2010年5月18日火曜日

大阪ではなかった仁徳・孝徳朝(3)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    64頁
 史実として確実性のあるのは

 聖武天皇の難波宮ぐらいしか考えられないが、

 これも都にはならずに放棄されてしまった。

 その理由はすでにもうよくおわかりのはずである。

 狭い半島にどんなに壮麗な宮殿を建てたところで、

 それを維持する市民生活という支えがなければなりたたない。

 また前も後も明け放しではまるで防衛力もない。

 とすれば、これは都ではなくて別荘だったのである。

 平和な一と時を過ごすには、

 海と湖に挟まれて海水魚でも淡水魚でも釣れるという環境は

 素晴らしいものである。

 聖武遷都というような大げさなものではあり得ない。

 「図:18世紀の大阪のサイズ」(加治木原図)>

 一般に大阪が

 繁栄の極に達していたように想像されている元禄時代、

 新板大坂之図(林氏吉永版)や

 元禄11年版の大坂町尽絵などを検討すると、

 当時の市街は上図の黒い部分しかなく、

 東西南北の四区の一部と天王寺区の一部分を含むだけで、

 斜線で示した現在の市域に比べて僅か5%にも満たない。

 前図の実線を記入してあるから

 千四~五百年間の発展がどの程度のものかを、

 よく考察してみて戴きたい。

 後世大阪を難波と呼ぶ原因になった難波(ナンバ)は

 ●の地点で、まだ町のはるか南わずかに今宮の名が見えるだけの、

 名もない田園地帯の一部に過ぎない。


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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