※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 267~290頁
㈱徳間書店
「赫夜姫のふるさとはどこか?」
赫夜姫は「竹」から生まれたというお話になっていますが、
それは出身地を指す「たとえ」であるとみると、
「タケ・タカ」のつく国が故郷だということになります。
どこがその「タカ=竹」に当たるのでしょうか?
南九州の地名を調べてみますと、
薩摩半島の近くに高城(たき)、
高尾野(たかおの)、武(たけ)(=鹿児島市ほか)があります。
だが高句麗から沖縄への位宮の足取りを考えてみますと、
現在と違って航空機で直行するわけにはいきませんから、
旅の途中、食事や、暴風を避けるために、
あちらこちらに寄港しながら、島づたいの長い航海の末、
ようやく沖縄へたどりついたと考えるしかありません。
だが彼が高句麗脱出後、
狗奴国男王として現われるまでわずか3年で、
意外に時が経っていないのです。
この速度は陸路では無理ですから、
彼は魏と同盟関係にある卑弥呼の倭(ウワイ)連邦の
九州本土には上陸せずに、
海路を真っ直ぐ沖縄へ向かったことが確認できるのです。
すると、鹿児島県本土の「高」のつく地名は、
彼が連邦政権を握る以前には関係ありません。
そこで赫夜姫に出会うことはないので
鹿児島県本土は彼女の故郷ではありえません。
彼女の出身地は海上、
位宮が立寄った島々のうちのどれかだということになります。
朝鮮半島の東200キロメートルほどの日本海には
島根県の竹島があります。
位宮は西の中国から攻めてきた魏の大軍に押されて、
鴨緑江沿岸にあった高句麗の都を捨てて、
東沃沮の東海岸から船で落ちのびたのですから、
逃げる道は日本海しかなく、この島に寄った可能性はあります。
しかしこの竹島は全く人の住めない岩礁ばかりの無人島ですから、
候補地にはなりません。
「限定条件「天からの迎え」」
赫夜姫の出身地探しには一つの限定条件があります。
それは彼女は
「天から下ってきた車に乗って、天に連れて行かれた」
ということです。
迎えは「天=沖縄」から来たのですから、
位宮はすでに沖縄にいたのです。
とすれば赫夜姫の出身地は、
もっと沖縄に近い位置になければなりません。
この条件に合う位置に、もう一つ「竹島」という島があります。
鹿児島県薩摩半島の開聞岳の南にあって、
鹿児島都三島村に入っている人口200人足らずの小島です。
古語の「島=シマ」という言葉は、
「……の国」を意味するもので、
漢字で書くと「之=シ、国=マ」と一致しますから、
一つ一つの島が国であったころの名残だと考えられます。
古代には、竹島は小さくても独立した自治体で、
「タケの国」だったことは間違いありません。
また彼女が玉依姫として育てられた種子島も近くです。
またその島のはるか南にも、
「タカ」という名をもった島が一つあります。
それは吐喝喇列島の中心「宝島」です。
「タカラ」と「タカ」とは違いますが、
語尾についている「ラ」は古代日本人が「国」のことを、
「ラ」や「マ」などと呼んだうちの一つで、
それには次のような呼び方があったことがわかっています。
「ラ・マ・ヤ・ナ」と、
この発音が訛った「ダ・バ・イ・ネ」があり、
クニの訛った「ギ・グニ」などがあったことも、
全国の地名の比較分析で今では完全にわかっています。
「タカ・ラ」は、
新羅・加羅・百済・平良・太良・姶良・一良などと同じく、
国を意味する「ラ」という言葉を、
「タカ」の後につけたもので、
「タカ国」という意味ですから、
純粋な名はl「タカ」だったことがわかります。
赫夜姫の出身地である「タケ・タカ」としては、
この島も沖縄と種子島に近いし、諸条件もよく揃っています。
「竹取りの翁は何を意味するか?」
『竹取物語』の作者は10世紀の日本最古の百科辞典
『倭名類衆抄(わみょうるいじゅしょう)』の
著者・源 順(みなもとのしたごう)で、
いま残っているのは「かな書き」ですが、
始めは漢文だったものを
「かな草紙」に直したものだという説があります。
しかし私たちがみてきましたように、
この物語は「完全な創作」ではなく、
もとになる歴史事実があって、
それが7世紀もの永いあいだ語り継がれてきたものを、
舞台を平安時代におきかえて、
面白おかしい「おとぎ話」に、まとめあげた作品です。
もとの史実とは無関係に登場者を貴族にし、
都ぶりの風俗描写を入れ、
ヒロインも当時流行の「才女」ぶりを発揮することが
必要だったということになります。
しかし史実の壹與は13歳ですから、
大学者もどきに難題を持ち出すわけがありません。
こうみてきますと、この貴族趣味の部分は完全な脚色で、
史実とは関係がないことがわかります。
では
「竹取りの翁が竹藪へ竹を取りに行って、
光り輝く竹を見つけ、その中から美しい女の子を見つけて、
連れ帰って育てた」というのも、脚色なのでしょうか……?
この部分は、
求婚者の華やかな顔ぶれと比べて余りにもお粗末で、
貴族趣味とは逆です。
なぜそんなものが、
まぎれこんだのかという感じさえするほどですが、
実際にはそれがなければ
『竹取物語』は成立しないほど重要な部分なのです。
これは改作者が削りたくても削れなかった史実のもっていた
「原型」であるという証拠だといえます。
宝島付近の南西諸島は、
従来、物干し竿に使ったマダケのない地域です。
だが、直径三センチていどのコサンダケと呼ばれる
細い竹が自生しています。
その竹の子はたいそう美味しいものです。
成長したもので竹篭や、魚籠(びく)や、市女笠など、
いろいろな道具が作れます。
ですから竹を取るのを職業にしていた老人がいたとしても
不思議ではありません。
しかし、この説話の一つのモチーフである「竹」は、
「タカ」と呼ばれた人たちを暗示しているのですから、
「竹取の翁」も、
単に「竹を取るのが職業の老人」だけで
説明済みというのは間違いで、
その名に隠された何かがきっとあるはずです。
竹は「タカ人」を意味しているとすると、
それでは「取りの翁」は何を意味するか?と考えてみましょう。
「取り」は、鹿児島で方言化している古い言葉
「統領=トリュ・トユ」という敬称に似ていますから、
これを代入してみますと「タカ人の統領である翁」になって、
意味がよく通じる名詞になります。
また「竹取」は音読すると「チクシユ」。
九州の古名「筑紫(ちくし)」に「ユ」を
プラスした形になっています。
「ユ」は「ヨ」の沖縄発音で壹與の與も「ユ=王」でした。
そこでこれを使って「筑紫與」と書くと、
その意味は「筑紫王」。
これは誰のことでしょう。
壹與は間違いなく邪馬壹国女王、
すなわち卑弥呼の後を継いで、
九州連邦の女王になつたのですから、
「筑紫女王」と呼ばれていて当然です。
その彼女の出世物語を、
伝承した人々が「チクシ・ユ物語」と呼びならわしていました。
それにだれかが「竹取物語」と当て字したとすると、
その名がもとになって、
養父は「竹取の翁」であったという連想を生んで、
赫夜姫は竹の中から生まれた、
という突飛な想像にまで発展した可能性もあります。
また、沖縄では「時代」のことを「世(ユ)」といいますから、
「ユ」を世に変えると、
「筑紫世」すなわち「筑紫時代」という意味になります。
これは天皇家の先祖が九州日向にいた時代のことですから
『古事記』『日本書紀』の「神代」を意味することになります。
『竹取物語』のもとの真意が
「筑紫世物語」=「日向物語」だったとしますと、
それには、この壹與=赫夜姫の出世物語だけでなく、
このほかにも、
まだたくさんの話が含まれていた物語集だったはずです。
桃太郎や浦島太郎もそうかも知れませんし、
「日向神話」もそうかも知れません。
『竹取物語』の名が何を意味するか?
と深く考えますと、
これまで考えられていたような、
単なる「おとぎ話の、単純な題名」だけではなさそうです。
思いのほか重要な、大変な名らしい。
ということがおわかりいただけたと思います。
「筑紫女王の父・竹取りの翁」
次は「翁」ですが、
あなたはこの「翁」を何とお読みになるでしょう……?
これまでお話しした
「名乗りと地名」の関係を
しっかり理解していただいているあなたには、
もう答えがおわかりになっていると思いますが、
もう一度、説明しておきましょう。
沖縄(オキナー)と翁(オキナ)は、
語尾を引っ張るかどうかの違いだけで、ほとんど同じ発音です。
それだけなら単なる「他人のそら似」ですが、
沖縄本島と対応する奄美大島も、
古代には「大之国=大国」ですから「大=オウ、国=ナ」で、
「国」を「ナ」と発音するインド系の沖縄人なら
「オウナ」と呼び、これも嫗(オウナ)と一致します。
「翁」と「嫗」というペァになった名詞が、
この島の名でもペアになっているのですから、
これは決して「他人のそら似」ではありません。
この見事な対応は、オキナ、オウナという日本語は、
これらの島々を自分たちの
「祖父母」と信じた人たちによって作り出されたか、
または逆にそれを島の名として名づけたか、
どちらにしてもこの地域で生まれた
日本語だったことは間違いありません。
この大島には「奄美(あまみ)」という限定地名がついています。
これは無意味なものでしょうか?
翁と嫗は領地を表わしていますから、
翁は沖縄の王、
嫗は大島の女王として引き離されたことを
意味しているとすると大島の嫗は、
翁のいる沖縄のほうを毎日なつかしがって見ていたことでしょう。
沖縄は前にお話ししました通り「大天」ですから、
嫗は毎日「天を見る」すなわち「天=アマ・見=ミ」で、
奄美は後世の当て字だということになります。
こうしたことがわかればわかるほど、
この島々の歴史と『竹取物語』の関連の深さが明瞭に見えてきます。
ところがこれを京都で説明しようとしてもすべて無理ですから、
原話はどんなにしても、
京都で発生した事件とみることはできないのです。
「王と女王になった両親」
次はこの答えからさらに歴史を復元してみましょう。
沖縄が「翁」という人称代名詞になるには、
この有名な「竹取りの翁」が、沖縄王になる必要があります。
彼は姫と一緒に沖縄へ行き、
娘と狗奴国男王が卑弥呼の倭人連邦政権を
「征伐」に行った時、
後に残って沖縄の王になったということになります。
また奄美大島が「嫗」という人称代名詞になっているのは、
翁の場合と同じ理由で、
母の嫗が奄美大島の女王になったことを
示していることになります。
しかしそれは、この段階ではまだ「仮定」にすぎません。
それを仮定でなく真実にできる別の証拠があるでしょうか?
それがあります。
それは日本人がいまも慣習として大切にしているものなのです。
日本には古来
「女、氏(うじ)なくして、玉の輿(こし)に乗る」という
諺(ことわざ)があります。
この「赫夜姫=壹與」のお話は、
まさにその通りであったようにみえます。
そればかりか単に娘が
「玉の輿」に乗っただけでなぐ両親まで沖縄王と
奄美女王に封ぜられたことになるとすれば、
これは希にみる「目出度い」ことです。
それがどれほど素晴らしい幸運なお話として
日本中に伝わったかを、現代まで伝えている物があります。
それは「尉(じよう)と姥(うば)」として知られる人形や絵です。
箒(ほうき)と熊手を持った老夫婦が、
島を象徴する州浜(すはま)の上に立っている姿は、
非常にお目出度い象徴的な飾り物として、
今もなお、結婚式などの伝統的儀式には、
なくてはならぬものとされています。
「『高砂』の起源と読み方」
また、日本式の結婚式には欠くことのできないものに
『高砂(たかさご)』という謡曲があります。
そこでも翁と嫗が
「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」と呼ばれて出てきます。
『竹取物語』と『高砂』。
この二つの関係を調べてみましょう。
謡曲『高砂』は世阿弥(ぜあみ)という名で知られている
観世元清(足利義満らに仕えた観世流二代目=1443(?数説あり) 年没)の作で、
始めは『相生(あいおい)』という名でしたが、
いつか謡い出しの「高砂」の方が題名として有名になったものです。
その、あらすじは、肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、
高砂の浦で老人夫婦に出会って、
高砂の松と住吉(すみのえ)の松とが、
なぜ相生の松といわれるのか、その由来を教えられます。
そこで神官は、その有名な
「高砂や、この浦船に帆をあげて……」という謡の通りに
高砂の浦から船出して、
住吉の滴に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、
前の老人が住吉明神になって現われ、
美しい月光を浴びながら太平の世を祝う舞を舞って、
次第に消えていく。
という大層、夢幻的で優雅なものです。
今、高砂の尉と姥として飾られている人形や絵は、
この能の装束(しょうぞく)を写したものが多いために、
日本人の思考はこの謡曲で中断してしまって、
全て世阿弥の想像の産物だと思いこみ、
それ以上の追究をやめていたきらいがありました。
しかし詳細に、この謡曲『高砂』のモチーフを分析してみますと、
世阿弥は創作者ではなく、彼は古くから伝わっていた伝承を、
香り高い文芸作品に仕立てあげた
「脚色者」だったという事実がはっきりします。
この「高砂」は現在の兵庫県高砂市のことだと思われていますが、
伝承が生まれた当時の高砂は、
『桃太郎≡竹取物語』の老夫婦がいた
「タカの国」でなければなりません。
「タカの国」と「タカ砂」とを比較してみると、
砂を「サゴ」と読んだのでは答えは出ないが、
「スナ」と読んでみると、何と、ぴったり一致するのです。
日本の古語の特徴の一つに
「ス」と「ツ」の区別がなかったことがあります。
だから古代には「スナ」と「ツナ」は同じ言葉だったのです。
また「ナ」は国のことですから、
「ス国」と「ツ国」、は同じです。
これを「高の国」と比較しますと、
助詞「の」に当たる古語は「津=ツ」ですから、
「ス国=ツ国=津国」と、謎がほぐれてきます。
高砂とは「高津国(タカズナ)」という発音に対する
別の当て字だったのです。
この「高津国」は仁徳天皇の皇居が
「高津の宮」と呼ばれたことと関係があります。
その宮は大阪市にあったとされますが、
大阪には「住吉」もあります。
ところが高津の宮は上町台地という高台にあって、
そこから住吉へは船では行けません。
だから大阪の地名は後世に南九州から幾つもがセットになって
大阪へ、一緒に移動してきたものです。
だから「高砂」はなくて「高津」しかないのです。
もちろん兵庫の高砂も大阪と同じく移動した遺跡なのです。
「『高砂』はなぜ目出度いのか?」
ここでその謡曲『高砂』の主題は何か? 考えてみましょう。
それはもとの名が相生だった通り、高砂の松と住吉の松とが、
「相生」であるということが中心になっています。
「相生」とは一体、何のことでしょう?
「相」という字にはいろんな意味がありますが、
この場合は「相手」とか「相身互い」とかいう、
相対する状態をいっています。
だから相生とは
「同じ場所に相対して生えた(松)」という意味です。
ところが実際には、
その松は、高砂と住吉にわかれて別々に生えていた。
だからこそ肥後の神官は
「なぜ別々に生えているのに相生の松というのか……?」と疑い、
老夫婦は、その疑問に答えたのです。
その答えは、非常に目出度いとされるほどですから、
「別れ」という悲劇を吹き飛ばす内容をもっていなくてはなりません。
それは、今は別れ別れになっていても、
もとは一つ、心も何時までも一つだから、
それで「相生」の松というのだ、という以外にありません。
それはまた、その老夫婦の身の上でもあって、
二人は「松の化身」でもあることがそれとなく暗示されています。
しかしそれだけでは実のところ、
なにが「非常に目出度い」のか、まだよくわからないと思います。
『高砂』は、離ればなれになっても、白髪の老人になっても、
なお愛情は変わらないことを「相生」という言葉に掛けて、
「あい(愛)」と「おい(老い)」の
美しさ、悲しさを歌ったもので、
厳密にいえば、そこには「目出たい」という要素はありません。
前に見た通り、この老夫妻が目出たいとされる理由は、
「娘が玉の輿に乗って筑紫の女王」になり、
両親もまた、それぞれ「沖縄と奄美大島の王と女王」として、
白髪の老人になるまで、
末永く栄えたという点以外には見つかりません。
ところが世阿弥の『高砂』では、
かんじんのこの部分が抜けています。
だから何が目出度いのかさっぱりわからない。
わからないのに世間では
この『高砂』を目出度いものとしてきました。
それは当時の人々がもとの話を
よく知っていたという証拠なのです。
だから世阿弥は周知のことを
今さら詳しく物語る必要はないと思っていたのです。
「絵:高砂(たかさご)」
伝統工芸「和紙押絵」継承者:加治木花象作「高砂」屏風による。
足もとには従来の州浜(すはま)の代わりに
沖縄と奄美大島の地図を措き加えて、
オキナとオウナの語源が平に見えるようにしてあります。
「「住吉」の名の語源」
嫗を特定している「住吉」とは奄美大島でなければなりません。
しかしなぜそれを「住吉」と名づけたのでしょうか……?
奄美大島の地名を調べてみますと
「住用村=スミヨーそん)」という村があります。
「村」の代わりに「之国」をつけると
「住用之国=スミヨシ国」になるので
住吉はこれに対する当て字です。
では「スミヨー」は何を意味するのでしょう?
古代日本語にはスとツの区別がなかったことをお話ししましたが、
これを「スミ」にあてはめてみますと「ツミ」になります。
「ツミ」は『記・紀』に「津見」「積」「祇」という
当て字で出てきます。
ワタツミ=綿津見・海津見の神、
オオヤマツミ=大山積・大山祇の神、などと書かれていて、
それは山幸彦が訪れた海神国を始め、
日本神話の神名、ことに海神の首長クラスについていますので、
海人の王を意味する敬称だとされています。
そうだとすれば「津見」は文字どおり「津=港・海」を
「見る=監視する。支配する」という
意味の官名だということです。
次は「ヨー」ですが、
古代の「ジョ」が後世「ヨ」に変わったことを先にお話ししました。
「ヨー」は古くは「ジョー」と発音された音なのです。
壹與の與が「ジョー」に対する当て字で、
「嬢・女王」を意味することも、すでに確認しました。
以上を考えあわせますと「スミヨー」は
「津見の女王=海・港を支配する女王」という名になります。
これは「住吉の大神」が古来「海の守護神」として、
漁業や船舶関係者に崇拝されている事実と完全に表しますので、
住用は間違いなく住吉の語源だったのです。
「住用」が「住吉」になったのは、
南九州語の「良う」は大阪語の「良し」ですから、
神として祭られた場所によって変化したのです。
でも「嫗」自身は奄美大島の支配者として、
「海=ワタ、津=ツ、女王(メ)=ミ」と呼ばれて、
住用を都として住んでいたのです。
これで赫夜姫だけでなく
『竹取物語』に登場する人々の全貌がわかりました。
これはあなたにとっては、
思いがけないものだったかも知れません。
中には私の分析は「我田引水」過ぎる、
と批判的な方もおいでになると思います。
しかし、
それはページ数が限られているために多くの説明を
やむなく削って省略したからなのです。
もっと詳しい充実した証拠をお読みになりたい熱心な方は、
どうぞ私の他の著書をお読みください。
「「月の世界」とは何だったのか?」
お話が固くなりましたので、
この章の最後はまた夢のようなお話に戻りましょう。
それは脚色に使われた
「月の世界」「月の宮居」という考えが、
なぜ取り入れられたのか?……
その知識の源はどこか?
といったことです。
実は位宮は「月」とは切っても切れない人物なのです。
彼は八俣大蛇(やまたのおろち)=天照大神=卑弥呼を倒した
政権の王なのですから「スサノオノミコト」に当たります。
『古事記』にはそのスサノオは、
天照大神が父から天の仕事をあてがわれたのに、
彼は「海原を治めろ」といわれて、
気にいらないで命令に従わずに泣きわめき、
「僕は[根の国]に行きたい」とすねたので、
父は怒って追放してしまったと書いてあります。
これを位宮の史実と比較してみると、
海原は海の中の国、すなわち沖縄で、
位宮の名乗り「琉球王」に一致し、
「根の国」は地下の「暗い国」すなわち
「クライ=高麗、黒の国=北の高句麗」に一致します。
スサノオはまた別の部分で
「韓=カラ=インド語で黒」へ行って戻ってきた神だとも
書いてありますが、これも位宮にぴったり一致します。
ではなぜ「月」なのでしよう……?
『古事記』ではスサノオが海原を治めろと命令されたとき、
もう一人「月読尊(つきよみのみこと)」という兄神がいて、
彼は「夜食国」を治めよと命令されて
月の王になったと書いてあります。
この不思議な名の国はどこにあるのでしょう?
これは当て字ですから別に
夜食専門の深夜営業店なんかではありません。
万葉ガナと同じことで、
「夜=ヤ・食=クウ」と読みさえすれば
「屋ヤ・久ク・王ウ」だとすぐわかります。
彼は屋久島の王になったのです。
『備後国風土記』の「疫隅国社」の話が元になって、
彼は別名「疫(え)の神」と呼ばれていますが、
これはいいかえれば「疫病神(やくぴょうがみ)」のことです。
「疫(やく)」と「屋久(やく)」で、
これは「屋久の王」がもとになってできた
悪名だとすぐわかります。
さらにこの屋久は古くは「邪久」と書かれています。
7世紀の唐代より前には「邪」は「ジャ・ジォ」と
発音しましたから、
「天の邪鬼」の「ジャク」もこの名から出ていますし、
3世紀当時の「邪久」は「ジキュウ」への当て字で、
今の鹿児島語でも「琉球」のことを「ジキュ」と発音します。
おわかりのように「月読尊」とスサノオは同一人で、
「琉球王」位宮の説話が分裂して
二人の神に見えたものだったのです。
「月の満ち欠けを読む」のは海の大潮・小潮を予知することで、
それは「海原の神」の仕事です。
山幸彦はその力を得て海幸彦を倒しました。
その月読みの神の宮殿が「月の宮居」と呼ばれるのは
少しも不自然ではありません。
「月の世界に逃げた天女」
月読尊はまた「大月姫」という女神を殺します。
この女神も調べていくと天照大神と同じになります。
天照大神は二度も別の神に殺されたわけではありませんから、
これは一つの話が分裂しているのであって、
やはり月読尊とスサノオは同じということになります。
こうして検算すればするほど、
位宮は「月の世界」の王だったのです。
しかしその世界と『竹取物語』の描写とは同じではありません。
それが物語として完成された平安時代には、
中国からいろいろな知識が入ってきていました。
前漢時代に淮南(ワイナン)王・劉安(リュウアン)が編集した
『淮南子(えなんじ)』に、
月宮殿を舞台にした有名なお話が収録されています。
中国最古の「夏」王朝時代。
「有窮(ユウキュウ)国」の王「羿(ゲイ)」が、
食べると不老不死になるという天の桃が欲しいと
女神・西王母に頼んだところ、
嫦娥(ジョウガ)という天女がとどけることになったが、
嫦娥はそれを自分で食べて月の世界に逃げてしまった、
というのです。
中国では嫦娥は月の別名になっていますし、
これをもとにしたお話もたくさんあります。
その中には『聊斎志異(りょうさいしい)』の中の
[嫦娥]などのように、その罪で地上におろされていた嫦娥が、
その期限がきてふたたび月世界へ呼び戻されるといったものも多く、
日本の『羽衣』などもやはり天上で罪を犯して地上に降(くだ)り、
期限が来て天へ戻る話の一種なのです。
先の物語で注意がいるのはその「有窮国」という名なのです。
これは「ユウキュウ」で、
「イキュウ(イキウ)=位宮=リユウキュウ=琉球」の
発音変化の一つで、ほとんど差がありません
「夏王朝」があったのは中国河南省ですから、
東アジアでこの名に合う国は
琉球以外にないということも記憶しておいてください。
「「天孫」はアマゾンへの当て字」
「赫夜姫」は月から迎えがきて、
「呼び戻される」のだという点が重要なのです。
もともと彼女は
「金色に光り輝く金髪をもった別世界の人」でした。
金髪の異人だったからこそ壹與も卑弥呼と同じく女王に選ばれ、
連邦政権に君臨することになったのです。
これを先住民である庶民の側からみますと、
彼女は故郷である「異人」の世界へ呼び戻されたと見えたのです。
それは現実には、
本来の出身地である「天の国」へ帰ったのでした。
それが大天国=ウチナ=沖縄であり、与那原だったのです。
「与那=ヨーナ」というのは、
インド・パーリ語でギリシャという意味、
ギリシャ語の「イオニア」の訛です。
金髪の壹與は親元を離れて育てられていましたが、
沖縄のギリシャ人世界に戻りました。
そこはまた天界とは切っても切れない
「織女星=たなばた=棚機=新式織機=七夕」の
世界でもあったのです。
前にお話しした南海の優れた織物の話も元は同じです。
有名な司馬遷(シバセン)の中国の正史『史記』の
[天官書]には、「織女、天女孫也」と書いてあって、
その索引には「織女、天孫也」と「天孫」と書いてあります。
私たち日本人は、古来なぜか「天孫族」だと自称し、
『日本書紀』にも天智天皇が大化改新のとき、
やはり「天孫」と自称したと記録していますが、
天孫とは中国では「織女星」のことだったのです。
3世紀当時の沖縄地方は、
すでに1000年以上も貝貨産業を続けてきた
カリエン人の世界に縄文末期に移住してきた
弥生人=ヤオ人やマレー人、インドネシア人が混血し、
さらに前1世紀に移住してきた
ソナカ布教団の倭人(ギリシャ系インド人)が、
ミャンマーやタイやベトナム、フィリピン、台湾からの
技術教師や商人などを大量に連れてきました。
さらにそこへ中国南部からの商人や漁民や移住者が加わって、
あるいは人種的独立集団になり、
あるいは混成集団をつくっていたのですから、
とても「民族」などと区別できるような
人種構成ではなかったのです。
ですから強いて「天孫」とは何を指すかと考えると、
それはギリシャ系の人々が女系集団の倭人を
「アマゾン」と渾名(あだな)したものへの当て字
「天孫=アマゾン」だったことになります。
それが先の「有窮国」などの天上の話として
古くから中国へ伝わっていたのです。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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