2013年3月16日土曜日

古代史21世紀の研究課題:文明の伝播(古代メソポタミアの解明:無土器新石器時代)



 『出典』図説世界文化地理大百科:古代のメソポタミア・33~35頁
     マイケル・ローフ著・松谷敏雄監訳
     朝倉書店

 古代のメソポタミア:初期農耕牧畜民



 「写真」無土器新石器遺跡分布

 《無土器新石器時代
 「無土器新石器時代

 無土器新石器時代(レヴァント地方では先土器新石器時代B、C期に相当)は前8500年頃に始まる。

 この時期は集落の数も大きさも増加し、空間的にも分布が広がる。

 この時代の終わり、前7000年頃には、

 アブ・フレイライェリコ、ペイサムン、パスタなどの遺跡では

 それぞれ集落が10haくらいに達しておリ、1000人以上の人目を擁していた。

 社会組織にも進んだものが要求されていたものと思われる。

 しかしながら、無土器新石器時代の遺跡すべてがそんなに大きかったわけではない。

 1haにも満たない小さなものがたくさんあった。

 穀物栽培、家畜飼育を宮む定住村落は、

 アナトリアイラン高原でも営まれていたし、近東全域に広がっていた。

 人々はオオムギ、一粒コムギ、エンメルコムギを栽培しており、

 この時期が終わる頃までには、

 亜麻スペルタコムギクラブコムギパンコムギも栽培化していた。

 動物ではヤギ、ヒツジ、ブタが飼われており、

 後にはウシも飼われるようになった可能性がある。

 しかし、狩猟採集もなお経済の重要なー一部となっていた。

 集落のなかには,たとえばシナイヨルダン砂漠などのもののように、

 農耕が行われた形跡のまつたくないものもある。

 この時期の遺跡でも、初期のものや、短期的な狩猟野宮地では、円形住居がなお一般的だった。

 しかし、ペトラ近郊のペイダという小さな遺跡でみられるように、

 もっと複雑な長方形の住居へ移行していく傾向がある。

 ペイダでは古い層では円形の半地下式住居であっだのに対し、

 新しい尉からは長方形ないし多角形の建造物がみつかっている。

 大きさは5-7m☓6-9mで、

 床が茶色ないし赤色でぬられている長方形の部屋をもつ家もあった。

 上階の基礎,ないし地下室らしいものもみつかつてでいる。

 石、骨、貝でつくったビーズのつまった部屋、材料用の角が入った部屋、

 あるいは精肉場のような部屋もみつかつている。

 農耕牧畜村落ならたいてい、建物は長方形の部屋でつくられていたが、

 建て方はさまざまだつた。

 壁には石壁、泥壁、日干しレンガ壁があつたし、

 日干しレンカIには手づくねで泥の目地をくっつきやすくするために

 指で上面をへこmかせたものもあったし、

 枠でつくった長方形のレンガもあった。

 床は泥をぬったり、漆喰を厚く貼ってそれを磨き、

 赤や茶色にぬったものもあつた。

 橋桁のようなものをつけた部屋もあった。

 その目的は防湿ないし防寒・断熱と思われる。

 ヨルダン南部

 パスタ遺跡では床の下から石の板言おおった細長い溝がいくつかみつかった。

 類似した遺構はグリルプランと呼ばれ、

 床下に石や葦を敷いたものが

 トルコ南部のチャユヌ、東イラクのジャルモ遺跡で発見されている。

 チャユメでは小石を敷きつめて一種のモザイク床にしたものもみつかっている。

 チャユヌの新しい層では,基礎部に壁を交差させてつくった

 橋桁状の構築物をもつ部屋(セルブランと呼ばれる)や、

 集団内の儀礼活動を行ったらしい大形の部屋も発見されている。

 ユーフラテス川畔、ハブール川との合流点近くに位置する

 ボクラスは無土器新石器時代末から営まれた村落遺跡である。

 建物は発掘もなされているが、

 地表直下のものは雨が異常に多く降ったある冬の後、地面に現れできた。

 家は長方形をしており、5m☓7mくらいがふつうだった。

 細長いものや小さいものも含めて、一軒あたり九つの部屋をもっていた。

 家々は互いにくっつきあっていて、同じ方向を向いて並んでいた。

 家と家の間には細い小道がついていた。

 テル・マグザリーヤ遺跡も無土器新石器時代後半から住まれた遺跡だが、

 規模は小さく、おそらく1haにも満たない。

 高さ2mくらいの石壁で囲まれており、現在もなお残っている。

 小川の土の丘に位置していることからみると、

 この遺跡では(イェリコと違つて)洪水を防ぐ必要はないから、

 石壁は外敵に対する防御施設だった可能性もある。

 しかし,この時期、戦争があったという証拠はほとんどない。

 《埋葬と儀礼
 「埋葬と儀礼

 無土器新石器代の死者の送り方は地域によって異なっていた。

 頭のない人骨(下顎かついていることもしばしばある)が床下に埋められ、

 頭部はまとめて別のところに埋葬されることがよくあった。

 こうした頭部の別葬は原新石器時代にも行われてい尤ものである。

 無土器新石器時代には、この方式が

 パレスティナ、レウアミント地方の多くの遺跡で一般的なものとなり、

 遠くアナトリア高原のハジラル、ティグリス川水源近くのチヤユヌでも行われていた。

 頭骨に飾り力づいていることもあった。

 鋭い刃物で削った例や、赤色緒土や天然アスファルトを塗ったものもあった。

 また、数は少ないが、目のところに貝を埋めこんで漆喰で顔をつくることもあった。

 そうや⊃て念入りに装飾された頭骨が

 イェリコ、テル・ラマド、ペイサムン、アイン・ガザルで出土している。

 この種の儀礼は一種の祖先信仰を衣していると考えられている。

 祖先が死後も残されたものに対して強い影響を及ばすため、

 祈りや犠牲を捧げることによって鎮めねばならないと

 信じられていたのだとされている。

 チャユヌではこうした儀礼に関係した建物が三つ同定されている。

 一つは犠牲用に使われたらしく、もう一つからは、

 多くの人間の頭骨がいくつかの雄ウシの頭骨とともにみつかっている。

 動物の頭骨はザグロスのガンジ・ダレ

 北イラクのネムリク遺跡からも発見されており、

 それらは建物の壁に備え付けられていた。

 同様の行為は原新石器時代のムレイビト遺跡

 時代は下るがチャタル・フユクの神殿でも行われていたらしい。

 さらにイラン山岳部では、現在もつづけられている。

 ヨルダしのアイン・ガザルで土坑が発掘されたところ、

 なかから男女の大きな人形が出土した。

 それらは葦を芯にして粘土でつくったものであった。

 宗教的儀礼に使われたものらしく、

 同様のものはイェリコや、死海の南西、ヨルダン砂漠にある

 ナハル・ヘマル洞窟からも出土している。

 ナハル・ヘマル洞窟からは人面をかたどった石製マスク、木材と粘土でつくった人の頭、

 さらに天然アスファルトで編み目状の飾りをつけた人の頭骨も出土している。

 編み目は髪をあんだ状態を表レているのだろう。

 これらの品物は、おそらく土着の宗教と関係したものと思われる。

 具象的な芸術作品はナトゥーフ期以降にみつかるが、

 無土器新石器時代にはいうそう一般的になった。

 ネムリク遺跡からは鳥、動物、人間をかたどった石製彫刻が15点みつかっている。

 土偶もよくみられ、とくに女性を表現したものが多い。
 
 ボクラスでは鳥が並んでいるさまを描いた壁面が残っていた。

 《交易網
 「交易網

 交易,少なくとも物の搬入は新石器時代よりはるか前から行われていた。

 前1万5000年頃の遺跡であるワディ・ハサでは、

 紅海や地中海から100km以上も運ばれてきた貝類が出土している。

 長距離交易は無土器新石器時代にはさらにはっきりしてくる。

 それは,黒曜石という火山ガラスを刃物用に使用し始めたことからわかる。

 黒曜石は伝統的なチャートやフリントとともに、道具づくりに使われた。

 科学分析によって黒曜石の産地が同定され、広範な交易網か明らかにされてきている。

 古代近東で使われた黒曜石のほとんどは、トルコ東部ないし中部から運ばれたものだった。

 無土器新石器時代には、産地から800km以上も離れた遺跡でも使われるようになった。

 ただ、黒曜石が専門の商人によって運ばれたものなのか、

 村から村へ伝えられたものなのか、

 あるいは大きなセンターから隊商力i派遣されていたのかは、

 今の段階ではわからない。

 貝類、準貴石、銅、天然アスファルトなども産地から離れた遺跡で発見されている。

 他の品物、たとえば塩、織物、皮革、その他の植物製品、

 動物製品なども交易されていた可能性があるが、証拠は残っていない。

 《技術の発達
 「技術の発達

 1983年にナハル・ヘマル洞窟が発掘されるまで、

 この時期の篭類、織物、木製品に関する証拠は乏しかった。

 葦の敷物や織物の痕がついた天然アスファルト・粘土、発掘とともに

 失われてしまう土についた圧痕などがそのすべてであった。

 ナハル・ヘマルに残っていた遺物のなかには、

 木製の鎌の柄、イグサか草の束を糸でつないでつくった分厚い敷物、

 より糸で編んで天然アスファルトを貼った篭があり、

 さらに細糸から大き10mmに至るローブなど

 さまざまなひも類が粉々になって出土している。

 天然アスファルトを貼った篭や容器は他の遺跡からもみつかっている。

 石を彫ってつくった容器はよくみつかり、

 石彫の腕輪も無土器新石器時代の遺跡ではよく知られている。

 他の容器としては石灰と灰をまぜてつくった白色容器があり、

 レヴァアント地方の一部では盛んにつくられていた。

 ジャルモ遺跡だけでも2000点以上出土している。

 メソポタミア地方では、容器はむしろ石膏でつくられる方が多か⊃た。

 粘土が容器に使われることもあったが、ふつう土偶用たった。

 ガンジ・ダレでは粘土製容器が火事でこわされた生活面から

 完全な状態で出土している。

 その容器はおそらく生粘土でつくられたものだったが、

 村が燃えたとさに一緒に焼けたのだろう。

 無土器新石器時代には白色容器や住居の床面に石灰が用いられていたわけだが、

 石灰をつくるにはかなりの技量が要求された。

 多大な労働力、燃料はもちろん、高温で焼ける窯も必要だった。

 石灰をつくるにはまず、石灰岩(CaCO3)をつぶし、

 850°Cの温度で数日焼く、

 ついで、それをゆっくり冷やして生石灰(CaO)とする。

 その後、水をまぜると消石灰(Ca(OH)2)ができ、

 それが二酸化炭素にふれると固まるわけである。

 その製作は大規模なものだった。

 たとえば、チヤユヌでは一つの建物をつくるのに

 1.6トンもの石灰が使われている。

 テャユメはエルガニ・メイドンの大きな銅鉱石採掘場から

 20kmほどしか離れていないところにある。

 この遺跡からは、考古学的に古い文化層から

 銅製のビーズ、留め針、道具類が100点以上も出土している。

 しかし、その他の無土器新石器時代遺跡では銅製品は二、三知られているにすぎない。

 たとえばマグザリーヤでは錐が1点(1,000km以上も離れた中央イラン産のものといわれている)、

 レヴァント地方のラマド、

 イラン南西部のアリ・コシユからはビーズが出土している。

 こうした品物は自然にえられる金属銅でつくられたもので、

 銅鉱石を精錬したものではないと考えられている。

 金属の萌芽的利用、共同作業、職人の専門化、長距離交易、

 さらに増大しつつあった宗教の重要性、こういったものはすべて、

 無土器新石器時代の集団が文明に向かって

 大きな一歩を踏みだしていたことを示している。

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 《参考》

 《スメル(シュメール)文明
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