2013年3月26日火曜日
古代史21世紀の研究課題:文明の伝播(古代メソポタミアの解明:無土器新石器時代(2))
『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・35~46頁
マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
朝倉書店
古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民
「写真」新石器時代の黒曜石交易:34頁
『初期農耕集落』
「初期農耕集落」
農耕牧畜の技術が発明され、それが広まると、
近東にはさまざまな種類の集落が現れるようになった。
土器を使っていること以外、
日常生活はそれ以前とほとんど変わらない小さな農耕村落もあれば、
日用品、社会組織ともはるかに洗練された村も現れ始めた。
こうした進展が積み重なって、
前4千年紀に南メソポタミアでおこった
あの都市の形成へとつながっていったのである。
そして、それは現代社会の基礎となった。
近東の初期農耕村落は丘陵地やオアシスに位置しておリ、
川ぞいや湖岸、海岸地域力i好まれていた。
穀物が生育するには雨量が少なすぎる低地には、
遊牧民が生活していた。
収穫の多い年に穀物を蓄えておけば、
凶作の年にも何とか集団は生き延びることができた。
しかし、雨量が一定しない土地で農業を試みることは、
ほかにもっと良い土地があるならば
割りにあうものではなかった。
この頃農耕村落の村落の分布は
今日の天水農耕(灌漑をしないという意味)地帯と非常によく一致している。
それは、年間降水量が250mm以上の地域に相当し、
ここ8000年ほど気候がほとんど変化していないことの証左ともなろう。
エジプトのナイル川は植物の生育期に氾濫するから、
雨量が乏しくても穀物が生育することができる。
しかし、近東の他の地域の川は悪いことに春に洪水をおこすため、
穀物農耕は降雨に頼らざるをえない。
ただ、運河を掘って潅漑を行うようになると、
そうした集落の分布パターンは一変する。
乾ききっていても肥沃な土地に移った方が収穫も多くなった。
そうして、より大きな集落が存続するようになり、
最終的には都市へと発展していったのである。
無土器新石器時代から都市化の始まりまでの発展は、
土器(ないし後期)新石器時代、前・中期金石併用時代にまたかっている。
一般には、新石器時代と金石併用時代の区別は、
新石器時代に使われていた打製・磨製の石器に加えて、
金石併用時代には銅および青銅製品も使うようになった点とされている。
しかしながら,
銅製品は少量だが無土器新石器時代にすでに用いられていたし、
一方、金属器がたくさんみつかるようになるのは
後期金石併用時代になってからのことである。
小さな農耕村落での日常生活は、この時期を通して、
どこでも似たようなものだった。
違いは最古の村落と、それ以前の狩猟採集民との間の方が大きかった。
現代社会がもつ特徴というのは狩猟採集民の社会にはみられないものであり、
ある時点で発明されるか発見されたものに違いない。
そのいくつかは無土器新石器時代に萌芽的ながらみられ、
土器新石器時代、金石併用時代により洗練され、確立されていった。
そのような進展が背景となって、
やがて都市生活が始まることになったのである。
『土器新石器時代』
「土器新石器時代」
なにかの機会に偶然に少し焼けた土器ならば、
無土器新石器時代の遺跡からもまれにみつかることがある。
しかしながら、続く土器新石器時代には、
土器は非常に一般的なものになった。
そのおかげで考古学者は、
それ以前は石器の型式を頼りにしていたが、
今度は土器を使って地域ごとの文化を明らかにできるようになった。
装飾つきの土器は石器よりもはるかに流行に敏感であったから、
文化の類似、時代的変化などもよリ的確に反映しているわけである。
ぐにやぐにやで柔らかな粘土を、熱を加えて、固くして水も通さず、
事実上壊れもしない土器に変化させるプロセスは
ほとんど手品のようなものである。
チャユヌやガンジ・ダレの人々は
前8千年紀にすでにこの技術を知つており、
容器や小さな土偶をつくっていた。
無土器新石器時代には入れ物としては、
石製か木製のもの、あるいは篭(上塗りをしたり、
天然アスファルトを貼ったりすることもあった。
先土器新石器時代B期の白色容器に代表されるような
石膏・石灰製容器を使うのがふつうであった。
しかしながら、
前7000年頃までに土器は近東全域に広がっていた。
一定地域の一定時期の人々は
限られた種類や型式の土器しかつくらなかった。
そのため、小さな土器片でもみつかれば鑑定可能である。
一地域の土器の時代的変化を他の地域の土器型式の変化と
比較することによって、
考古学者たちは多くのことを明らかにしてきた。
こうした研究によって、
土器片からそれがみつかった遺跡の年代を決めることもできる。
その結果を、
さらに短い期間におこった様式上の変化に関する情報とあわせることによって、
相対編年ができあがっていくのである。
これは,放射性炭素年代よりも役立つことが少なくない。
土器群が似ていれば、
各々の集団が緊密な関係をもっていたとみることができる。
明らかに他地域から搬入された土器は、
土器自体ないしその中身が交易・交換されたのだと解釈できる。
土器の研究は、文字が現れるより前の時代の社会を研究する上で、
もっとも有効な方法の一つである。
もちろん、
歴史時代についても考古学者にとって貴重な手がかりとなることに変わりはない。
肥沃な地域の周辺山麓部のほか、
無土器新石器時代にはトルコやイラン高原の資源を利用し始めた集団もいたし、
メソポタミアの河川流域に集落を構えたものもいた。
この時期以降、
メソポタミア平原がレヴァントやパレスティナよりも重要な地域になっていく。
レヴァント、パレスティナは以前にめざましい発展を成し遂げた地域であったが、
影響力は低下していった。
《南イラク湿原地帯》
「南イラク湿原地帯」
《壁画》
「壁画」
この遺跡でみつかった部屋のなかには、
見事な壁画をもつもの、壁に浮彫りのついたもの、
雄ウシの頭や角をかたどった像を据えたベンチ、
柱をもつものなどがあった。
こうした装飾が一般の家にあるというのは不自然だし、
不便とも考えられるから、
それらの部屋はおそらく祠堂であったと思われる。
しかしながら、これらの「祠堂」の数
(第6、7層では発掘された家の約3分の1に達する)は驚くほど多い。
それらが純粋に宗教的用途に供されたものだとすると、
発掘区が集落の宗教地区にあたっていたのかもしれない。
それとも、それらは特殊な型式の住居だったのだろうか。
建物の壁や床は白色の細かい粘土で何層にも上塗りを施されていた。
ある建物では120層にもなっていた。
上塗りはおそらく毎年くり返された
(同一の生活面出土の建物にはほぼ同じ数の上塗りがなされている)
とみられるから、
それらの建物の寿命を考えるヒントにもなる。
色を塗った部屋をみると、
塗色面は何層ものふつうの上塗りにはさまれていることがわかつた。
したがって、
色は次の上塗りがなされるまでの短期間しかみえなかったということになる。
なぜ、人々がときどき壁に色を塗っていたのかはわからない。
ともあれ、
それが腐らないて残っていたのは
上塗りに塗りこめられていたことによるところが大きい。
塗料は細かい毛のブラシで塗られた。
そのほとんどはアナトリアで自然に産出する鉱物からつくったものである。
たとえば、
赭土、藍銅鉱、孔雀石、辰砂、マンガン、方鉛鉱などが用いられた。
地は白か薄いクリーム色で、
おもな色は赤か赤褐色だったが、黄色、黒、灰色、藍色、青も使われた。
壁画の多くは柱と柱の間の一面におさまるものだったが、
なかにはもっと大きなすばらしいものもあった。
真っ赤に塗られたもの、幾何学模様のつけられたもの、
人や動物を描いたものなどがあった。
専門家のなかには、
そうした模様をトルコで伝統的につくられている
じゅうたんの模様に対比する人もいる。
しかしながら、
当時いろいろな色の紡ぎ糸で織物が織られていたという証拠はほかにはない。
もっとも興味深い絵は、具象的なものである。
写実的なものもあれば、様式化されたものもある。
人の手を並べで描いたものもあり、
ところどころ裏返しになっている場合もある。
これらは後期旧石器時代によくある芸術を思いおこさせる。
しかし、この地方では今日でも同じモティーフで家を飾ることがある。
層は異なるが、
二つの「祠堂」で狩猟の光景が見事に描かれた絵がみつかった。
どちらも北側の壁に2mくらいの長さの巨大な雄ウシが赤で描いてあって、
そのまわりをヒョウの毛皮のふんどしをつけた小さな人物が
数人踊っているものたった。
人物の多くは男性で、皮膚は赤く塗られていた。
この二つの層よりも古い第V層の例では、
絵は壁四面につなかっていて、
シカ、イノシシ、野生ロバ、クマ、オオカミ、ライオンなど
ほかの動物も描かれていた。
そうした絵に描かれていたのは正確な狩猟の光景ではなく、
おそらくなんらかの象徴的な意味をもっていたのだろう。
踊りと、ミノア文化の跳牛やスペインの闘牛のような動物を使った
催しなどからなる祭を表現したものかもしれない。
しかしながら、
第Ⅴ層の祠堂では、一部しか残⊃ではいないが、
男性のハンターがイヌらしき動物をつかって
雄シカを矢で射ている絵が発見されている。
もう一つ奇妙な絵がある。
それは三つみつかっているのだが、
大きな鳥と頭のない小さな人間が描かれているものである。
様式化された絵ではあるが、
その鳥は死体の肉をついばむシロエリハゲワシだとみられている。
もっと下層(第Ⅵ層)からもやはり死者に関すると思われる絵が発見されている。
そこには、葦とむしろででさた納骨堂が描かれているとされている。
織物が敷かれ、その下に目のくぼんだ頭骨がおかれている。
《人物・動物像》
「人物・動物像」
壁によっては、
葦の芯に泥を塗ってつくった浮彫りで飾られているものもあった。
これはアイン・ガザル、
イェリコ、
イェリコ
イェリコ
イェリコ
イェリコ
イェリコ
イェリコという古代遺跡(テル・アル・スルタン)は、
海面下約200mの地にある。
今日、イェリコはヨシュアが角笛を吹き、
城壁が陥落した都市として有名である。
しかし、前2千年紀後半のイスラエル人の侵入よりずっと前から、
そしてその後もずっと重要な都市でありつづけていた。
イェリコが繁栄したのは、
遺跡東側にあった豊富な泉のおかけであった。
最初に住んでいた人々の痕跡は
後の時代の堆積に深くおおわれていたため、
二、三の地点でしか調査されていない。
だがその調査によって、
ナトゥーフ期に人が住みついた後、
原新石器時代(先土器新石器時代A期)、
無土器新石器時代(先土器新石器時代B期)、
そして青銅器時代を通して
イェリコは重要な中心地であったことがわかっている。
「写真」
無土器新石器時代のイェリコは、
死者はふつう頭部を取り外し住居の床下に埋められた。
頭部の取り外しは、おそらく肉や腱が腐る前に行われた。
というのは、ふつう顎骨が胴体の骨にくっついてるからである。
床下からみつかった骨のなかには、漆喰で顔をつつみ
窩に貝をはめこんだものも次ある。
二枚貝であることもある。
「図」
原新石器時代のイェリコは石の城壁と
岩盤に掘り込んだ濠によって囲まれていた。
円形住居が立ち並ぶ村が3haほど広がっていて、
おそらく1500人くらいの人々が住んでいた。
イェリコの発展ぶりは早熟ともいえるもので、
大きさで匹敵する遺跡はこの時期、
ほかになかった。
次の無上器新石器時代になってようやく、
他の遺跡も同じくらい大きく、あるいは複雑なものになった。
「写真・図」
原新石器時代のイェリコで、
もっとも注目すべき遺構は
城壁の内側につけられた石の塔である。
それは直径が10m、現存高が8m以上にも達している。
入口は東側の高さ1.7mのところにあり、22段の階段が通じている。
段はそれぞれ1枚の石の板でつくられている。
城壁は何度も修復、再建されている。
また、その外側には、幅8m、深さ2m以上ある堀が
地山に掘り込まれていた。
塔の役割については、まだ議論の対象になっている。
ナハル・ヘマルで
発見されている先土器新石器時代B期の像と類似している。
浮彫りには色が塗られていることもある。
人物、動物、動物の頭、女性の乳房などが代表的な例である。
浮彫りの人物像は7体あり、高さ1mくらいで、
前をむいて両手両足を横に平たくのばしている。
丁寧なものが1体ある示それにはオレンジ色、赤、黒の線が乱雑に塗られていた。
人物像の顔、手、足はいずれも破損していた。
これは、その部分がなにか再利用のきく
貴重な物質で飾られていたせいかもしれないし、
祠堂ごとに行われた儀式の一部として
浮彫りが破壊されたせいなのかもしれない。
これらの像は雄ウシの頭像の近くにとりつけられていることが多い。
人物の像は出産している女神、
雄ウシの頭は男性の神性を表現しているとみる人もいる。
他には、雄シカの浮彫りが一つあり、
3層つづけてヒョウのつがいの浮彫りがみつかった。
それぞれつがいは頭をよせて胴を逆方向に向けていた。
上塗りや塗色を幾度もくり返されているものもある。
その場合、動物の胴にはそのつど、違う模様がつけられた。
動物の頭を象った像はガンジ・ダレやネムリクといった
もっと古い遺跡からも発見されている。
チャタル・ヒュユクでは、それらはいずれも土製で、
本物の動物の頭骨や角を芯にしたものもあった。
雄ウシがいちばん多いが、雄ヒツジや雄シカもみつかっている。
頭像は3個か5個か7個の単位で
壁や低いベンチにとりつけられていることもあったし、
後の時代の角つき供物台と似た土柱に埋めこまれていることもあった。
女性の乳房はふつうまとめて壁につけられていた。
おもしろいことに、
それらはイノシシの下顎骨やイタチ、キツネ、
猛禽類の頭骨を芯にしてつくられることがしばしばあった。
『チヤタル・フユク』
「チヤタル・フユク」
チャタル・フユク遺跡は
1961年から1963年にかけて
ジェームス・メラートが発掘し、
華々しくかつ思いがけない成果をもたらした。
彼は前7千年紀の街の一一部を広く掘リおこしたのだが、
そこでは住居が異例なほどよく保存されていたのである。
いくつかの住居を彼は祠堂と呼んでいる。
それらは精巧な壁画と浮彫りで飾られ、
壁やベンチには動物の頭骨が備えつけられていた。
たとえば、
土偶や壁につけられたヒョウ、乳房の模型には地母神、
「出産の女神」がみてとれるとされ、
一方、たくさんある雄ウシの頭骨、
角には男性の神格が表現されているといわれている。
宗教は当時の社会の原動力であった。
チヤタル・フユクは、
この時代に典型的とこれまで思われてさた
単純な農耕村落とはずいぶん違っている。
先史時代の遺跡としては、
この遺跡に匹敵するものはいまだみつかっていない。
ただ、最近の発掘によって、
アイン・ガザル、アブ・フレイラ、ボクラスなど
無土器新石器時代遺跡で、
チャタル・フユクでみられる発展の祖型がみつかっている。
「写真」出産中の肥った妊婦の土偶
ネコのような動物に支えられており、
「出産の女神」とされている。
この土偶は
チヤタル・フユクの最も新しい祠堂の一つから出土した。
頭部は復元である。
「図」第VIB層では家が密集し、近接する家屋は璧を共有していた。
ほぼ半分の家が「祠堂」に分離されている。
家々の間には廃屋のくずが固まってできた広場があり、
ゴミ捨て場に使われていた。
典型的な間取りは、ほぼ方形の居間と、
そこから低い扉ないし壁にあけた穴でつながっている
細長い貯蔵庫とでなるものであった。
「図」第VIB層の集落の一部の復元図.
建物は平搾で、屋根から出入りした。
住居は集落の中心にむかって段状に並んでいた。
「図」第VIA層の祠堂の復元図
壁は材木を芯として日干しレンガでつくられた。
北西部の基壇の下には男性が、
別の壇の下には女性と子供が埋められていた。
《埋葬習慣》
「埋葬習慣」
遺体は居間の床下に埋葬され、
貯蔵室の床下や広場に埋葬されることはなかった。
壇になったところの地下60Cmくらいの深さに、
体は折り曲げて左側を下、
頭を部屋の中央に向けて埋められるのがふつうであった。
実際には,埋葬は2段階に分けて行われた。
死後、いったん遺体をどこかにもっていき、
その後で家の床下に埋められたのである。
これは頭骨や他の骨に赭土土がついているものがあったり、
人骨のなかには骨の組み合わせが
まちがっているものがあることからわかる。
壁画のなかにハゲワシが頭のない死体をついばんでいるものがあったが、
これは死体の処理の仕方を示しているとみることができる。
ある部屋では、頭骨が四つ、壇の上においてあった。
ほかにも、タカラガイを目にはめこんだ女性の頭骨が発見されているが、
これはもっと古いイェリコの装飾頭骨と似ている。
埋葬時には副葬品をおさめないのがふつうだった。
しかし、例外的には織物やもっと目をひく品物もみつかっている。
男性の墓には武器、石製梶棒頭、骨製・木製の柄がついた剣、
焼成粘土製スタンプ印象銅の指輪、S字形の骨製バックル
(ナハル・ヘマルやギリシアで発見されているものと類似する)
などが添えられた。
女性の墓には装飾品、化粧用の石製パレット、
まれにだが磨いた黒曜石製鏡などが副葬されていた。
木製容器、篭、食べ物などは男性にも女性にも副葬されたが、
土器や土偶は添えられなかった。
人骨から判断すると、人々はまずまず健康的だったようだ。
ただ、おそらくマラリアのせいで貧血症の者が多かった。
また関節炎や骨折を患っている者もいた。
平均寿命は男性が34歳,女性が30歳たった。
身長は男性が170Cm(5フィート7インチ)、
女性が158Cm(57イート2インチ)くらいだった。
《チヤタル・フュクの遺物》
「チヤタル・フュクの遺物」
チャタル・フュク出土の土器はやや不格好で丸形か袋形のもので占められていた。
木製容器には鉢、カップ、箱などがあって、
モミなどの柔らかい木でつくられていた。
打製石器はほとんどI黒曜石製で、
材料はおそらく北東に約150km離れたアジゲルからもってこられたらしい。
黒曜石は磨いてビーズや鏡をつくるのにも用いられた。
道具や武器類の傑作には剣やナイフがあり、
シリアからの輸入フリントでつくったものもある。
第IX層よりも上層では、
銅、鉛がビーズ、ペンダント、リングをつくるのに使われている。
鉛は、銅と比べると自然に産出することはまれだから、
そうした鉛はおそらく鉱石から精錬されたものと思われる。
銅の鉱滓のかたまりもみつかっているから、
銅も精錬されることはあったらしい。
ただ、チャタル・ヒュク出土の銅製品の大半は、
自然の銅を叩いてつくったもののようである。
土偶、石偶のなかでは、肥った女性像がとくに目をひく、
出産中の女性を表したものも一つあり、
両側をネコに支えられているのか、
あるいはネコ形の手すりのついた椅子にすわっているかのようにみえる。
動物のものは、ほとんどが狩猟対象獣で、
ヒョウ、ウシ、イノシシ、野生のヒツジ、ヤギなどがある。
刺された痕のついているものもあるから、
それらは狩猟儀礼に用いられたものとみられる。
アイン・ガザル出土のウシ形土製品にも同じような痕跡が残っている。
《植物と動物》
「植物と動物」
出土した骨からみると、おそらくチャタル・ヒユクの人々は
食用肉の9割は家畜ウシからえていた。
イヌもこの頃までには家畜となっていた。
野生動物のなかには肉だけでなく、皮革目的で狩られたものもあった。
たとえば
ヒツジ、シカ、イノシシ、オナガー(野生ロバ)、クマ、あるいは大形のネコ科動物で、
おそらくライオン、ヒョウなども狩りの対象となっていた。
栽培植物には一粒コムギ、エンメルコムギ、裸性六条オオムギがあり、
そしてたぶん六倍種パンコムギもあった。
この時期の人々は、
ほかに地域に固有の植物も採集していた出土したもののなかには
潅漑のもとで生育する種も含まれているが、
潅漑がどの程度行われていたのかについては議論は一致していない。
全体に、
人々の生活に関する科学的証拠は壁画に描かれている情景とは異なっている。
生活における現実と観念的なものとが分離していることを示しているわけである。
チャタル・フユクは前7千年紀終わり頃に
人が住まなくなっている。
アナトリア地方の次の文化は、
精巧な彩文土器で特徴づけられ、
ハジラルやシャン・ハサンIIなどの遺跡から
知られている.しかしながら,前5700年頃までにはこれら両
遺跡も無人になってしまった。
シャン・ハサン遺跡では、
火で焼失した生活面の瓦礫のなかから47歳の男性人骨が発見されている。
この男性には銅製の腕輪と梶棒頭が一つずつともなっていた。
梶棒頭には本の柄をつけるための穴がまんなかに開いていた。
これは型を使って鋳造したものであり、
この種の技術の利用例としては最古のものである.
前6000年頃までには近東全域で、
村落生活が確立していた。
栽培植物、家畜動物のおもなものはすでによく知られていたし、
それらは今日でもこの地域の主要な食料となっている。
これ以後の発展は、
狩猟採集から農耕牧畜への移行時におこったように
新しい生業様式をみつけだすというものではなく、
社会的な変化や技術的な洗練にみられる。
そうした変化は漸新的かつ地域的なもので、
その最初のものはメソポタミアでおこった。
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『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
《参考》
《スメル(シュメール)文明》
「スメル(シュメール)文明」
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
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