2010年6月29日火曜日

4官名が揃う垂仁天皇朝


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    『魏志倭人章』詳解1
    垂仁天皇の邪馬壹国
    77~78頁


 これまでみてきた候補者たちのうち誰々が、

 『魏書倭人章』に記録された<邪馬壹国の4人>なのであろうか。

 それを見分けるカギは第一に4人が揃っていること、

 第二に4人が地位の順に並んでいること、

 第三に政権担当者に相応(ふさわ)しい人物であること、

 といった条件である。

 第一の条件に合うのは崇神天皇朝と垂仁天皇朝であるが、

 崇神朝で筆頭官の伊支馬に当たる名をもつ人物は、

 皆子供ばかりで、

 地位順という第二の条件に合わない。

 同じことは景行天皇朝についてもいえる。

 <伊支馬>にあたる<倭建命>は皇子で、

 天皇より上位ということはありえない。

 このことは第三の条件にも合わない。

 では一つだけ残った垂仁天皇朝はどうか、

 も少し許しく検討してみることにしよう。

 筆頭の<伊支馬>は垂仁天皇自身。

 これは合格である。

 次の<弥馬升>は<日葉酢姫皇后>でこれも合格。

 第三の<弥馬獲支>は妃の<円野阿邪美妹歌凝比売>でこれも合格。

 第四の<奴佳鞮>もやはり妃の<沼羽田入比売>でこれも合格。

 4人が揃い、4人が地位の順に並び、

 4人とも政権担当者に相応しい人物であることという、

 三つの条件が完全に揃っている。

 さらにもう一つ絶対に忘れてはならない条件がある。

 それは『記・紀』の記事内容の年代が、

 『魏志倭人章』の邪馬台国の年代と、

 かけ違っていては何にもならないということである。

 ほぼ年代が確実とされているのは、

 「倭の五王」時代に合う点の多い仁徳系皇朝であるが、

 この4~5世紀の記事の前に、

 適当な間隔を置いて配置された垂仁天皇朝の記事は、

 3世紀半ばの実在である邪馬台国の年代と、

 よく合っていて何も問題は残らない。

 これほどよく一致することは、どんなに偶然が重なったとしても、
 絶対にありえない。

 ほんの少しの偶然が重なることもごく希なのに、

 これを大量の偶然が重なった奇跡とする者がいれば、

 それは余りにも非科学的で、

 良識に欠けるとしかいいようがない。


      官名
          <卑弥呼> <伊支馬> <弥馬升> <弥馬獲支> <奴佳鞮>

   皇朝

  3 安寧                            ※   

  5 孝昭                 ※           ※

  7 孝霊      子

  10 崇神      ※     子      ※      ※     ※ 

  11 垂仁          ※      ※      ※      ※        ※

  12 景行            子             ※     子

  14 仲哀                                           ※

 これを見ると<伊支馬>、<弥馬升>、<弥馬獲支>、<奴佳鞮>の

 四官名が揃っているのは、明らかに垂仁朝だけである。

 『魏書倭人章』の<邪馬壹国>は、

 『記・紀』の垂仁政権以外にありえない。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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