2012年3月31日土曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(7)



 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     KKロングセラーズ ムックの本
     ジンム・プロブレム
     真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
     39頁

 《誰が巨大古墳を造ったのか
 「誰が巨大古墳を造ったのか

 《古代にあった巨大測量文明の発見
 「古代にあった巨大測量文明の発見



 「絵」古墳の墳形と他の陵墓との関係

 (本図に引いた線は目標物を隠してしまわないように離して引いてある)

 0. 元正陵 

 1. 磐之姫陵

 2. 日葉酢姫陵

 3. 成務陵

 4. 孝謙陵

 5. 神功陵

 い. うわなべ古填

 ろ. こなべ古墳 

 は. 平城天皇陵

 M. 聖武陵

 N. 垂仁陵

 《天平以後に造られた現・日葉酢媛陵
 「天平以後に造られた現・日葉酢媛陵

 陵のもつ重要な線は、

 すべて関連している直線上の陵墓に支配されているし、

 また、それらの陵墓の所在を指し示してもいるのである。

 その数例をあげておこう。

 成務天皇陵の前方部下底線は元正天皇陵(奈保山西陵)と

 磐之媛陵の後円部北端とを結ぶ線である。

 日葉酢媛(ひばすひめ)皇后陵の前方部下底線も、

 磐之媛陵の中央部を経て元正天皇陵に達する線である。

 (この皇后陵は『延喜式』にはない。後世の決定である。)

 孝謙天皇陵の前方部下底線は東南はるか18.5キロメートル先の箸(はし)墓(倭迹迹日百襲姫墓)の後円部東端に達し、さらに崇峻天皇陵に至る24キロメートルの直線によって形成されている。

 箸墓、崇峻陵に比べて、

 8世紀なかばの孝謙女帝の陵が新しいことはいうまでもない。

 とすれば、この下底線の歪みは、

 直線に沿って始めから歪めて造られたのである。

 この結論には疑う余地がない。

 とすれば、奇妙な事実に、お気づきにならないであろうか?

 それは成務天皇陵と日葉酢媛陵という古い時代のはずの陵が、

 後世に造られたはずの

 元正天皇陵によって影響されているという点である。

 古い二陵の下底線が始めから歪めてあったとしたら、

 それは一体なぜなのか、という謎である。

 そして、その東への延長線が交わる所に、

 なぜ元正天皇陵があるのか。

 あらかじめ後世の子孫のために、

 そうした歪みをわざわざ作っておいたのか?

 しかしそれなら、あまりにも時代の離れた元正天皇でなく、

 もっと早い時代の、

 時代の接近した天皇の陵が、

 そこに造られてもよさそうなものだ?

 といういくつもの疑問が、重なり合って出てくるのである。

 同じことは応神陵でもみられる。

 これはどうみても元正天皇陵が先であって、

 成務、日葉酢媛の両陵は、

 それ以後に造られたものとみるはかない。

 だが薄葬令後、天皇の陵も名ばかりになった後に、

 こうした伝説的な天皇や皇后の陵を造営するということが

 はたしてあり得たのであろうか?

 薄葬令後に陵が全く造られなかったのでないことは、

 孝謙女帝陵があることでもわかるが、

 元正女帝が平城京の完成者であること、

 その平城京敷地内には古墳があったが、

 それを削り取って都市計画を実施したことなどを考えあわせると、

 天平二十年(748年)の

 元正上皇の死以後に、

 かつて削り取った古墳の主の崇りを恐れて、

 この成務、日葉酢両陵を造り直したということは、

 あり得ないことではない。

 それはこの二陵が履中陵型式に近いからでもある。

 本シリーズの中の『卑弥呼を攻めた神武天皇』では、

 神武天皇の皇后にあたる日葉酢媛の御陵が、

 『延喜式』の中にないという重大なナゾについてお話しした。

 このことには当然、当時の人も気がついた。

 そこで新しく造営したという裏面史が、

 リアルに目に浮かんでくる。

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2012年3月30日金曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(6)



 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     KKロングセラーズ ムックの本
     ジンム・プロブレム
     真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
     36頁

 《誰が巨大古墳を造ったのか
 「誰が巨大古墳を造ったのか

 《古代にあった巨大測量文明の発見
 「古代にあった巨大測量文明の発見



 「写真」=京都祇園祭の月鉾の飾り幕に描かれた三つ巴

 「写真」巴形銅器
     佐賀県唐津市桜馬場遺跡出土(佐賀県博物館蔵)

 「写真」巴形銅器
    奈良県天理市東大寺山古墳出土

 これはご覧のとおり「万字形」であって「巴形」ではない。

 命名者の無知が、ずっと訂正されずにいる名称のひとつ。

 「写真」太極図

 白い曲玉型は陽、黒いのは陰を意味する。

 これは陰陽が互いに補い合っている形であると同時に、

 互いに争って永遠にひとつになれない混沌の象徴でもあり、

 渦巻きの表現でもある。

 あまり縁起のいい図ではない。

 八幡の象徴である三つ巴はさらに争いが激しい。

 軍神としての八幡を意味するのはそのためである。

 曲玉が太陽象徴であることは『ヒミコ』でお話ししたが、

 中国の思想も同じルーツから出ている。

 「写真」万字(マンジ)
     (印欧名スワスチカ

 ヒトラーのハーケン・クロイツは逆万事。

 これも太陽象徴である。

 との違いは、中心が一つで、

 巴のように多頭ではないことである。

 《八幡様はなぜ巴印か?
 「八幡様はなぜ巴印か?

 なぜそんな形が選ばれたか。

 それは応神天皇の紋章である巴に関係がある。

 三つ巴(ともえ)は

 全国どこの八幡様でもみられるトレードマークである。

 この天皇の名は誉田別(こんだわけ)、

 または品陀和気(ほんだわけ)で、

 その名の由来は、[応神紀]の冒頭にある(誉はホムが正しい)。

 天皇が生まれると、その腕に鞆(とも)のようなコブがあった。

 これはきっと御母の神功皇后が、

 男装し武装して柄をつけていたので、

 そのためそんなものができたのであろうと、

 鞆をホムダというところから、

 ホムダワケと名づけたのだとある。

 『古事記』では

 一名を大鞆和気(おおともわけ)と書き

 同じ鞆の話をのせている。

 巴の字は象形文字で曲玉型のものを現し、

 中国ではこれが二つ組み合わさった天極(てんきょく)図が

 道教の象徴として用いられている。

 この字を日本でトモエと発音するのは、

 鞆に応神天皇にあやかるようにと

 巴(ともえ)を画くのがしきたりとなり、

 鞆絵(ともえ)と巴は一つのものを意味したからだとされる。

 こうみてくると、

 この天皇の陵の特異な形は、すなわち巴を意味し、

 それは私たちが知る曲玉と共通の象徴でもある。

 筆者が曲玉型と呼ぶのは巴は三つ巴などに見るとおり、

 長く尾を引いて互いに抱かえ合って、

 この陵の形とはやや遠いため、

 あえて近似の曲玉を名に選んだのである。

 (なお前記恵我大塚は周濠だけだが、やはり曲玉型をしている)

 図をよくご覧いただくと、

 いかに多くの陵墓が、この大陵を基点としているかが、

 おわかりいただだけると思う。

 と同時に、

 たとえば西側の外濠(そとぽり)にある橋状部までが、

 一つは仁徳陵の後円部の中心と応神陵の同じ中心とを結んだ線、

 またその中心と野中寺とを結んだ線と一致するという、

 完全設計ともいえる形になっていることまで明らかになる。

 念入りに見ていただけば、

 実に愉しい推理と発見に満ちた設計図だと思うのである。

 応神陵が左右対称でない理由はこれでご納得がいったと思うが、

 こうした伝承をもたない天皇たちの陵にも歪んだものが幾つもある。

 平城宮址の北に東西に並ぶ

 佐紀(さき)の盾並(たたなみ)陵群と

 垂仁天皇陵にも大きな歪みがみられる。

 これらは時間経過による崩壊が原因とされているが、

 その想像は成り立たない。

 なぜなら孝謙天皇陵、磐之媛(いわのひめ)陵、

 コナベ池とウワナベ池の御陵伝説地は、

 いずれも陵本体と対応する周濠の形状から、

 造営当時すでに、

 そのように設計されていたことが明瞭で、

 歪みの原因は崩壊によるものではない。

 これを崩壊によるとしたのは、

 古墳相互の位置関係に思い及ばなかったための、

 非科学的な空想であって、

 応神陵と同様、それらの基線を延長してみると、

 すべて他の陵墓に到達し、

 「歪み」にみえていたのは、

 これらの相関線に忠実に設計されたためだったのである。

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2012年3月29日木曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(5)



※出典:加治木義博:言語復原史学会
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真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
33頁

誰が巨大古墳を造ったのか
誰が巨大古墳を造ったのか

古代にあった巨大測量文明の発見
古代にあった巨大測量文明の発見



「図」応神陵の構成要素と各陵墓の関連性(加治木原図)
応神陵の構成要素と各陵墓の関連性(加治木原図)
応神陵の構成要素と各陵墓の関連性(加治木原図)


1 安閑皇后陵

2 正北

3 安閑皇后陵

4 古室山古墳

5 安閑天皇陵

6 仲津姫皇后陵

7 敏達天皇陵を経て藤原武智麿墓

9 日本武尊陵

10 允恭天皇陵

11 聖徳太子墓 

12 城山古墳

13 日本武尊陵

14 千塚

15 推古天皇陵

16 城山古墳 

17 応神天皇陪塚を経て清寧天皇陵

18 古室山古墳

19 孝徳天皇陵

20 城山古墳 

21 応神天皇陪塚

22 吉備内親王墓

23 松塚

24 河内大塚

25 黒姫塚

26 孝霊天皇陵

27 大津皇子墓 

28 雄略天皇陵

29 野中寺旧伽藍跡

30 文珠院西古墳

31 河内大塚

32 仁徳陵円項部中心 

33 東百舌鳥古墳

34 島の山古墳

35 顕宗天皇陵

36 河内大塚 

37 大座間池中之島を経て野尻古墳跡

38 孝霊天皇陵

39 牧野古墳

40 仲哀天皇陵 

41 大座間池を経て平岡古墳

42 孝霊天皇陵

43 来目皇子墓

44 吉備内親王墓

(実際はこの2倍以上の線が関連しているが、

本章の証明にはこれで充分であり、

繁雑で専門的に過ぎるので省略した)

応神陵に支配されている陵墓群
応神陵に支配されている陵墓群

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2012年3月28日水曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(4)



 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
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     真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
     31頁

 《誰が巨大古墳を造ったのか
 「誰が巨大古墳を造ったのか

 《古代にあった巨大測量文明の発見
 「古代にあった巨大測量文明の発見



 「写真」ジェット・ヘリは真方位の上を直線に飛んだ!
     《ジェット・ヘリは真方位の上を直線に飛んだ!
     「ジェット・ヘリは真方位の上を直線に飛んだ!
    
 「写真」紀伊山脈上空で毎日新聞社機上からテレビ解説中の私(加治木義博)
 このとき機長は

 「このコースは真方位を正確に飛んでいますよ!」と叫んだ。

 直線に並ぶ古墳

 右手前から

 景行天皇陵

 崇神天皇陵

 継体天皇皇后陵

 《本当の神功皇后陵と允恭陵の発見
 「本当の神功皇后陵と允恭陵の発見

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2012年3月27日火曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(3)



 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     KKロングセラーズ ムックの本
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     真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
     29頁

 《誰が巨大古墳を造ったのか
 「誰が巨大古墳を造ったのか

 《古代にあった巨大測量文明の発見
 「古代にあった巨大測量文明の発見



 「図」やっとそろった応神系陵墓
    《やっとそろった応神系陵墓
    「やっとそろった応神系陵墓

 1.允恭、実は神功陵

 2.仲津姫皇后陵 

 3.応神陵

 4.応神陵陪塚

 5.仲哀陵

 こうした陵墓に興味のある方には、戦前の参拝地図が必需品です。

 《ヤマトタケル陵は墓ではない
 「ヤマトタケル陵は墓ではない

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2012年3月26日月曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(2)



※出典:加治木義博:言語復原史学会
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真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
25頁

誰が巨大古墳を造ったのか
誰が巨大古墳を造ったのか

古代にあった巨大測量文明の発見
古代にあった巨大測量文明の発見



「図」松塚(日本武尊陵)
松塚(日本武尊陵)
松塚(日本武尊陵)

『御年・御歳』は天皇の年齢ではない
『御年・御歳』は天皇の年齢ではない

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2012年3月25日日曜日

古代にあった巨大測量文明の発見(1)



 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
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     真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
     18頁

 《誰が巨大古墳を造ったのか
 「誰が巨大古墳を造ったのか

 《古代にあった巨大測量文明の発見
 「古代にあった巨大測量文明の発見



 「図」古墳は壮大な測量文明の産物
   《古墳は壮大な測量文明の産物
   「古墳は壮大な測量文明の産物

 《古墳時代直列を発見した13歳児
 「古墳時代直列を発見した13歳児

 《古墳時代に日本に実在したメートル単位
 「古墳時代に日本に実在したメートル単位

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2012年3月22日木曜日

誰が巨大古墳を造ったのか



※出典:加治木義博:言語復原史学会
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真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
15頁

誰が巨大古墳を造ったのか
誰が巨大古墳を造ったのか

古代にあった巨大測量文明の発見
古代にあった巨大測量文明の発見



「写真」ギリシャ最古の海戦図にある万字文の盾
紀元前7世紀

「写真」鞆形埴輪
群馬県伊勢崎市(同市蔵)。

は弓を射たとき弦が跳ねて腕を痛めないように

腕につける皮製のプロテクター。

これまでは、

紀元前後から奈良に大和朝廷があったと思って疑うものはいなかった。

しかし私(加治木義博)著の

『卑弥呼を攻めた神武天皇』でよくおわかりのとおり、

そんな時代には「神武東征」はなくて、

『記・紀』がいう東征にあたるものは、

3世紀の邪馬臺戦争のことであり、

その戦場も奈良なんかではなくて南九州だった。

そのときから、

後に奈良に大和朝廷が実在したと確認できる7世紀までの

4世紀ものあいだ、日本の政治は一体どうなっていたのか?

卑弥呼政権は敗戦で完全に消えてしまったのか?

それともどこかへ移動したのだろうか?

それが後の大和朝廷なのか?

それとも、もっとほかの政権が天皇家になったのか?

謎は泉のように、はてしもなく、

後から後からコンコンと湧いてくる。

4~5世紀「倭の五王」と呼ばれる政権が実在したことは

学校でも教える。

それは仁徳天皇系の政府だとする説が有力だが、

そうだとするとそれが大和朝廷だったのではないか?

また7世紀には隋の国使がやってきて倭王に会っている。

これまではそれは推古天皇のときだとされているが、

そのときの王は間違いなく男性で女帝ではなく、

都も奈良ではない。

これまでも4~6世紀は謎だと、

心ある学者は指摘しつづけてはいたが、

その時代に奈良に大和朝廷がまだ無かったと知っていた人はゼロだった。

でも倭の五王や、

隋使と会った王が『記・紀』の天皇たちだったとすると、

都は奈良以外のどこにあったのだろう?

その王たちは一応「倭王」とされているが本当だろうか?

「倭王」なら卑弥呼政権の後継者のはずだが、

そうでなければ「邪馬壹国」の後であった可能性も大きいから、

この間題は重大だが、

実は『隋書』には

倭王ではなくて「ダイオウ=俀王」

全く別の字で書いてあるのだ。

そして倭の五王も

「確かに天皇たちだ」とはっきり証明できた学者もいない。

「邪馬台問題」は、

もともと「大和朝廷か? 他の政権か?」という大論争だった。

それが私(加治木義博)の手で、

「崇神VS神武(実は垂仁天皇)」の政権争奪戦だったことが、

山のような完全な証拠で明らかになった。

私たちはオリンピックでいえば、

いまだに卑弥呼や邪馬台国は謎だと思いつづけている人たちを、

はるか後方に引き離して、もうゴール直前にいる。

あとはこの謎の4~6世紀のことさえわかれば、

優勝・金メダルはまちがいなし!

というところまできている。

この本はそれをイッキに解決して、あなたはゴールに飛びこめる!

なぜ、そんなことが可能なのか?

それはこの「謎の4~6世紀」には、

動かない巨大な「証拠」があるからなのである。

しかしそれがこの間題の証拠だと、

だれも「発見」していなかっただけなのである。

その「証拠」とは

ピラミッドよりもはるかに大きい

世界最大の墳墓を幾つも含む「巨大前方後円墳」である。

この本の主題であるその当時こそ、

それが造られた「古墳時代」の最盛期であり、

その巨大建造物群こそ、

その時代に日本列島と朝鮮半島とにだけ出現した、

世界にもまれな遺物なのだ。

こんなすごいもののことを日本人であるあなたは、

知らなくてもいいのだろうか。

こうみてくると、

いま私たちが追い求めている「大和朝廷=近畿の支配者」こそ、

その古墳の建設者であったことは、

巨大古墳が近畿とその周辺に分布している事実で、

ダレにだってすぐわかる。

こんなすごい「手掛かり」を捨てておく手はない。

現代のシャーロック・ホームズは虫眼鏡なんか使わない。

ピラミッドより大きい古墳を使って、

これまで跡かたもなく煙のように消えていた

邪馬臺政権や邪馬壹政権を、

ホログラフィのように

見事な三次元立体像にして出現させることに成功したのである。

この本には一ページごとに

推理小説一冊分の謎と答えがつまっている。

百冊分の中身は目次を見ただけでわかる。

それもマンネリの小説と違って、

どんなクイズにもまだ出たことのない新鮮で

しかも真実の歴史常識ばかりなのだ。

これを知らないでは日本の現代人の資格がない。

とまではいわないが、

知らなければ恥ずかしいことだけは事実である。

その数百の知識と謎解きが、

この小さな本にいっぱいつまっているので、

小説のような飛ばし読みはできない。

イッキ読みをすると消化不良を起こす。

一冊を百冊のつもりで、

ユックリ、よく噛んで読むのが私の本をお読みになるコツである。

これがあなたの歴史教養を高めて、

遅れたナマケモノどもをギョッとさせる、

最高の読み方のマニュアルなのである。

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2012年3月3日土曜日

なぞの『日本書紀』と東征の真相(3)



※出典:加治木義博:言語復原史学会
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真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
253~262頁



なぞの『日本書紀』と東征の真相
なぞの『日本書紀』と東征の真相

写真:日本の土器が世界最古


熱ルミネッセンス法など幾通りもの年代測定で、

これらの土器が1万2000年前から

日本列島各地で作られていたことが分かった。

世界最古である。

しかも現代作家顔負けの高い芸術性をもっているのだ!

文明のルーツは日本か!?

ヤタガラスの誕生にからむ大発見
ヤタガラスの誕生にからむ大発見

『書紀』から真相を取り出す法
『書紀』から真相を取り出す法

領土名だから最も重要な「名乗り」
領土名だから最も重要な「名乗り」

神武天皇は何人だったか?
神武天皇は何人だったか?

同時に5天皇がいて互いに戦った話
同時に5天皇がいて互いに戦った話

五瀬の命を射殺したのは孝元天皇
五瀬の命を射殺したのは孝元天皇

卑弥呼はほんとうは老人ではなかった
卑弥呼はほんとうは老人ではなかった

第5の天皇は[綏靖天皇]
第5の天皇は[綏靖天皇]

紀元は1万2000年、いく度もあった東征
紀元は1万2000年、いく度もあった東征

「和(倭)人史」総括年表
「和(倭)人史」総括年表

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