2013年3月9日土曜日

古代史21世紀の研究課題:文明の伝播(弥生期の建築・神宮建築の原型・家屋文鏡)



※出典:
 加治木義博
 言語復原史学会



 「写真」神宮建築の原型

 「図:家屋文鏡」(加治木原図)>(奈良県佐味田宝塚古墳出土=宮内庁諸陵寮蔵)

 有名な家屋文鏡(4世紀頃)に見る弥生期前後の建築物には

 4つの 建築図が見られるが、

 その4つとも棟端に千木をもっている。

 またその建築様式が後述のものと多くの共通点をもっているのである。

 これでわかるのは、

 言語と文明だけがセットになってはいって来るという事実と、

 人間自身が言語と文明を携えてやってくることがある、

 という事実の、

 二通りがあるということである。

 その差は何であろうか。

 それは、文明を伝達する手段としての言語を、

 人間自身が運ぶ必要があった時代と、

 文字や電波または録音や映画という媒体のある時代との相違だ、

 ということである。

 弥生期の日本には文字はほとんど知られていなかった。

 何故なら、数多く出土する土器や農機具類のどれにも、
 全く文字らしいものの痕跡がみられないからである。

 土器に文字を刻んで焼くことはごく容易なことなのに、
 全くそれをしなかったのは、

 土器製作者の大多数は文字を知らなかったという動かしがたい証拠なのである。

 では、家屋文鏡にみる建築様式はどこの文明に属するものであろうか。

 これは現在では広くマレー語圏に分布するほか、

 北鮮から満洲にかけても実在したという明治10年代の記録がある。

 (梅原末治氏書「佐味田及新山古墳研究」)

 しかし新羅が九州から朝鮮半島へ北上したという事実を知り、

 また拙著(加治木義博)「異説、日本古代国家」をお読み戴いた方は

 高句麗も同じ南九州から北鮮を超えて満州にまで進出したという知識をお持ちであるから、

 今さら少しも不思議でも何でもない。

 いや、むしろ気候や地理条件の全く異なる地域に住んでも、
 人々はその習慣を変えず、

 現代に至るまで、

 遥かな土地の習俗を維持し続けるものだという点に、

 感銘を覚えるのである。

 これと全く同じ感銘は、伊勢、出雲を始め、

 各地に鎮座する神社建築からもうける。

 これらの建築様式が家屋文鏡中の宮殿と

 ごく近いことは一見しただけでわかるが、

 いまインドネシアやタイの農村を族行すれば、

 この家産文鏡のそれよりも、

 さらに伊勢神宮的な特徴を備えた神社や住居が実在しでいることを実見できる。

 もちろん千年をはるかに超える隔離と、

 文化進展のちがいが、

 多少の変型を与えてはいるが、

 それらが同一起源のものであることと、

 その分離の時代が弥生期をさかのぼらないことが

 容易に観察できる程度の変異しかない。

 「写真:スラウエシの神殿

 「写真:神明造の神殿

 (いずれも模型標本=筆者(加治木義博)所蔵)

 神明造は伊勢神官に見られる建築様式であるが、

 それをスラウェシ(セレベス島)に

 今も見られる神殿と比較してみると多くの共通点が見られる。

 ① 神明造の特徴とされる棟持柱はスラウェシのものにも明らかに認められる。

 ② それは左右に突き出た屋根という特別な共通物を

   支えるためのものであることがよくわかる。

 ③ 高床であること。

 ④ その床は四方に広く張り出してバルコニーを形成している。

 ⑤ どちらも牛頭の飾りをもっていること。

 (スラウェシのものは棟でなく壁面に、

  誰が見てもわかる描写のものをとりつけている。)

 神明造は様式化が進んで誰一人牛頭であることに気づかなかった。

 このことは同じ原型から出発したものではあっても、

 スラウェシでは原始的状態を止めている。

 ということができる。

 なお牛頭の上部にL字型の突出物があるが、

 これと同じものが家屋文鏡の神殿にも描かれている。

 また共に切妻屋根である点と共に、

 もう一度比較して御覧戴きたい。

 この他まだ多くの共通点があり、

 さらに模型でなく実物同志比較すれば面白いが、

 本書では逸脱になるから省略する。

 伊勢神宮の建築様式のうちで特に印象的なのは

 左右に長く突出した切妻屋根と、

 それを支えるために屋外に独立して立てられた

 「棟持柱(むねもちばしら)」であるが、

 写真でおわかりの通り、

 全く同じ構造の棟持柱をもった建築様式が

 インドネシア各地に見られる。

 また、これを見ると、

 何故棟持柱が必要なのかがよく理解できる。

 その屋根の張り出しは伊勢のそれよりも、

 はるかに大きく日蔭を作っているからである。

 また、その神殿には牛の頭の彫刻がつけられている。
 
 これは他の様式の神社では棟の両端にあって、

 丁度日本の千木にあたるものが、

 牛の角を表現している。

 これと全く同じものが、

 さきの家屋文鏡の中にもはっきりと写しとられている。

 こうしたことは、古代の家屋文鏡の製作者と、

 今セレべス島などに住んでいる人々との間に、

 はっきりとつながりのあることを示しているのである。

 このことは名詞の面からも明らかになる。

 私たちがこれまで<千木>を<チギ>とよんできたのは、

 正しくは

 「チヌギ」(千之木)と助詞の「ヌ」を入れて、

 読まねはならなかったのだ。

 ということである。

 なぜなら、<チヌギ>とは沖縄弁で、

 ツ(チ)ノ(ヌ)ギ(角木)のことであり、

 その原型たる<角木>はインドネシアに厳として

 実在しており、家屋文鏡もまた、

 古型が 現在の千木よりも、

 現在のインドネシアの<角型>に近かったことを証明しているからである。

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 《参考》

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