2012年5月24日木曜日

奈良「東征」は6世紀、都はまだなかった(1)



※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 誰が巨大古墳を造ったのか
231頁

奈良「東征」は6世紀、都はまだなかった
奈良「東征」は6世紀、都はまだなかった

誰が巨大古墳を造ったのか
誰が巨大古墳を造ったのか



「図」埴輪が立証する古墳時代服装のルーツ
   埴輪が立証する古墳時代服装のルーツ

この絵は6世紀の中国・北魏のもの。

洛陽でみつかった

正光二年(521年)制作

の石の仏座に彫ってある絵の拓本を反転してみると、

埴輪に見る脚結い風俗そっくりになる。

髪の毛を二つに分けた頭の様子もミヅラに近い。

北魏は鮮卑族で和人の一族だったから、

古墳人はいずれにしても彼らと同族だった。

しかし『魏書』を読むと、

華北で勢力を増大して洛陽を都にした

494年、全中国の統一をめざして文明開化政策をとり、

それまで自分たちの風俗言語だった胡服や胡語を使うことを

禁止した。

この絵の人物は馬の手綱をとっているから

乗馬用に特にこの胡服スタイルが許されていたのである。

このことで古墳時代人の埴輪スタイルがどういうものだったか、

よくお分かりと思う。

北魏は大同などに巨大な仏教遺跡を残した

「ウワイ」人でもあった。

和人と倭人とが北進、南帰を繰返していた歴史のひとこまである。

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