2013年3月15日金曜日

古代史21世紀の研究課題:文明の伝播(古代メソポタミアの解明:ナトゥーフ期)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・27~30頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民



 「写真」無土器新石器遺跡
 
 《ナトゥーフ期

 ナトゥーフ文化は前1万1000年から9300年頃まで存続したものだが、

 ケパラー文化よりも広い地域に広かった、パレスティナとレヴァント地方ではぼぼ全域でみられ、

 関連する遺跡はシリアのユーフラテス川沿岸、さらにその東部からも知られている。

 ナトゥーフ期には穀物を主要な食料資源として利川していたという証拠は、いっそうはっきりしてくる。
 
 ナトゥーフ文化の遺跡では、磨石、炉、貯蔵穴などがみつかるし、

 野生の二条フドオムギや一粒コムギ、あるいはカシの実、

 レンズマメ、ヒヨコマメ、エンドウマメといった野生の植物食料の炭化物も発見されている。

 野生の穀物の種子には圃い皮が密着していて、それらはあぶったりすったりしないと取れない。

 また、野生穀粒の穂軸(中軸)はもろい。

 これは非常に簡単にこわれてしまうもので、

 そうなると穀粒はバラバラになってしまい収穫が困難になる。

 人々が種子を播き、穀物を収穫することになれてくると、

 彼らはより丈夫な穂軸のついたものを選ぶようになった。

 その結果、今では穂軸の違いが穀物の野生種と栽培種とを区別する基準の一つとなっている。

 近東では2種類の野生コムギがみつかっている。

 一粒コムギとエンメルコムギである。

 エンメルコムギは一粒コムギと他の野生の草本が自然交配してできたらしい。

 収獲、植えつけの際に選択することによって、

 一粒系、エンメル系両コムギとも栽培種ができあがった。

 現在の六倍種コムギはおそらく、

 栽培種のエンメルコムギが別の野生種の草と交配して生まれたものと思われる。

 皮⊃まり穎が種子に密着しているか(皮性コムギないし穎性コムギ)、

 容易にとれるか(裸性ないし脱穀不要コムギ)によって

 いくつもの種類を識別することができる。

 オオムギにも皮性種と裸性種があるし、種子の小穂には二条、六条の区別もある。

 当然ながら,裸性つまり脱穀のいらない種の方が一般には皮性のものよりも好まれた。

 オオムギやコムギが野生種なのか栽培種なのかは形態だけみればわかることが多いが、

 他の可食植物ではこの違いの識別は簡単ではない。

 レンズマメ、カラスノエンドウ、エンドウなどのマメ類、イチジク、リンゴ、ナシなどの果物、

 あるいはカシの実、アーモンド、ピスタチオといった

 堅果類の場合は野生種と栽培種にほとんど違いがない。

 ただ、時代が下ると栽培種はより大形になっていく。

 多くの食用植物は考古学的証拠としてはめったに残らない。

 キャベツ、レタス、ホウレンソウ、タマネギ、ニンニクといった葉の多い植物、

 またメロン、キュウリ、キノコのような果肉類が考古学の発掘でみつかることはほとんどない。

 したがって,それらの栽培過程については推測するしかない。

 こういった理由から考古学者の関心は穀物栽培に集中してきている。

 現時点での証拠に基づくかぎり、

 穀物は最初に栽培化された植物の一つだといってよいが、

 マメ類もほぼ同時に栽培化された可能性が高い。

 穀物が他の植物と違う点として、

 乾燥させて、虫やげっし類がつかないようにしておけば

 長期間の保存がさくということもあげられる。

 熱したり煎ったりしておけば発芽を防ぐこともできる。

 こうした性質のおかけで、

 穀物は収穫に労力をつぎこむ時期とその見返りをえる時期をずらすことができる。

 したがって、値打ちはみなが認めるもので交換基準ともなるから、

 穀物はお金のような役目を果たすことができる。

 穀物を貯蔵し後で栽培するようになると、

 富の蓄積という可能性も生まれる。

 そうして、

 富に基づいて地位が決まるという社会を発震させることにもなるわけである。

 ナトゥーフ期の人々は野生の穀物や他の植物も採集していたのだが、

 他の動物から守るためにそれらを「栽培」していた可能性も高く、

 野生種のいくつかを植えていた可能性すらある。

 ナトゥーフ期の人骨の歯は摩耗が激しいが、

 それは食用植物の調理時に磨石を多用していたために

 食料に石粒が入っていたことの表れとされている。

 彼らの骨中のストロンチウムとカルシウムの比も肉食動物よりも草食動物に近く、

 食料の大半が植物で構成されていたことが示唆されている。

 多くのナトゥーフ期遺跡の住人も特定の野生動物を捕まえていた。

 エル・ワドナハル・オレン遺跡では出土した

 動物骨のうち80%がガゼルであったし

 ユーフラテス川流域のアブ・フレイラでも

 (ここはガゼルの自然同遊伊終点に位置していたらしい)

 65%の骨がガゼルのものであった。

 ヨルダン南部、ペトラ近郊のベイダ遺跡ではヤギが主要な獲物たった。

 一方,ヨルダン渓谷のアイン・マラッハの動物骨には

 ガゼル(44%)のほか、コジカ、黄ジカ、イノシシの骨があり、

 野生のウシ、ヤギ、キツネ、ハイエナ、ウサギも少量だが含まれていた。

 アイン・マラッハでは

 鳥、魚、カタツムリ、カラス貝、ヘビ、カメ、げっし類などもみつかっている。

 ただ、それらがすべて食用であったのではなかろう。

 植物の栽培化同様、家畜化は動物に影響を与えた。

 何世代も経るうちに骨に変化が生じ、

 それによって動物考古学者たちは野生種と家畜種の区別ができるようになってきている。

 家畜化の証拠はほかにもある。

 たとえば、

 自然生息地以外のところに動物がみつかること、大ささの違い、

 群れの構成の変化、種類間の割合の変化などがあげられよう。

 しかしながら、こうした変化には家畜化によるもののみではなく

 気候の変化で生じたものも含まれている可能性がある。

 最終氷期が終わると動物の多くは小形化しているが、

 これは、おそらく温暖化した気候に適応した結果であろう。

 しかし、一方で小さい動物の方が家畜化に好まれたということも考えられる。

 ナトゥーフ期の遺跡からみつかる動物骨には圧倒的に野生種が多い。

 しかしながら、アイン・マラッハ、およびその南西のハヨニム遺跡の前庭部からは、

 現代のオオカミよりも小さく、おそらく「人類最良の友」(今や最古の友ともいえる)

であった家イヌらしざ骨がみつか⊃でいる。

 これは考古学者の定量的な分析の結果わかったものである。

 アイン・マラッハでは同じ時期、前1万年頃の層から、

 3-5ヵ月の「小犬」と一緒に葬られた老女の骨がみつかっている。

 その骨がオオカミのものなのかイヌのものなのかはわからなかったが、

 その動物がその老女と緊密な関係にあったことは明らかである。

 ナトゥーフ期の遺跡からみつかる動物骨には、

 それ以前と違って、噛み跡が残つていることがよくあるが、

 これもイヌがいた証拠の一つといえる。

 しかしながら、イヌ自体の骨は比較的少ない。

 これは,イヌが食用ではなく狩猟用として飼われていたためと考えられる。



 北東イラク、パレガウラ洞窟ではイヌの顎骨がみつかっている。

 これは若干、時代のさかのぼる

 前1万1000年頃ザルジ文化のものとされてきたが、時代が下る可能性もある。

 ナトゥーフ期の人々が動物を飼育し植物を栽培していたかどうかは、

 専門家の間でも議論の分かれるところで、それを示す十分な証拠はない。

 《ナトウーフ期集落のパターン

 近東には野生の穀物が現在でも生育している。

 熟したときに2-3週間もあれば、

 一家族が一年間食べるくらいの量を集めることができる。

 しかしながら、穀物の生育地を移動させることはむずかしいし、

 磨石など重い装置が必要なことから、

 ナトウーフ期には定住生活が好まれたものと思われる。

 集落には一年中居住することもあったろうし、

 ある期間だけのこともあったであろう。

 村落や野営地は野生穀物の生育地に設営されたが、

 より短期的な野営地が狩猟を目的として別のところに営まれることもあった。

 集落遺跡には開地のものと、岩陰の前庭部のものとがあった

 開地遺跡の場合、

 建物は簡素で、木の柱で屋根を支えた小屋のようなものだったが、

 地中にlm以上も掘りくぼめてつくるのが一般的であった。

 その方が建築も楽だし、断熱・防寒にもなったからである。

 家にはふつう、炉が一つ備えられ、

 床面には石が敷きつめられた。

 アイン・マラツハの例では、

 家の直径は3.5-5mくらいである。

 建て替えもさかんにみられるから、

 一年中居住していたのだろう。

 この遺跡では9軒の家がみつかっているが、

 実際には50軒以上立ち並んでいて、

 200人-300人くらいの人々が住んでいたものと思われる。

 現在の狩猟採集民は一集団あたり30人くらいだから、

 それよりもはるかに大きな集団だったわけである。

 家の床下から何人分かの人骨がみつかっているが、

 集落から離れたところに埋葬することもあった。

 単葬もあれば、

 数人分を複葬することもあった。

 副葬品はまれだったが、

 個人の装飾品は身につけたまま埋葬するのがふつうで、

 貝や骨のビーズでつくった

 頭飾り、ネックレス、ブレスレット、足首飾りなどがあった。

 ナトウーフ期と同時代の諸文化

 ザクロス山脈およびその山麓部の文化については、

 ナトウーフ文化ほどにはわかっておらず、

 調査された遺跡もごくわわずかしかない。

 サグロスの遺跡でみつかっているフリント石器は

 レヴァント地方のものと似ており、

 さまざまな動植物を利用していた狩猟採集民が残したものと考えられる。

 しかしながら、

 磨石の利用や開地への集落の移動は西方の地域よりも遅れて始まったようだ。

 北東イラクの開地遺跡サウイ・チェミでの調査によれば、

 前1万年頃には、この遺跡の人たちも磨石を用い、

 円形住居に住み始めたようである。

 レヴァント地方ナトウーフ文化同様、

 墓には個人的な装飾品などを副葬していた。

 シャニダールではこの時期の墓地がみつかている。

 この洞窟はもっと古いネアンデルタール人骨で勇名なところだが、

 この墓地からは26基もの墓が発見された。

 このなかには1500もの小さなビーズを頭にまいた子供の墓や、

 フリントの刃を骨製の柄に天然アスファルトで装着した

 ナイフが添えられられていた女性の墓などあった。

 シャニダール洞窟に埋葬されていた成人人骨には、

 子供の骨がともなっていることがしばしばあった。

 これを人身御供と考える人もいる。

 ザウイ・チェミからは一群の奇妙なものが出土している。

 15頭分のヤギの頭骨、17羽ほどの大形の猛禽類(ほとんどがオジロワシ)の

 骨がまとまって出土したのである。

 鳥骨の大半は翼のもので、しっかりくつついているものもいくつかあった。 

 骨についている傷をみると、翼は切り落とされたものらしい。

 鳥の翼とヤギの頭を身にまとってなんらかの魔術的儀礼が

 とり行われていた可能性もあろう。

 もっと時代は後になるが、

 チャタル・フュクの壁面にそうした情景か描かれている例がある。

 《参照》

 「図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア」
 「メソポタミア」
 「シュメル=シュメール」
 「ウワイト」
 「シュメル-人類最古の文明:『小林登志子』中公新書」

 『My ブログ』
 古代のメソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状  


 『My ブログ』
 スメル(シュメール) 八千年
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏         

 《参考》

 《スメル(シュメール)文明
 「スメル(シュメール)文明

 《パーリ語辞典
 「パーリ語辞典
 世界史年表・地図
 日本史年表・地図
 古代史年表・地図
 オリエント史年表・地図
 メソポタミア史年表・地図
 大シリア史年表・地図
 小アジア史年表・地図
 ペルシア史年表・地図
 イラン史年表・地図
 インド史年表・地図
 西アジア史年表・地図
 "南アジア史年表・地図
 中央アジア史年表・地図
 北アジア史年表・地図
 東南アジア史年表・地図
 東アジア史年表・地図
 中国史年表・地図
 朝鮮史年表・地図
 ヨーロッパ史年表・地図
 ギリシア史年表・地図
 エーゲ海史年表・地図
 エジプト史年表・地図
 北アフリカ史年表・地図
 考古学ニュース
 装飾古墳
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

0 件のコメント:

コメントを投稿