※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 40~41頁
㈱徳間書店
その直後に中国では後漢が滅びて三つの超大国「魏・呉・蜀」に分裂し、我こそ漢帝国の後釜になろうと三国が戦いに明け暮れる、あの三国時代に入りました。
その時には遼東は独立して小国「燕(エン)」になり、その王は太守の息子・公孫淵(コウソンエン)でしたが、彼はなかなかの野心家で、中国の動乱を利用してもっと国土を広げようと、魏の向こうにある呉と同盟を結んで、魏を挟み撃ちしようとしていました。
ところが魏の軍隊を西に釘づけにしていた蜀の名将・諸葛孔明(ショカツコウミョウ)が病死してしまったので、魏が先手を打って「燕を挟み撃ちにしよう」と高句麗に申し込んできたのです。
時代がそんな時代でしたから高句麗も、魏のいう通りにしなければ魏は超大国ですからひどい目に遭うに決まっています。
位宮も軍隊を率いて出陣しました。
だが腹黒い魏は前もって、公孫氏が領有していた朝鮮半島中部に軍隊を侵入させて占領し、逃げ道をふさがれた公孫淵が気がついたときには、もう勝敗は決まっていました。
ところがこの公孫氏は卑弥呼らの強力な同盟国だったので、それが滅びては卑弥呼らの倭人連邦も危機にさらされます。卑弥呼は公孫氏の滅亡を知るとただちに、魏が占領地につくった帯方郡に使節を派遣しました。
それに続いて魏の政府が対応した際の記録を、陳寿が編集したものが、いま私たちが仮に『魏書倭人章』と呼んでいる有名な文書なのです。
「図:高句麗の武将」
伊宮時代の高句麗は騎馬戦の先進国、呉の孫権にも大量の馬を贈った。
「駒」を「コマ」と発音するのは、「高麗の獣」という意味。
高句麗が馬の産地だったことを記録している。
また頭にかぶっているのは平安時代以後の絵こ見られる日本の「折れ烏帽子=おれえぽし」と同じもので、これは新羅や加羅の武士もすべて共通してかぶっていて、朝鮮半島を支配した者が、この特殊な烏帽子に象徴された同族だったことがわかる。
魏書倭人章
魏書倭人章
言語復原史学会
言語復原史学会
『検索』
GoogleWeb検索
Google画像検索
YahooWeb検索
Yahoo画像検索
『参考』
歴史徒然
ネット歴史塾
ウワイト(倭人)ウバイド
オリエント歴史回廊(遷都)
古代史の画像
歴史学講座『創世』うらわ塾
翻訳と辞書
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
メソポタミア世界
シュメル-人類最古の文明
0 件のコメント:
コメントを投稿