2010年5月27日木曜日

倭人章中、最大の謎


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    143~146頁

 
 以上を見ると、朝鮮の人々は<大国主>に悪感情をもっていず、

 上代語とパーリ系の人々が

 朝鮮語をわざわざ曲解したということになる。

 どれが語源であったかほハッキリしているから、

 それからどう変化したか、

 時間帯を考えてみて戴くのも興味があろう。

 では<伊都国>は、当時いったいどこにあったのであろう?

 原文は「末盧国から東南へ五百里で<伊都国>に到る」とある。

 真相を知るには、

 ① 末盧国の位置。

 ② 国と書かれたものは国境線か中心政庁の所在地か。

 ③ 東南という方角は果して正しいか。

 ④ 五百里の正確なkm換算。

 ⑤ 伊都国の位置。が明確にならねばならない。

 幸い私たちは

 ④については動かぬ知識をもっている。

  五百里は27.82km、約28kmだ。

  と確信をもって答えられる。

 ②もそう難かしくない。

 倭人伝の国と国の距離が百里という記事は、

 僅か5.5kmだが

 国境線のことでないことを明示している。

 国境線が当時あったとしても、

 それは隣国との問では一本しかなく、

 百里もの幅をもっていたとは考えられない。

 これはまた当時の中国文献が

 すべて現代と同じく政庁所在地を基点とする習慣で

 統一されていることと一致する。

 次に③を考えてみょう。

 御存知の通り、これまでの邪馬臺論は、

 すべて伊都を糸島に、奴を博多に決めている。

 本書冒頭で見て戴いた図の通り

 倭人章の原文の方角に合うものは一つもない。
 
 この<奴>や<不弥>から南は陸行でとても水行できないし、

 またこの辺りから船に乗るのなら、

 一体なぜ海流にさからって末盧へ上陸し、

 前を進む者さえ見えないような悪路を重い旅行道具を担いで、

 30km近くもあるいはそれ以上も歩き続ける必要があるのか?

 それより、

 海流に乗りながら楽に壱岐から博多へなぜ直行しないのか?

 実に理解しょうもない、

 常識はずれのことが行なわれたことになり、

 これは倭人章中でも最大の謎だというほかない。

 果して当時の<倭人>たちはそんなにも野蛮で、

 現代の邪馬臺論者たちのように、

 そんな不合理なことが平気だったのであろうか?

 当時の倭人の手で壱岐~対馬間の距離が

 誤差なく測定されていたことを知る私たちには、

 彼等がそんな愚かな事をしたとは信じられない。

 その測量は三角または天測法を高度に使いこなせないと

 不可能である。

 天測儀やトランシットはもちろん、

 望遠鏡もない時代なのである。

 それは現代よりも更に難かしい仕事だったはずである。

 では愚かだったのは魏人の方か?

 中国には周代のはじめ、

 すでに周公が天文台を作ったり前漢までの紀元前に精密な暦が

 天測をもとにして作られ、

 次々に改良されて行った事実を知る私たちには、

 3世紀の魏人が天測を知っていたからといって、

 別に驚ろく程の事でもないのである。

 <倭人>、<魏人>ともに高度の知性をそなえた人々で

 あったことは間違いない。

 とすれば、未盧で一たん上陸々行して、

 また船に乗って旅を続ける、というのは、

 どうしてもそうするほかない合理的な理由が

 あったと考えるほかない。

 それは何故か?

 と想像に走るようでは駄目である。

 なぜなら、この問題には答えに直結する条件が、

 ハッキリと明示されているからである。

 それはどうにでも読めるようなものではなく、

 動かしようのない限定条件なのである。

 ① 末盧から、

 ② 東南へ、

 ③ 五百里で、

 ④ 伊都に至る。

 ⑤ そこか、または<不弥>が港で、

 ⑥ 南へ、

 ⑦ 水行できる場所。

 と指定してあるからである。

 「図:ただ一つのコース」(加治木原図)

 対馬→壱岐→唐津というコースは、

 はっきり、ただ一つのコースを目ざして直進している。

 博多や宇佐や大和へ行くのなら、

 わざわざ唐津へ上陸する必要はない。

 ことに対馬と壱岐の間は魔の潮流が渦巻いている。

 大和へ行くのならそれを避けて、

 逆に潮流を利用しながら倍以上の速度で航海できるのである。

 倭人章のコース記事は

 宇佐、大和両説の無茶なことを立証しているのである。

 対馬海流(分流)日本海流(黒潮) 

 これだけ、はっきり書いてくれてあるのであるから、

 その位置を見つけるのは、ごく簡単なことである。

 壱岐から船が着いた所は間違いなく九州北岸で、

 それも壱岐から55kmの範囲内である。

 そこから東南28kmの所に、

 南へ船出できる水路がある所は、

 たった一か所しかないからである。

 間違いたくても間違いようのないその場所は、

 もうお気づきのように、有明海の北部である。

 佐賀と長崎の二県が有明海をかかえこむようにして

 回廊を形づくっている。

 そこだけが二つの海を結ぶ最短距離であることは、

 地図をチラツと見ただけでわかる。

 そしてその距離がおよそ30kmぐらいということもわかる。

 ④以外の6条件を完全に満たしている。

 この事実がわかると、巨大な謎に見えたものが、

 吹きとんでしまう。

 そればかりかさらに新らしい真相を話してくれる。

 自的は有明海を南下することであり、

 そこへは壱岐から西まわりに船で進むことが

 できなかったという事実である。

 何故か。

 それは西南方からすさまじい勢いで北上している

 黒潮のためである。

 それにまともに向っては非常に難航し、

 あるいは続行不能な船であったという事実である。

 半島から、島伝いに九州北岸へは来れても、

 西海岸沿いには南下できない、

 という二つの条件の間に、

 当時の船を復原するための貴重な証拠が詰っているのである。

 あわや倭人章最大の謎と見えたものは

 一瞬にして泡沫のように消え去ってしまった。

 しかし、それよりも大きい謎を残した。

 何故、多くの学者と自任した人々が、

 こんな簡単な事実さえわからなかったのか。

 という……。 

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


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