『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・35~46頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
「写真」初期の土器を伴う文化:43頁
「新石器時代の村」《技術の発達》
1983年にナハル・ヘマル洞窟が発掘されるまで、
この時期の篭類、織物、木製品に関する証拠は乏しかった。
葦の敷物や織物の痕がついた天然アスファルト・粘土、発掘とともに
失われてしまう土についた圧痕などがそのすべてであった。
ナハル・ヘマルに残っていた遺物のなかには、
木製の鎌の柄、イグサか草の束を糸でつないでつくった分厚い敷物、
より糸で編んで天然アスファルトを貼った篭があり、
さらに細糸から大き10mmに至るロープなど
さまざまなひも類が粉々になって出土している。
天然アスファルトを貼った篭や容器は他の遺跡からもみつかっている。
石を彫ってつくった容器はよくみつかり、
石彫の腕輪も無土器新石器時代の遺跡ではよく知られている。
他の容器としては石灰と灰をまぜてつくった白色容器があり、
レヴァアント地方の一部では盛んにつくられていた。
ジャルモ遺跡だけでも2000点以上出土している。
メソポタミア地方では、容器はむしろ石膏でつくられる方が多か⊃た。
粘土が容器に使われることもあったが、ふつう土偶用だった。
ガンジ・ダレでは粘土製容器が火事でこわされた生活面から
完全な状態で出土している。
その容器はおそらく生粘土でつくられたものだったが、
村が燃えたとさに一緒に焼けたのだろう。
無土器新石器時代には白色容器や住居の床面に石灰が
用いられていたわけだが、
石灰をつくるにはかなりの技量が要求された。
多大な労働力、燃料はもちろん、高温で焼ける窯も必要だった。
石灰をつくるにはまず、石灰岩(CaCO3)をつぶし、
850°Cの温度で数日焼く、
ついで、それをゆっくり冷やして生石灰(CaO)とする。
その後、水をまぜると消石灰(Ca(OH)2)ができ、
それが二酸化炭素にふれると固まるわけである。
その製作は大規模なものだった。
たとえば、チヤユヌでは一つの建物をつくるのに
1.6トンもの石灰が使われている。
テャユメはエルガニ・メイドンの大きな銅鉱石採掘場から
20kmほどしか離れていないところにある。
この遺跡からは、考古学的に古い文化層から
銅製のビーズ、留め針、道具類が100点以上も出土している。
しかし、その他の無土器新石器時代遺跡では
銅製品は二、三知られているにすぎない。
たとえばマグザリーヤでは錐が1点
(1,000km以上も離れた中央イラン産のものといわれている)、
レヴァント地方のラマド、
イラン南西部のアリ・コシユからはビーズが出土している。
こうした品物は自然にえられる金属銅でつくられたもので、
銅鉱石を精錬したものではないと考えられている。
金属の萌芽的利用、共同作業、職人の専門化、長距離交易、
さらに増大しつつあった宗教の重要性、こういったものはすべて、
無土器新石器時代の集団が文明に向かって
大きな一歩を踏みだしていたことを示している。
「新石器時代の村」《イェリコ》
イェリコという古代遺跡テル・アル・スルタンは、
海面下約200mの地にある。
今日、イェリコはヨシュアが角笛を吹き、
城壁が陥落した都市として有名である。
しかし、前2千年紀後半のイスラエル人の侵入よりずっと前から、
そしてその後もずっと重要な都市でありつづけていた。
イェリコが繁栄したのは、
遺跡東側にあった豊富な泉のおかけであった。
最初に住んでいた人々の痕跡は
後の時代の堆積に深くおおわれていたため、
二、三の地点でしか調査されていない。
だがその調査によって、
ナトゥーフ期に人が住みついた後、
原新石器時代(土器新石器時代A期)、
無土器新石器時代(先土器新石器時代B期)、
そし青銅器時代を通して
イェリコは重要な中心地であったことがわかっている。
「写真」
無土器新石器時代のイェリコは、
死者はふつう頭部を取り外し住居の床下に埋められた。
頭部の取り外しは、おそらく肉や腱が腐る前に行われた。
というのは、ふつう顎骨が胴体の骨にくっついてるからである。
床下からみつかった骨のなかには、漆喰で顔をつつみ
窩に貝をはめこんだものも次ある。
二枚貝であることもある。
「図」
原新石器時代のイェリコは石の城壁と
岩盤に掘り込んだ濠によって囲まれていた。
円形住居が立ち並ぶ村が3haほど広がっていて、
おそらく1500人くらいの人々が住んでいた。
イェリコの発展ぶりは早熟ともいえるもので、
大きさで匹敵する遺跡はこの時期、
ほかになかった。
次の無上器新石器時代になってようやく、
他の遺跡も同じくらい大きく、あるいは複雑なものになった。
「写真・図」
原新石器時代のイェリコで、
もっとも注目すべき遺構は
城壁の内側につけられた石の塔である。
それは直径が10m、現存高が8m以上にも達している。
入口は東側の高さ1.7mのところにあり、22段の階段が通じている。
段はそれぞれ1枚の石の板でつくられている。
城壁は何度も修復、再建されている。
また、その外側には、幅8m、深さ2m以上ある堀が
地山に掘り込まれていた。
塔の役割については、まだ議論の対象になっている。
「新石器時代の村」《動物》
野生動物のなかでも、家畜化に成功したのはいくつかの種だけである。
それらには、
オオカミ、ペゾアールヤギ、アジアムフロン、イノシシ、
オーロクス、ヤマネコ、野生ロバなどがある。
すべて近東にもともといた種であり、
それぞれ
イヌ、ヤギ、ヒツジ、ブタ、ウシ、ネコ、ロバの
祖先であったと考えられている。
こうした家畜は、ニワトリも加えて、
今なお世界中でもっとも一般的な家畜、ペットでありつづけている。
メソポタミアの動物についての情報源は三つある。
すなわち、発掘された骨、古文書中の言及、および絵画表現である。
動物骨の研究からは、種がわかるだけでなく、その動物の性や年齢、
さらに患っていた病気までわかることがある。
古代の文書には、
動物の名前の一般的なリスト、
神殿動物についての経済関係の記録、
なにかの前兆となる動物についての観察、
あるいは王侯たちが特別な庭をつくって
狩りをしたり飼育したりしていた動物のリストなどが載っている。
家畜、野生動物、架空の動物を含めて、
古代近東の記念建築や円筒印章には
さまざまな動物の絵が描かれている。
それらには、ゾウやハエ、ワシ、力二、さらにヘビ、カメ、魚などもあったが、
もっともよく描かれたのはライオンや雄ウシなど
メソポタミア文化で重要たった動物である。
家畜動物 野生の祖先 地域 年代
イヌ オオカミ 近東 前1万1000年頃
ヤギ ぺゾアールヤギ 近東 前8500年頃
ヒツジ アジアムフロン 近東 前8000年頃
ブタ イノシシ 近東 前7500年頃
ウシ オーロクス 近東 前7000年頃
ネコ ヤマネコ 近東 前7000年頃
ニワトリ バンキヴァ野鶏 中国 前6000年頃
ラマ グァナコ アンデス 前5000年頃
ロバ 野生ロバ 近東 前4000年頃
ウマ ターバン 南ロシア 前4000年頃
ラクダ 野生ラクダ 南アラビア? 前3000年頃
南中央アジア?
テンジクネズミ ケイビー ペルー 前2000年頃
ウサギ ノウサギ スペイン 前1000年頃
七面鳥 野生七面鳥 メキシコ 前300年頃
「写真」ニネヴェ、アッシュールパ二パル王(前668-27頃)の北宮殿の浮彫り
アッシリア人が狩猟川に飼っていた、一種のマスチフ犬が描かれている。
イヌは最古の家畜動物である。
ウバイド期の墓地(前5000年頃)で
みつかったイヌの骨はグレイハウンドと鑑定されている。
「写真」古代近東の草原にいたガゼルの群れ、
ニネヴェ北宮殿出土のこの浮彫り(細部の拡大)に描かれている群れは、
勢子に追われており、
矢を射る構えをして穴に隠れているアッシリア王の方に向かって逃げている。
「写真」ヒツジの頭形土偶
ウルク出土の前3000年頃の砂岩製石偶と類似している。
ヒツジはメソポタミアでは、つねに最重要の家畜でありつづけている。
毛織物は主要な輸出品の一つとなっていた。長さ13.6cm
「写真」ニネヴェのアッシュールパ二パル王の北宮殿出土の浮彫り
ラクダに乗ったアラブ人が、侵攻するアッシリア軍から逃げている。
ラクダは前2千年紀後半にメソポタミアに導入された。
フタコブラクダは中央アジア原産で、イラン山中に生息していた。
ヒトコブラクダはおそらくアラビア半島原産で、
南の砂漠地帯でみつかっている。
ラクダは運送用には利用されたが、戦闘には使われなかった
「写真」アララクのニクメバ宮殿出土の象牙製箱(前14世紀)
首と蓋の欠損部は木で修復されている。
アヒルやガチョウはメソポタミアでは少なくとも前2500年、
おそらくはそれよりかなり前から飼われていた。長さ13.5cm
「写真」
これらの奇妙な動物はカルフのシャルマネセル3世(前858-25)の
「黒いオベリスク」に彫られているもので、
ムツリ(おそらくエジプト)からの貢ぎ物の一部であった。
一番前の動物(左)は川ウシ(おそらく水牛)と呼ぱれている。
二番目はサイかもしれない。
三番目はヤギの一種のようである。
ムツリからもちこまれた動物には、
ほかにフタコブラクダ、ゾウ、サル、ヒトニザルなどがあった。
「新石器時代の村」《土器》
世界でもっとも古い土器は日本で出現し、紀元前1万1000年にさかのぼる。
近東では3000年ほど遅れて現れるが、影響を受けたのではなく、
別の発明であったことはほぼ確実である。
世界中をみわたすと、土器は定着した村落生活に関連している。
というのは、そのかさやこわれやすさは、
移動的な生活をする多くの採集狩猟民にはなじまないからである。
土器は近東を研究する考古学者にとって、
もっとも重要な人工物の一つである。
土器片はこの地域のどの遺跡でもふんだんにちらばっている。
土器は簡単につくれ、またこわれやすい。
こわれたものは再利用されることなく、
ただ捨てられるために、みつかりやすい。
さいわいなことに、
焼かれた粘土は消滅することなくどんな条件のもとでも保存される。
風や雨が遺跡の表土を流しさっても、土器片はのこり、
多くの遺跡は厚い土器片の層でおおわれている。
土器の研究によって、まことに多くの情報がえられる。
土器をつくる粘土の鉱物学的構成が異なるため、
科学的分析によ⊃て、粘土の産地が同定できる。
そうした科学的手法を用いないでも、
土器の型式学的な違いをみわけることはたやすい。
粘土に混ぜる混和材の種類は多く、
砂粒、スサ(わらをやわらかくしたもの)、毛などである。
これらは、それぞれの器に顕著な痕跡をのこす。
焼成の仕方も器に大きな影響を与える。
とりわけ、焼成する窯のなかの酸素の多寡が、
土器の色彩を赤(酸化焔)から灰色や黒(還元焔)に変える。
土器の器形は、形や大きさに大きな変異をもたらす。
浅い皿から大形の貯蔵用の壷まである。
成形の方法にもいろいろある。
指先で形づくられるもの、輪積み法や巻上げ法によるもの、
型押し法によるもの、
回転台を利用してつくられるもの(前4500年頃以降)、
ろくろ作りのもの(前2000年頃以降)などとある。
器面調整にも種類がある。
ウェット・スムースと呼ばれる器面がやわらかいうちになでる方法、
化粧土をかける方法、彩文をつける方法、磨研法、
さらに、刻文をつけたり、彫りこんだり、型を押しつけたり、象眼を施したりする。
そして前1500年以降には彩薬をかけたものが出現する。
さまざまな製作法や装飾は、
地域や時代によってそれぞれ特徴をもっているので、
土器を用いて編年ができるのである。
先史時代や利用できる文献史料が
あまり多くない時代を研究するときにはとくに有用となる。
さらに、遺跡の表面にちらばっている土器片によって、
その遺跡がいつの時代に居住されたのかといったことや、
ある地域の集落の様相が時代によって
いかに変化したかといったことまでわかる。
土器はまた交易活動の実態や
文化的影響の有無といったことまで明らかにする。
近東のいろいろな地域での
土器の様式の変遷について太枠はわかっていろものの、
編年をさらに細かくしていくのに、
また古代の土器の製作や分布の詳細を理解するには、
さらなる調査が必要である。
『彩文土器』
「彩文土器」
『チヤタル・フユク』
チャタル・フユク遺跡は
1961年から1963年にかけて
ジェームス・メラートが発掘し、
華々しくかつ思いがけない成果をもたらした。
彼は前7千年紀の街の一部を広く掘りおこしたのだが、
そこでは住居が異例なほどよく保存されていたのである。
いくつかの住居を彼は祠堂と呼んでいる。
それらは精巧な壁画と浮彫りで飾られ、
壁やベンチには動物の頭骨が備えつけられていた。
たとえば、
土偶や壁につけられたヒョウ、乳房の模型には地母神、
「出産の女神」がみてとれるとされ、
一方、たくさんある雄ウシの頭骨、
角には男性の神格が表現されているといわれている。
宗教は当時の社会の原動力であった。
チヤタル・フユクは、
この時代に典型的とこれまで思われてさた
単純な農耕村落とはずいぶん違っている。
先史時代の遺跡としては、
この遺跡に匹敵するものはいまだみつかっていない。
ただ、最近の発掘によって、
アイン・ガザル、アブ・フレイラ、ボクラスなど
無土器新石器時代遺跡で、
チャタル・フユクでみられる発展の祖型がみつかっている。
「写真」出産中の肥った妊婦の土偶
ネコのような動物に支えられており、
「出産の女神」とされている。
この土偶は
チヤタル・フユクの最も新しい祠堂の一つから出土した。
頭部は復元である。
「図」第VIB層では家が密集し、近接する家屋は璧を共有していた。
ほぼ半分の家が「祠堂」に分離されている。
家々の間には廃屋のくずが固まってできた広場があり、
ゴミ捨て場に使われていた。
典型的な間取りは、ほぼ方形の居間と、
そこから低い扉ないし壁にあけた穴でつながっている
細長い貯蔵庫とでなるものであった。
「図」第VIB層の集落の一部の復元図.
建物は平搾で、屋根から出入りした。
住居は集落の中心にむかって段状に並んでいた。
「図」第VIA層の祠堂の復元図
壁は材木を芯として日干しレンガでつくられた。
北西部の基壇の下には男性が、
別の壇の下には女性と子供が埋められていた。
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『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
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