2010年5月15日土曜日

大和でない幾つもの証拠


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    58~60頁


 
 これまで息長帯姫(神功皇后)は大和朝廷の皇后とされてきた。

 また一方、それは仮空の人物であったとして、

 戦後は国史から削り去られてしまった。

 しかし私たちの復原ではこの二説とも間違っているように見える。

 大和でもなく、仮空でもない状態が、

 その名乗りにはっきりとみてとれる。

 それは沖縄王という意外な内容と共に、

 それを割り出した言語はピッタリ沖縄弁の特徴を

 備えているからである。

 それだけではなく、これまで見てきた多くの官名もまた、

 やはり沖縄弁と考えるほかない構造をもっていた。

 ということは邪馬臺国の官名が

 崇神、垂仁、神功朝のものとわかっても、

 邪馬臺国は大和であった。

 と単純にきめられない可能性が出てきた。

 ということである。同じ疑問は他にもなお幾つもある。

 主なものをあげてみょう。

 まず最初は倭人伝記事中にある気候風土との不一致である。

 「倭地は温暖で冬も生野菜を食べている」とある。

 しかし平安朝に入ってさえ、天皇自身が

 「君がため春の野に出て若菜つむ我が衣手に雪は降りつつ」

 という歌をよんでいるのである。

 冬の厳しさで知られる奈良、京都で、

 冬野菜が食べられたということは、

 弥生中期の季候が温暖であったことは事実だが、

 末期の3世紀では考えられないことである。

 「地図:大和説では旁国がバラバラ」(加治木原図)

 倭人章の南は東の誤りである、

 という大和説のキメ手に従って地図を置き、

 大和国家の一員としての旁国を、

 無理をして似た地名にあてはめてみても、

 とても統一国家として考えられない。

 バラバラなものにしかならない。

 そして女王国以北でないという旁国の条件にも合うものは

 僅かである。
           
 1 斯馬(志摩)

 2 己百城(磐城)

 3 伊邪(伊勢)

 4 都支(但馬)

 5 弥奴(美濃)

 8 姐奴(敦賀)

 9 対蘇(土佐)

 11 呼邑(児湯)

 12 華奴蘇奴(武蔵児玉郡)

 13 鬼(基肆)

 14 為吾(伊賀)

 15 鬼奴(紀伊)

 16 邪馬(山国)

 18 巴利(播磨)

 19 支惟(吉備)

 20 鳥奴(大野)

 21 奴(福岡市)

 次は邪馬臺女王国に含まれる旁国の国名と、

 大和論者によって主張された地名との比定の問題である。

 それらは一部分ずつの主張であるため、

 これまで余り反論を浴びていないが、

 大和朝廷というのは日本の統一政府であるから、

 たとえその初期であったとしても、

 それは大和を中心に網羅された

 全国土に当るものということになる。

 そこで当時の状態に近いよう、古い国名地名を選んで、

 できる限り広く、

 全国を覆うようにと考えて21ケ国を当てはめてみたのが、

 前文の図である。

 しかし、どう手を尽してみても御覧の通り、

 実にバラバラに寸断されてしまう。

 しかも、それらの大半が、邪馬臺国7万余戸と比べて、

 より大国ばかりになってしまう点も、

 邪馬臺を大和にすることが無理なことを物語っているのである。

 次におかしいのは伊都国との関係である。

 大和には隣接して文字通りの「伊都」が存在する。

 和歌山県の今の伊都郡である。

 これは倭人章の用字と全くちがわないたった

 二つの国の一つである。

 倭人章では末盧上陸点から

 500里(約28km)の所にあることになっている点も

 合わないが、

 何よりも女王国より北にあって諸国を検察するために

 一大率が置かれているのである。

 しかし大和からは南で正反対にあり、

 これを国のように大和論者に従って方位を修正しても、

 それは西に変るだけで北にはならない。

 これをニシは沖縄弁の北の意味としても、

 伊都からは南へ水行十日で邪馬臺国に至る。

 という記事に合わない。

 さらに末盧から2000里(約111km)では

 九州から殆んど出られない。

 という事実もあって、大和説を考えることは

 不可能に近いのである。

 そればかりではない。

 倭人伝以外の中国の正史が記録しているものは、

 7世紀になっても、まだ大和朝廷はなかった。

 という証拠に満ちている。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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