス大王の

アダ名の一つ。
ヒミコにも重大な関係があることが発見されたコイン。


「もうヒミコにナゾはない!」

前回はノストラダムスと一緒に読者を『未来』へご案内したが、

今世紀末のことは、大体お分かりいただけたし、

次の『黄金の世紀』までは、まだ少し時間がある。

あきっぽい読者たちのために、こんどは『過去』へ、

これまで不明のままだった『日本誕生の時空』へ飛んで、

ロマン観光のご案内をすることにした。

ご存じのように私は『過去』の方が専門だったのである。

そちらなら半世紀を超える実績がある。

ちょっとした超能力にみえるほどの、

「時空を超えて旅するキャリア」をもっている。

そのお陰でノストラダムスの大予言も正しく読め、

未来の状況が手にとるように見えた。

少し道草をくつて『未来』へ読者をお誘いしたのだった。

今ではヒミコは日本人の常識だ。

しかし、あなたは本当に<ヒミコ>を知っているだろうか?

ちょっと考えてみていただきたい……。

どうだろう、

あなたの知識はそれでも世界で通用する「常識」といえるかナ?……。

彼女は、日本の建国時代に、海外で最初に認識された女王だった。

日本について語る場合、まずまっ先に語らねばならない人物だ。

日本は今や先進国中の先進国だ。

あなたが海外の知人たちに尋ねられても困らない程度の

「知識第一号」でなければならない。

なぜなら、世界の国々で、たとえ発展途上国でも、

自分の国の歴史がよく分からないという国は余りない。

国民は自国の歴史を誇りに思っていて、

ほんとうによく知っている。
しかし、日本の古代史学は学問としては余りにお粗末だった。

『学問』とは「だれがやっても同じ答が出るシステム」のことだ。

まぐれ当たりの「説」は何の役にも立たない。

だから私はそのシステムと、

ヒミコ問題のカギをにぎる「証拠」を数百、

この本のために用意した。

実際は言語まで数えると数十万の証拠を揃えた。

これで邪馬台国問題の主語=卑弥呼は、

「日本側からみるとだれ」だったかすっきりして、

あとに疑問は残らない。

これだけ読んでいただけば、

外国の人に日本の建国について聞かれても困ることはない。

なぜならヒミコのことが分かれば、

邪馬台国が「どこにあった」かも完全に分かるし、

どんな「事件」があったのかも

日本書紀』や『古事記』にくわしく載っているからである。

そればかりか

「彼女はギリシャ系の女王だった!」という思いがけない

意外な「事実」も明らかになっている。

まあビックリ箱を楽しむように読んでみていただきたい。

いまの加治木義博には、

世界中の学者が「絶対にわかることのないナゾ」と

思いこんでいたような、彼女の「生い立ち」から、

若い日の恋愛、美人だったか、

どんな超能力で女王にまでなったか、

というような細かいことまで、数えきれないほどの「真相」を、

想像なんか交えずに、動かない完全な証拠をそろえて、

お話することができるのである。

邪馬台国の問題」どころか、

もっと時代がくだる聖徳太子や大化の改新も、

さかのぼれば、縄文時代以前の日本人の先祖たちの大移動も、

今ではハッキリ眼にみえるように分かっている。

それが本当か、どうか。

この本に書いてある『答』の代表的なものを少し挙げてみよう。

「卑弥呼」は何語か。

彼女はドコで生まれたか。

両親はダレで、どんな家庭だったか。

美人だったか。

夫はモンゴリアンかユトロピアンか。

夫の任務はどんなものだったか。

なのになぜ『魏書倭人章』には「夫はいない」と書いてあるのか。

女王の仕事はどんなものだったか。

「鬼道」とは魔法か。

彼女はなぜ「鏡」が必要だったか。

女帝はどんなファッションだったか。

そんな地中海文明はどんなコースを通って日本へきたか。

彼女が治めたのはヤマタイかヤマダイかヤマイチか。

それはどこにあったか。

倭人連邦はどこにあったか。

彼女はどこで死んだか。

彼女の墓は古墳か。

彼女は今、どこに祭られているか。

彼女は天皇家と関係があるか。

天照大神とは何を意味する名だったか……。

これくらいにしておこう。

この十倍ものナゾに「なぜ、そうなのか」はっきりした

「詳しい理由と証拠」のそろった『答』が書いてある。

この小さい本の中に全部つまっているのである。

これで間違いだらけだった日本の建国史はすっきりした……。

さあ、お読みください。

「卑弥呼の正しい読み方は?」
卑弥呼という名は『魏書倭人章』の中に5回でてくる。

この文字が間違いということはない。

「弥」の字はほんとうは「彌」だが、この本では略字の方を使う。

普通、この名は「ヒミコ」と読む習慣になっているが、

それでいいのだろうか?

もし違っていると、

それと一致する名があったとしても何にもならないから、

めんどうがらずによく確かめることから始めよう。

漢字は古代と今とでは発音が違っている。

それは今の中国語を聞くとすぐ分かる。

日本に入ってきたときの発音と今の発音とではずいぶん違う。

私たちが「漢音」といっているのは古代の発音なのである。

また、昔入ってきた発音でも、

お寺の坊さんが使う発音もずいぶん違う。

普通なら「キンコウ」と読む「勤行」を「ゴンギョウ」と読むし、
経済の「経=ケイ」を「キョウ」と読む。

ところが同じお寺でも禅寺では「キン」と読む。

これは禅宗が12世紀に入ってきたときの

中国の政権「宋(そう)」の発音が中心になっているので

「宋音」と呼ばれるもので、普通の寺の方は「呉音」。

私たちが主に使っているのを「漢音」と呼ぶが、

実は、それは「唐」の時代の発音で、

本当の「漢」から「魏=ギ」の時代の発音は、

もっと違ったものだった。

「魏」の時代に書かれた「卑弥呼」という字は、

本当の「漢・魏音」で

発音しないと正しい読み方はできないということになる。

このことは昔の人も気がついていて、

普通「ヤ」と発音する「弥・彌」の字を

「ミ・メ」と発音して「ヒミコ」または「ヒメコ」と読んできた。

それは聖徳太子関係の古文書などに、

名前として書かれたこの文字が

「ミ」または「メ」と読むしかないという

手掛りがあったからである。

しかし手掛りのない「卑と呼」は、

しかたなく「ヒ」「コ」と読んで

「ヒミコだ」いや「ヒメコが正しい」と論争がはじまり、

そのまま今まで続いているのである。

この論争に一応の学問的解決を与えたのは、
加治木義博の『邪馬臺国の言葉』

(1967年=コスモ出版刊)が世界で最初だった。

それはスエーデンの中国学者カールグレンの

中国語時代別比較の業績を

日本で始めて紹介したもので、

それによって『魏書倭人章』中の名詞の本当の発音が、

1700年ぶりにやっとよみがえったのである。

「アイヌ語に当てはめて読むとピッタリ!」

それによると「卑弥呼」という字はカナ書きでは

「ピェ・ミャル・ゴ」になる。

これは今の日本語の名前からはちょっと考えらない名前である。

では彼女は日本人でなかったのか?

ここで新しい興味が湧いてくる。

では何人だったのだろう?

そのころ日本列島にいた人々としてすぐ頭に浮かぶ

アイヌ人たちの言葉ではこれを何と読めるのだろう。

アイヌ語では「ピ・ミク」。

ピ=解く。

ミク=告げる、吠える。

これは、神託(しんたく)(神のお告げ)を解いて人々に告げた

彼女にはぴったりの名だ!

ウン! やっぱり! アイヌ語……。


「マレー語でも読める!」

しかし学問に早合点(はやがてん)は、絶対許されない。

次に当時間違いなく日本にいたもう一つの人々である

インドネシア系の人の言葉ではどうなるか、見てみよう。

マレー語では「ペーメール」=政府。

「ペーメーロク」=抱擁する者、保護者。なんと!

これもまた、いかにも女王卑弥呼にふさわしい名前ではないか!

しかしここでは、彼女の国籍が問題なのではない。

ページ数にかぎりのあるこの本では幾らおもしろくても

脱線してはいられない。

国籍はあとまわしにして、

当時の日本語について考えるほうが先である。

といっても当時の日本について書いた記録は、

この『魏書倭人章』以外にはないのだから、

逆に当時の中国人が「卑弥呼」と「当て字」したのは、

日本流に発音すればどんな言葉だったのか、と考えるしかない。

多分彼女の時代も含まれていると考えられる日本の記録である

『古事記』『日本書紀』などの古代文献から、

名前につかわれている

「ピェ」「ミャル」「ゴ」に相当する

文字を選びだして並べてみよう。

日本語は、この「ピェ」と発音されていた

「卑」を「ヒ」と発音し、

「ミャル」の「彌」を「ヤ・ミ」という発音に変えている。

だからもちろん、この『魏書倭人章』の当て字以外は、

こんなふうにピェとか、ミャルといった発音のものはない。

なぜなら『日本書紀』が編集された時の中国は唐代で、

その時の発音が日本に入ってきて、

今まで使われているからである。

だからたとえこの「ピェ・ミャル・ゴ」が本名だったとしても、

記録のほうでは日本語化しているはずである。

それに注意して拾いだしてみると次のような文字が考えられる。

ピェ:稗、冷、氷、比、日、火、

(稗によく似た文字=穂、これは日・火のホ音に合う)

ミャル・ミェ:宮、見、造=ミヤッコ、三重、耳、御、美、

目、芽、女、売、馬

ゴ:御、五、後、呉、語、午、牛、児、子、胡、期、許


「「ヒミ」の発音は三母音の沖縄語の影響」

また「ピェ」と「ミャル」に当てた字の、

二字が一字になったものには、

比売(ヒメ)から変わった姫、媛(ヒメ)の字がある。

ピェが「ヒ」に変るのは、

五母音でできている今の日本の本土語と性質のちがう

三母音の沖縄語の影響なのである。

沖縄語の母音には「e=エ」と「o=オ」がないので「エはイ」に、「オはウ」に変わってしまう。

また<ハ行>の発音も本土語と違って「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」と訛る。

はっきりした「h」でなく「f」の音で発音するのである。

だから「ピェ」は「ヒ」でなく「フィ」になってしまう。

「ミャル」は今「宮良=ミヤラ」さんという姓があるので、そんなに変わらないことが分かる。

しかし「ミエ」と「メ」には変わらない。

この二つなら、どちらも「ミ」になってしまう。

だから私たちが「ヒミコ」と発音しているのは、この沖縄語の影響なのである。

そうでなければ、多分「ヘミャコ」か「ヘマコ」と発音しているだろう。


「昔は沖縄にもいたアイヌの人たち」

しかし「コ」は沖縄語ではないから「ク」になる。

今の発音なら「フィミク」である。

ここで考えてほしいのは3世紀の沖縄住民が、

この「フィ」を「ピ」と発音していたら「ピミク」になる。

これは先に見たアイヌ語とまったく同じなのである。

これは言葉だけが同じというのではない。

沖縄には今もアイヌ系の人たちと体格、

顔かたちが非常によく似た人が多い。

また昔、沖縄が流求(りゅきゅう)と書かれていたころ、

沖縄は「大リュウキュウ」と呼ばれ、

その支配下にあって「小リュウキュウ」と

呼ばれていた大きな島がある。

台湾である。

そこには昔のアイヌ系の婦人が、

自分たち一族の誇るべき習慣として、

口の回りに入れていた大きな「入れ墨」と

完全に同じ入れ墨をしているアミと呼ばれる人々が今もいる。

加治木義博は戦後、台湾を20回以上も訪問して、

そうした人達を調査し。

その結果分かったことは、


そのほかにも口でくわえて演奏する

口琴(ムックリ)など多くの同じ文化をもっていることが分かった。

(加治木義博著『日本人のルーツ』保育社カラーブックス1983年参照)

卑弥呼の名前に

「まさか沖縄語の影響が?」と思うかたもあると思うが、

日本の方言を綿密に調べてみると、

南九州から北海道まで、やはり三母音の発音がたくさんみつかる。

また首相の姓でもあった「ナカ曽根」姓も昔から、

沖縄と本州に分かれて分布している。

けっしていい加減な話ではないのである。

そして忘れてならないのは「三母音」というのは、

マレー語の特徴だということである。

沖縄民謡がインドネシアのメロディに非常によく似ていることは、

昔からよく知られているが、

曲だけでなく歌詞の発音もまたよく似ている。

古代にマレー語を話す人たちが沖縄に住んでいて、

その言葉が今まで残っていることは、

どこからみても間違いない。


「とくに沖縄語の影響が濃い大隅」

鹿児島に住んでみると分かるが、

沖縄語の影響が日本の中でも特に強い。

それは隣り合った両県の地理から考えても当然のことだ。

しかし本来の鹿児島語を見分けるのもごく易しい。

それは「イ・ウ」を沖縄語と反対に、

わざわざ「エ・オ」と発音するからである。

大根を「デコン」。「多い」を「ウエ」とを使う。

また同じ言葉でも薩摩半島は鹿児島型。

大隈半島は沖縄型の影響が強い。

(上が薩摩半島の鹿児島型。下が大隈半島の沖縄型)

単語   薩摩半島   大隈半島     単語   薩摩半島   大隈半島

妻    オカタ    ウッカタ     きれい  キレ     キリ
思う   オモ     ウムウ      危ない  アツネ    アッナカ
腐る   ケッサル   クッサユ     潜水   ズベヲクッ  スン
酔    エ      ユ        あそこへ アスケ    アスキ
月夜   ツッノヨ   チッヌユ     白い   シレ     シリ
返事   ヘシ     ヒシ       黒い   クレ     クリ
干し物  ホイモン   フィタムン    強い   ツエ     ツイ
広い   ヒレ     ヒリ       遅い   オセ     オシ
急いだ  イセダ    イシダ      遠い   トエ     トイ
一昨日  オトテ    ウトチ      加勢   カセ     カシ
くどい  クデ     クヂ       樋(とゆ) テ      チ
うとい  ウテ     ウチ       礼    デ      ヂ

(加治木義博著『鹿児島方言小辞典』南日本新聞社刊・1977年から引用)
鹿児島には今でもこれだけ鹿児島・沖縄双方の言葉が同居している。

鹿児島でなら、

卑弥呼という名は「ピミク」から「フィミク」になり、

さらに後世に「ヒミコ」「ヒメコ」と変わった可能性がある。

卑弥呼が実在したのは3世紀。

『日本書紀』と『古事記』が編集されたのは8世紀。

5世紀もたっているから、その間に、

次第に今の日本語に近くなっていったことを考えなければならない。

古代の記録は、紙でなく木や竹を削った

木簡竹簡(もっかんちっかん)」に書かれていた。

それでも500年もの間には虫やカビに痛められて、

書き換えたり、書き写したりして保存されたのである。

年月がたつにつれて、なんと読むのか、なんと発音するのか、

何のことか、まるで分からないものが次第に増えていった。

『日本書紀』の中の「欽明(きんめい)天皇紀」には

「古代の記録には、読めない文字がたくさんあって、

兄弟の順番さえ、どれが正しいか分からない。

この『日本書紀』には、とりあえずいい加減に書いておくから、
後世の人はよく研究して訂正してほしい」という

「割り注=但書(ただしがき)・マニュアル」が

わざわざ書きくわえてあるほどなのだ。

次は「ヒミコ・ヒメコ」と読める人物が出てくるか。

『古事記』と『日本書紀』(以後『記・紀』と略記)や

『風土記』などの古典を「捜査」して、

いよいよ「彼女の正体」に迫ってみよう。


小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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