2010年5月11日火曜日

邪馬臺国は本当に謎か

1
典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    10~11頁


 その異説の数と研究者の数に驚く程の邪馬台国だが、

 いまだにその位置さえ不明で謎だらけだとされている。

 しかし筆者にはほとんど謎らしい謎がない。

 本書以後異説が出ることもないと言っていい。

 では何故これまで何一つ確実な答えが見つからなかったのか。

 それは本書を数ページお読み戴けば、直ぐわかるはずである。

 御存知の通り、

 これまでの説は一人残らず伊都国を糸島附近、

 奴国を博多附近としている。

 図を御覧戴けば一と目でわかる通り、

 それは方角も、距離も、

 『魏書倭人章』(正式の名称はすでに云い尽されているから、

 以後「倭人章」という略称で通す)の記事に全然合わない。

 せっかく倭人章という記録があり、

 それによって邪馬臺国(正しくは邪馬壹国とある)の存在を

 知ったのであるから、

 そこに書かれた記事にもとずいて、

 邪馬臺国の所在を求めるべきであるのに、

 肝心の記録は一切用いずに、

 自分の好みの場所に伊都国や奴国をすえ、

 そこを起点にして仮空の邪馬臺国をデッチ上げたものが、

 これまでの邪馬臺論のすべてで、

 唯の一人も「倭人章の邪馬臺国」について書いた者がない。

 信じ難いほどのことが、現実に行なわれてきたのである。

 だから本書が、

 史上最初の「『魏書倭人章』による邪馬臺国研究書」なのである。

 邪馬台国という目的地へ行くには、

 正確な距離知識が不可欠である。

 一寸したハイキングでも目的地まで

 何キロということが前提条件だからである。

 それなのに安本美典氏が雑誌「現代」(1974年8月号)に

 書いておられるような状態なのである。

 原文通りに引用してみょう。

 和歌森太郎氏は、山本藤枝氏との共著

 『日本の女性史1上代 女帝と才女たち』

 (昭和40年、集英社刊)の

 「謎の女王=邪馬臺国の卑弥呼」の章で、

 『魏書倭人章』の記事にしたがい、

 帯方郡から倭へ行く旅程をたどつておられる

 (18ページから19べ-ジ)。

 そのさい、『魏書倭人章』の一里を

 4キロとして計算しておられる。

 私は、この文章をみたとき、呆然とした。

 この日本古代史学界の最高権威は、

 「4キロ」というのは、日本の国内だけで通じる換算で、

 20世紀の中華民国時代になっても、

 一里は5百メートルであったことを、

 御存知ないのであろうか

 (東京創元社刊『東洋史辞典』の巻末の「中国度量衡表」参照)。

 以後、安本氏の「里」についての高説が続くのであるが、

 以上で要点はおわかり戴けたと思うから、長くなるので割愛する。

 だが実際には、和歌森説に呆然とした

 安本氏の「5百メートル説」も落第なのである。

 それはごく簡単にわかる問題である。

 倭人章は朝鮮半島から対馬、壱岐、末盧と飛び石伝いに

 九州北岸へ着く間、いずれも千余里づつだとしている。

 だから大ざっぱに、半島南端から九州北岸を3千里として、

 この間が実際には何kmあるか計ってみょう。

 それはほぼ200kmである。

 これと安本説の1里5百米かける3千を比べてみょう。

 答えは1500kmで安本説はまるで合わない。

 「地図:原文を無視した在来説(加治木原図)」

 :正しい伊都と奴の位置

 これまでの邪馬臺論文は伊都国を糸島に、

 奴国を福岡市とする点で、大和説も九州説も一致している。

 それでは原典の東南を北東に進み、

 五百里と百里の違いも全く無視している。

 さらに奴から東百里という不弥国(宇美)から陸上を

 大和へ向って水行(船出)するというに至っては、

 正常な思考力の持主の説とは到底考えることはできない。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

0 件のコメント:

コメントを投稿