2010年3月31日水曜日

神話と歴史をつなぐ人物(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    81~82頁
 もう一人のタキリヒメは、スサノオの命の娘、

 三女神の長女に当る方である。

 古事記

  ① 多紀理毘売(タキリヒメ)またの名、奥津島(オクツシマ)比売

  ② 市寸島(イチキシマ)比売またの名、狭依(サイ)毘売

  ③ 多岐都(タキツ)比売

 書紀本文

  ① 田心(タコリ)姫、

  ② 湍津(タキツ)姫、

  ③ 市杵(イチキ)島姫
                
 以下一書

  ① 瀛津(オキツ)島姫、

  ② 瑞津姫、

  ③ 田心姫。

  ① 市杵島姫、

  ② 田心姫、

  ③ 瑞津姫。

  ① 瀛津島姫またの名市杵島姫、

  ② 湍津姫、

  ③ 田霧(タキリ)姫。

 一見しただけで、ずいぶん混乱が激しいことがわかると思う。

 しかし、そのうちで、

 多紀理(タキリ)毘売、田心(タコリ)姫、田霧(タキリ)姫が

 「タキリヒメ」であることは、説明はいらない。

 また混乱はあっても三人柿妹であることは厳重に守られている。

 そこで応神天皇妃の高城入姫を見てみよう。

 古事記では、品陀(ホムタ)真若(マワカ)王之女(ムスメ)、

 三柱の女王、として

 古事記  ①高木之入日売、②中日売、③弟日売、としてある。

 書紀では ①高城入姫、  ②仲姫、 ③弟姫である。

 この中、仲、弟というのは名前ではない。

 ナカは次女、オトは末娘のことである。

 ここでもぴったり3人だから、よく合うのであるが

 『記・紀』双方とも、

 申し合わせたように②③の名前がないのである。

 一体応神天皇ほどの大帝の后妃の名が

 不明のままということがあるであろうか?

 これは②③のうち一人でも明記したら、たちまち、

 スサノオの命の三女神だと判るために、

 どうしても名前を書くわけにはいかなかったと思いたくなる

 書き方である。

 しかし、タキリヒメの名と、三姉妹という2点では一致している。

 仮にスサノオの命と品陀真若王が同一人だとすれば、

 これまで神話の世界の存在とされていた 

 スサノオの命は実在者品陀真若王の別名だという

 大変すばらしいことになる。

 この仮定が正しければ必ず他の証拠が見つかるはずである。

 天皇の本系でないために品陀真若王の系譜は簡単なものしかない。


 そこで先ず記載の多いスサノオの命の系譜から見ていこう。

 どういうものか、この命を祖とする大国主命一族の記事は、

 『日本書紀』には少く、『古事記』には詳しい。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年3月30日火曜日

人名復原のABC


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    77~80頁
 『記・紀』の神々の名が混乱しており、復原を要すること。

 その方法。

 それによって立派にもとの形がわかり、

 『記・紀』には混乱はあっても、

 それは作りものでなく、方法さえ正しければ真実がわかる、

 優れた記録であったことが証明できた。

 戦後は神話部分は全くのでたらめと断定されて、

 こうした結果が出ることなど、予測しもせず、

 また、それに取り組む人さえなかったことを思えば、

 まず幸先のよいスタートだといえる。

 次は人名の番である。

 こちらは欠史天皇や実在の危ぶまれている人々はさけて、

 応神天皇のお妃(キサキ)を選んでみた。

 応神天皇なら、世界最大の墓をもち、

 河内王朝という呼び名まで与えられた王朝の初代天皇で

 神武天皇のモデルだという説まであり、

 倭の五王の一人か、その祖先だとされているからである。

 だが、それ程の天皇のお妃さえも混乱が見られるのである。

 この方は『日本書紀』では一人であるが、

 『古事記』の方で二人に分裂しているようにみえる。

 それを調べてみよう。

 日本書紀

 高城入姫 (タカキイリヒメ)─去来真稚皇子(イザのマワカ)   

 古事記

 高木之入日売 (タカキノイリヒメ)─伊奢之真若命(イザノマワカ)

 古事記

 葛城之野伊呂売(カツラキノノイロメ)─伊奢能麻和迦王(イザノマワカ)

 方法は全く同じである。

 比較である。

 この場合、かなり長い名であるのと、二つの名であるから、

 縦書きにした方が便利だ。

 また、長い名を先にして、同じ文字をそろえるのが見やすい。

    カツラキノノイロ メ

   タカ  キノ イリヒメ

 ノが一つ多いのは野を入れた上に、また助詞の之を入れたため。

 イロメはイリヒメの訛りか、

 入姫と書いて正しくはイロメとよむのか、

 とにかく問題になる部分ではない。

 とすれば残るのは高と葛である。

 この二字を図のように草書体が原因の読みちがえ、

 と考えると問題は一度に片づく。

 しかし、ここではこの二字が同じ音にあてられた別字と

 考えてみよう。

 その共通のよみ方は、
     葛←→高

 (字型による読みちがえ)

     明←→多

 (角度による読みちがえ)

 須       順   沿  沼  治  冶   

 毌   毋   母   芧  芳  芽  茱   

 匀   句   勾   薜  薛  薢  葪  

 ス   ?   ジュソ エン セウ ジ  ヤ  ?

 クヮソ ブ   ポ   ド  バウ ガ  シュ ?

 イン  ク   コウ  へイ セツ カイ ケイ ?

 草書が原因の読みちがえ(似た文字はいくらでもある)

 高 タカ、タケ、タ、カウ、コウ、カ、コ

 葛 カツラ、カヅ、カ、カド、クズ、フジ

 これは「カ」という頭音だけを使用すれば、ぴったり一致する。

 「カウ」と「カブ」でも近音で相互に代理できる。

 原音は「カキ」、「カウキ」、「カヅキ」とすれば、

 相互に字が変ってもよいことになる。

 この場合は草書体、発音ともに一致するから、

 明らかに同名を別字で書いたものを、

 タカキ、カツラギと読み分けて、二人に分裂したもので、

 多くの資料を集めて編集するという歴史編纂にはつきものの、

 情報過多性疾患であったことが証明された。

 これで、原因は何にせよ、こうした混乱を復原できること、

 その正しい答えは複数になった記録を同じによめる読み方こそ、

 真実のものであることが判った。

 古い名を、研究も調査もせずに、でたらめに、

 こう読むときめていたことが大変なまちがいだったことが、

 いま明らかになったのである。

 以上は、同じ天皇の家族の中での誤りであったから、

 ごく自然で、ありうる事故であった。

 ところが、この人物の名前は、

 あるいはもっと重大な問題のカギになる可能性が、あるのである。

 それは、高城入姫と書いて、タキリヒメと読めるためである。

 それが何故重大なカギになるか、というと、

 他にタキリヒメという人物が存在するからである。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年3月29日月曜日

語源は皆んな「神」


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    70~72頁

 だが、これで終ったわけではない。
 
 どれが一番はじめの名。

 すなわち本当の名なのか? ということが未解決である。

 一見するとTOYOKという字が多いために、

 それだけは確実な本物のもっていた名のように思える。

 しかし、もう少し気をつけてみると、

 葉木がハコと読めること(木は古くコともよんだ)と、

 豊国がホコと読めること(国は古くコとよんだ)で、

 この豊の字が、ハコのなまりとして、

 あとでつけ加えられたものではないかとも考えられるのである。

 豊国をホコと読むのは音読である。

 リストにカナ書きしたのは11、12の’’内をのぞいて

 全部古い日本(すなわち倭)音である。

 そこへ突然、音読を混ぜていいだろうか、と思われようが、

 ④をみて戴きたい。

 浮経野は音読するとフケウノとなり、豊の別の音フと一致し、

 (豊前と書いでブゼソと読むほか、フィとよむ例もある)

 豊齧野の音読フケイノにも非常に近い。

 どうもこの豊の字はトヨだけでなく、

 ホ、フ、フィ、ブなどと読まれた可能性がある。
 
 そこで仮にではあるが、この豊をとり去ってみると、

 1字のものは身体障害者であって、

 2字のものが原型とすれば、

 クニ、クミ、カミ、クモ、クマといった、

 日本語としては貴族的な内容をもった言葉に集約されるのである。

 国、隠(クミ)、組、神、上、雲、熊は、神や天皇や豪族を

 飾ることばとして

 『記・紀』の中に登場する。

 だから、これらは本来一つの言葉だったものが、

 次第に分れて、

 それぞれの音と意味をもつものに、進化した可能性がある。

 そのことばは「カミ」。

 さらにそれはアイヌ語によって「カシ」の木につながった。

 カシということばは神武天皇の即位地が橿(カシ)原と呼ばれ、

 神功皇后の聖域が香推(カシヒ)の宮と呼ばれ、

 神に祈りを捧げるしるしを拍手(カツワデ)といい、

 神饌は柏(カシ)の葉に盛られ、

 天皇に食事を奉る官吏を膳(カツワデ)と呼ぶ、

 一言にしていえば神聖を意味する語である。

 こう考えを進めると、これらの語の一番元になった語源は、

 ごく単純な「神」だったとしか思えない。

 それが欽明記の注にあった通り、古字であったことから、

 変化しはじめ、同じ意味が上下に重なり合った

 葉木国や浮経野豊買といった状態が生れ、

 さらに様々な文字が使われたために、

 「の」という助詞も名前として扱われて「野」となり、

 このリスト中にほ番外だが

 「熊野」大神という名も生れたのである。

 これは断言ではなく、まだ仮説であって、

 さらに研究が必要だが、この分化がさらに進んで、

 人為的に修飾が加えられた証拠があるから、それを見て戴くと、

 私たちの結論が仮説としても非常に純度の高い、

 真相に近いものであることが、おわかり戴けると思う。

 それは書紀の、

 この神名の一書の次に来る本文(間にまだ幾つも一書がある)に

 「惶根尊(カシコネ)」

 亦曰「吾屋惶根(アヤカツコネ)尊」

 亦曰「忌橿城(イミカシキ)尊」

 亦曰「青橿城根(アオカツキネ)尊」

 亦曰「吾屋橿城根(アヤカシキネ)尊」という神があり、

 次の一書ではイザナギ、イザナミ二神は、

 この青橿城根尊の子なり、と書いている。

 その次の一書では沫蕩(アハナキ)尊がイザナギ尊を生む、

 と書いてあるから、

 もう一つ「沫蕩(アハナキ)尊」も亦の名なのだということが、

 アヤ、アオ、アハという類似とキの一致で確認できるのである。

 もう説明はいらないかとも思うが、

 念のために進化リストを作ってみよう。

 本来「神」という言葉が、次第 に変化して

 沢山の「神々」を生み出して行った様子が、

 おわかり戴けたと思う。

 その神は私たちが「熊野大神」と考えるのが

 一番わかりやすい神である。

 その神がはじめて、今度は分身でなく子神を生んだという。

 『日本書紀』では

 「伊弉諾尊(イザナギのミコト)」、

 「伊弉冉尊(イザナミのミコト)」。

 『古事記』では、

 「伊邪那岐命(イザナギのミコト)」、

 「伊邪那美命(イザナミのミコト)」という

 文字が使ってある二神である。

           神
           ↓
         コ ム ニ
           ↓ 
          カシの木
           ↓  
         カ シ キ
           ↓
        カ シ コ ネ
           ↓
       アヤ カ シ コ ネ
           ↓
       アヤ カ シ キ ネ
           ↓
       アオ カ シ キ ネ
           ↓
 人為的修飾語(アハ)   ナキ  (ナ) <助詞「の」=「ナ」>


『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年3月28日日曜日

方言、アイヌ語、朝鮮語


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    65~69頁

 次の表を見て頂きたい。

 <D>の部分は<カ>と<ク>の違いにすぎず、

 これは日本語では起りやすい訛(なま)りである。

 集中的に変化が見られる部分は<E>の列である。

 それだけをとり出して<JK>にローマ字で書いてみると、

 これもまた<J>では<N>と<M>の違いにすぎないことがわかる。

 「方言・アイヌ語・朝鮮語」

            ABCDEFGHI JK

 ① 豊  国  主  トヨ クニ ヌシ  NI

 ② 豊  組  野  トヨ クミ   ノ MI

 ③ 豊 香 節 野  トヨ カ  フシノ 

 ④ 浮  経  野    ウカ  フ ノ 

 ④ 豊     買  トヨ カ(イ)(フ)   I

 ⑤ 豊  国  野  トヨ クニ   ノ NI

 ⑥ 豊  齧  野  トヨ クイ   ノ  I
            トヨ カミ   ノ MI

 ⑨ 豊  斟  野  トヨ クミ   ノ MI
            トヨ クム   ノ MU

 ⑩ 豊  雲  野  トヨ クモ   ノ MO

 ⑧ 国  見  野     クニ ミ ノ NI
               クミ   ノ MI

 ⑦ 葉 木 国 野 〔ハキ〕クニ   ノ NI

 11 葉   木(アイヌ読み)‘コム   ニ’

 12 (コム)=(朝鮮語の) ‘クマ ’(ノ)
 
 13 (その意味は)日本語の カシ

 
 <N>と<M>。は語尾に来た場合、「ン」になって

 区別がつかないが、

 語頭にあって区別がつかないことはあまりない。

 現代の日本語では、<ナ>行と<マ>行が

 ギッシリ言葉でつまっていて、あまり混乱はない。

 しかし方言には、この二つが混乱しているものがある。

 さきにお話しした朝鮮にあったのか、

 逆に日本の中にあったのかと言う任那(ミマナ)も、

 よく見て頂くと、本当は<ニンナ>とよむべき字であることが、

 おわかりだと思う。

 この<任>と同音の<壬>を使った有名な地名は、

 新撰組の本拠があった壬生(ミブ)である。

 虹と書いてニジとよむのは常識なのだが、

 大分県から四国、和歌山、三重へかけてと、

 島根県から京都、石川、富山の一部へ、

 とびとびにではあるが「ミョージ」あるいは「ミュージ」と

 発音する所がある。

 蜷(ニナ)川というよく知られた姓があるが、

 この蜷を、長崎、鹿児島、宮崎などでは、

 ミナあるいはビナと発音する。

 さらに南へ行くと、沖縄方言では蓑(ミノ)をンヌ。

 味噌(ミソ)をンシュと発音する。

 八丈島では「苦(ニガ)い」をミガイという。

 大変な訛り方だと思うが、

 私たちがふつうに使っている葱(ネギ)の仲間の韮(ニラ)は

 正しい発音であろうか?

 大言海には、古くは<ミラ>が正しかったと書いてある。

 こうなってくると、<ニナ>と<ミナ>も、

 そのほかも、どっちが正しいのか、わからなくなる。
 
 この例によって、<ニ>と<ミ>が入れかわることも、

 それほど、とんでもないことではないことが理解できたと思う。

 文字の上ではずいぶん違ってみえた、

 この神様の名が、

 本当はそれほど変っていないらしいことが判ったわけである。

 といっても一つの例外があったことを忘れることはできないが。

 例外とは⑦の葉木国野である。

 この<葉木>の二字はどうしても納得できない文字である。

 これに隠されている謎を解いてみよう。

 <ミ>と<ニ>の訛りが、方言で証明されたのだから、

 これも方言の中に答えがありそうである。

 まわりくどいことを言っていても無駄だから、

 タネあかしをすると、

 私のようにアイヌ語を知っているものには、

 はじめから少しも不思議ではなかったのである。

 葉はコム。木はニ。と、アイヌ語では発音する。

 リストの一番下を見て戴くとひと目で判るように、

 コムニはDEIに対応するもので、

 アイヌ語の<コムニ>と日本語の<クニノ>と

 二つが重なつたものなのである。

 ついでにお話ししておくと、

 アイヌ語ではコムニという熟語があって「カシの木」を意味する。

 この「カシの木」を古事記伝は「熊白樺(クマカシ)」という

 難かしい書き方をしているが、

 原文では久麻加志(クマカシ)とあるだけである。

 コムニがクマカシであるとすると、

 コムとクマが、さきのクモ、クミ、クムの同類で

 あるように見える。

 ここでも手数を省くために私の朝鮮語の知識をお役に立てると、

 熊はコムと発音するのである。

 すると、この三つのことばは、

 お互いに抜きさしのならない重要な関係にあることがわかる。

 アイヌ語のコムニが、

 朝鮮語の熊ということばを誘い出して倭語の熊カシを生んだか、

 倭語の熊カシが、朝鮮でコムの木と呼ばれ、

 それがアイヌ語に移ってコムニということばが生れたか、

 朝鮮でコムは熊、アイヌでコムは橿だったために、

 その双方の接触点「倭」ではカシの木を熊橿と呼んだか。

 いずれにしても、その一つが欠けても

 成立しないサークルを形成した言葉だったのである。

 それが、どこからどこへ、どう移ったかを追求するのは、

 もっと先のことである。

 ここでは、アイヌ語が、

 日本の神名に影響していても不思議ではない、

 という証明さえ得られれば良い。

 それは葉木という文字自身が日本とだけでなく、

 朝鮮とも切り離すことのできない交流があったことを

 立派に証拠立てたのである。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2010年3月27日土曜日

欽明天皇が初代か

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    55~58頁

 『日本書紀』が欽明天皇紀から書き始められたという証拠としては、

 注だけでは弱いとお思いの方に、

 もう一つの証拠を御覧に入れよう。

 『日本書紀』第23舒明天皇紀は、

 推古天皇の死後、

 だれが皇位を継ぐかで動揺する関係者たちを、

 詳細に描写した部分に始まるが、

 その中心人物で、決定権を握る蘇我蝦夷が病気になり、

 代行者、阿倍臣、中臣連、河辺臣、小墾田(オハリタ)臣、

 大伴連ら重臣を通じて

 山背大兄王子に伝えた言葉がある。

 「磯城(シキ)島の宮に

  御宇(あめの下治(し)らしめしし)天皇の世から近世に及ぶまで」

 という語り出しである。

 これは、うっかりしていると、神武天皇の世から、

 という風に思えるかも知れないが、

 磯城島宮御宇天皇というのは欽明天皇のほかにはない。

 蘇我蝦夷といえば、

 その後「天皇記」、「国記」などを焼いて自殺した、

 あの人物である。

 その蝦夷がわざわざ初代天皇を欽明天皇だと

 指摘しているのである。

 それも、天皇を指名するという国家の最前の大事を

 決定するための、

 荘重かつ厳粛な宣言の冒頭を、権威あらしめるための、

 第一声である。

 それがとんでもない間違いであったとしたら、

 喜劇にしかならない。

 さらにそれは蝦夷一人でなく、

 多くの重臣たちを通じて伝えられたのである。

 蝦夷が伏惚の人で神武と欽明を間違ったとしても、

 重臣たちが訂正したはずである。

 また、それも間違ったままで終ったとしても、

 記録するものが訂正したはずである。

 記録者が間違ったとしても多くの校閲者が

 それを訂正したはずである。

 さらには多くの読者が納得しなかったはずである。

 これだけの関門があるはずの日本の正史、『日本書紀』に、

 堂々と欽明天皇が初代天皇だと書いて

 現在まで残っているのである。

 これを単純に間違いだと考えることは不可能だが、

 当時の人人はすべてが、欽明天皇を初代だと知っていた。

 だから唯一人疑うものもなく、

 問題にするものもなく、訂正するものもなかった。

 と考えれば、別に何一つ不思議な所はないのである。

 しかし、こういったからといって

 私はこのたった二つの証拠だけで、

 欽明天皇が初代の天皇であり、

 『日本書紀』は欽明紀から書き始められた、

 と「断言」するつもりはない。

 仮にそれが真実であったとしても、

 それを証拠だてるのには、

 まだまだ動かない証拠や証明が沢山必要である。

 では何のために、欽明天皇が出てきたか。

 私たちの目的は、

 『記・紀』が謎ときの相手として

 価値のある文書かどうかを知ることにあった。

 欠史部分は「信頼できる」という一つの証言だった。

 『記・紀』の内容は混乱しているが、

 それが、かえって本当の内容をもっている。

 創作ではない、という証拠であった。

 その一つが見つかったから、

 それをさらに確かめるために、欽明紀冒頭の注と、

 欽明天皇を初代だという証言が、

 真実か、でたらめか考える必要が生れたのである。

 欽明天皇が初代だ、と断言しないことは、

 初代でない、と断言することでもない。

 ただ私たちは、初代天皇という重大な問題さえも

 混乱している所の欽明紀の注どおりの状態が、

 『記・紀』に実在することを確認するだけでいい。

 その注が言う通りのことは、

 現在の『日本書紀』の開巻第一にも

 「皇国主、豊組野、豊香節野……」と恐ろしいほどの

 変り方の実例となって現われている。

 だから今、私たちが、断言できることは、

 ① 『記・紀』は大変混乱した書物である。

 ② 一つの名前が、沢山に変っている。

 ③ その理由は古字の転写に原因がある。

 ④ それは一種の歪んだスケッチである。

 ⑤ それを使って原型を復原できそうだ。

 ⑥ 復原できれば、少くとも『記・紀』に書いてある内容を、

   正しく読むことができる。

 ⑦ それは創作でなく、

   本当の日本の古代史だと信じることのできるものである。

 ということを証明する数々の証拠があるから、

 「『記・紀』の謎ときは、やり甲斐がある」ということになる。

 その謎ときの手がかりも見つかった。

 名前の復原がそれである。

 まずそれにとりかかろう。

 「写真:2つの欽明天皇陵」
 http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/029/index.html

 (上)現在の欽明天皇陵(梅山古墳:奈良県明日香村平田村)

 (下)墳丘の長さが318m。

   大和最大の古墳である見瀬丸山古墳の後円部。

   周濠部には人家が立ち並ぶ。

   「文化財をたいせつに」

   「史跡丸山古墳」の標識も宅地開発の犠牲になって、

    写真のような有様。

  森浩一氏によれば、これが本当の欽明天皇陵であるという。

 「見瀬丸山古墳」

 墳丘の長さが318mの大前方後円墳で、

 後円部に開口していた横穴式石室は長さ26mもある。

 二つの家形石棺が『聖跡図志』などに描かれているが、

 私は欽明天皇と堅塩(きたし)の棺(森浩一氏推定)。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書