2010年5月1日土曜日

アジサカ伝説は日本製か


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    231~233頁
 ただ最後のしめくくりとして一つだけは

 ご一緒に考えておく必要があるであろう。

 それは完全な一致をみた地名や人名で復原された歴史を見ると、

 八岐の大蛇退治の物語りは、インドネシア生れではなくて、

 やはりこちらで実際に起った事件を、

 インドネシアヘ逆輸出したのではないか?

 と思えてくることである。

 それは神話をただのお伽話と見て、

 世界のどことどこに分布している、ということだけで、

 作りものの証拠とするようなやり方の欠陥にも

 気づかせてくれるに違いない。

 主人公の名前の一致と物語り細部の一致の原因は、間違いなく、

 どちらかから移動した一つの話であることを

 証明しているのであるから、

 その方向を見きわめることは、重大な意味をもつている。

 こちらから向うへ行った場合、

 まず考えられるのは日本人の移住にともなって、

 向うで話されるようになったのではないかということである。

 しかし後世の伝播はあり得ないという結論になってしまう。

 納得のいく答えを、簡単にお話ししてみよう。

 後世に日本人が運んだものではない、

 という決定的な証拠は、アジサカという名である。

 和寇が発生したのは14世紀の半頃で、

 それも初期は高麗(高句麗ではない。念のため)が

 対象で次第に明(ミン)に及んだ。

 日本人が南方に移住した明白な時期は、

 さらにくだって17世紀はじめ関ヵ原役後である。

 とすれば、その人々が知っていた物語は『

 記・紀』と同じ内容のものであるはずである。

 その『記・紀』にはすべてスサノオの命と、しるされていて、

 それが阿遅鉏高彦根の神と

 同神であるなどと知っているものなど一人も居なかったのである。

 その謎の答えは<木葉>が世に出るまで

 私のほかに知る人はなかったのであり、

 この二つの話が同じ話が分裂したものと

 証明できたものもまた無かったのである。

 ということは、

 和寇や移住者が

 アジサカという主人公の名を運ぶことは

 不可能だったということを、

 はっきりと証明しているのである。

 さらに、

 この名は『日本書紀』では

 味耜(スキ)となっていてスキとはよめてもサカとはよめない。

 また味耜などという鋤(スキ)の種類はないから、

 これは全く無意味な当て字で、

 鉏をスキと読み違えた後で生れたものであることと、

 日本語による人名ではないことを裏書きしている。

 反対にインドネシア語に沢山の単語を供給している

 サンスクリット語のアジ、アジサは、

 天に、高貴に、殿下、君主、神、王侯、支配などを意味して、

 この人物にピッタリである。

 この点でも日本からの逆行という考え方が

 成立しないようにみえる。

 ただし、早まってはならない。

 たった一点で全部ひっくり返る例外が、

 まだ残っているからである。

 それは、これが作り話でなくアジサカ自身が本当に日本へ移住し、
 
 そこで出あった事件が故郷に伝えられる可能性があるからである。

 黒潮に逆って丸木船で、遠くインドネツアまで戻るというのは

 不可能に近いように思えるが、

 仁徳天皇の記事には、『記・紀』ともに

 「枯(カラ)野」という巨大な快速船を造った話が登場する。

 だからこの点はまだ研究を続けないと

 今すぐに結論を出そうとすることはいけない。

 「大船「枯野」の記事『古事記』」

 大樹伝説

 此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、

 当旦日者、逮淡道島、当夕日者、越高安山。

 故、切是樹以作船、甚捷行之船也。時、号其船謂枯野。

 故、以是船、旦夕酌淡道島之寒泉、献大御水也。

 滋船破壊以、焼塩、取其焼遺木作琴、其音響七里。

 爾、歌曰、

 加良怒衰 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許等爾都久理 

 加岐此久夜 由良能斗能 斗那加能

 伊久埋爾 布礼多都 邪豆能紀能 佐夜佐夜

 此者、志都歌之歌返也。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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