2012年2月12日日曜日
ヒミコの悲劇と和人の高度文明(1)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
77~79頁
写真:ヤオ人と銅鼓の儀式
鉢巻きをキリリとしめた威勢のいいオッサンらが、
揃ってドンドコと銅鼓を叩く、
それは左右の手のバチの太さが違うので、
鐘と太鼓を合奏しているように聞こえる。
今にも[河内音頭]が聞こえてきそうな光景。
しかし場所は中国・広西省である。
《ヒミコの悲劇と和人の高度文明》
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《比較的正確な陳寿の『魏書倭人章』》
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2012年2月11日土曜日
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇(3)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
74~77頁
写真:中国の『魏書倭人章』の文字は正確
中国の『三国志』の本はどの版をみても
「東治(とうち)の「治」の文字は、
他の「治める」という字と同じ三水偏であり、
「冶(や)」は二水偏でここに書かれた
「次」の字のように全然書き方が違う。
だから[トウヤ=東冶]と間違うことは絶対にない。
『紹興版』
『百衲影宋本』であり、どの版をみても明瞭である。
これは福建省の[東冶]が文字だけでなく
地理的にも無関係なことは常識だからなのだ。
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇
ほんとうに会稽東治の東にある邪馬壹国
ほんとうに会稽東治の東にある邪馬壹国
「東冶」は「東治」が正しい
「東冶」は「東治」が正しい
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2012年2月10日金曜日
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇(2)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
56~73頁
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇
写真:ミャンマーと日本の合掌造り大家屋
岐阜県白川村の合掌造りの大家屋は有名だが、
東北ミャンマーのカリエン人も、
やはり合掌造りの大家屋に住んでいる。
写真:鉄製の五尺刀2ふりが出土した弥生中期遺跡
鹿児島県揖宿郡山川町の成川遺跡。
『魏書倭人章』は、卑弥呼が魏帝から[五尺刀2ふり]をもらったことを記録している。
倭人は大家屋に住んでいた
倭人は大家屋に住んでいた
考古学は「東征はなかったと証言する」
考古学は「東征はなかったと証言する」
考古学の最有力証拠は[古墳]
考古学の最有力証拠は[古墳]
古墳は邪馬台国を証明しない
古墳は邪馬台国を証明しない
名乗りが解く神武天皇の領土のなぞ
名乗りが解く神武天皇の領土のなぞ
いくつもの「大邪馬臺」の分布
いくつもの「大邪馬臺」の分布
国をラ・マ・ヤ・ナと呼んだ古代日本人
国をラ・マ・ヤ・ナと呼んだ古代日本人
宇治のルーツは沖縄のウチナだった
宇治のルーツは沖縄のウチナだった
「沖縄邪馬臺国」の実在
「沖縄邪馬臺国」の実在
倭人30カ国の出発点は沖縄
倭人30カ国の出発点は沖縄
倭人30カ国の出発点は沖縄
倭人30カ国の出発点は沖縄
あまりにもムチヤな『南島・邪馬台国説』
あまりにもムチヤな『南島・邪馬台国説』
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇(1)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
51~55頁
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇
邪馬臺へ攻め込んだ神武天皇
写真:長髄彦の盾
長髄彦の盾
神武天皇の敵・長髄彦はナガの根日子で、
ナガの[タラシヒコ=天皇]である。ナガはなにか?
左のナガ人のダンサーは奈良県出土の隼人盾と同じ
[S字象徴模様]を描いた盾をもつ。
隼人は山幸に負けた海幸。
スサノオの八俣大蛇。
伊支馬に負けた邪馬臺の内というふうに多くの別話がある。
それを立体的に組み立てると、
精密機械のように狂いのない立体像が得られる。
私(加治木義博)が本書でお話しするのは
その『結論=完成品だけに近いが、
一部分だけしか知らない「思いつき論」ではない。
長髄彦は隼人町にいたとするときだけ
完全に組み合わせることかできて、
食いちがいがなくなる「敵の天皇」なのである。
写真:ナガ・ダンサー隼人盾
ナガ=インド語の蛇
いまインド北西部にすむ人々の名。
写真:神武天皇の戦闘図
昭和10年(1935)当時の小学校教科書「修身巻二」の挿絵。
神武×崇神の戦場、ヤマトの位置確認
神武×崇神の戦場、ヤマトの位置確認
戦場は絶対に奈良県ではない
戦場は絶対に奈良県ではない
風の名前の「のぼり」「くだり」
風の名前の「のぼり」「くだり」
2012年2月8日水曜日
神武天皇と崇神天皇が戦った!(3)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
KKロングセラーズ ムックの本
ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
38~50頁
図:邪馬壹戦争の戦場
邪馬壹戦争の戦場
屋久島:狗奴国(安房)
種子島(広田・熊野・西表)
速吸門:大隈海峡
大隈半島:大根占
薩摩半島:開聞岳・活田・笠沙
隼人:姫木山
隼人町に邪馬壹の都があり
[戦さの君=彦五十狭芹彦=伊声耆]がいた。
この[五十狭芹]が[イソキの]と読まれて
[磯城イソキ]と書かれた。
決して奈良県の磯城(しき)郡のことではない。
[速吸の門]は[ソキウの門]で、
襲(ソ=大隅北部)と
岐(キ=肝属=大隅南部)王(ウ=沖縄・大隅語)の門ということ。
鹿児島湾の入り口をさす。
神武天皇は熊野から北上してヤマトを攻めたが、
狗奴国が[クマノ国]であり、種子島には熊野の地名も残る。
また天照大神対スサノオではスサノオの本拠地は
[ヤク=疫=屋久島]で、この両島が出発点なのである。
戦闘の舞台「ヤマト」は鹿児島県だった
戦闘の舞台「ヤマト」は鹿児島県だった
破片も「復元」して初めて役に立つ
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幸運! 残っていた敵・味方、双方の記録
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古代日本に大天才家がいたか?
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神武天皇夫人の名も[崇神紀]と一致
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「ハツクニシラス天皇」問題の完全解決
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立派な史書『日本書紀』と『古事記』
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2012年2月7日火曜日
神武天皇と崇神天皇が戦った!(2)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
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ジンム・プロブレム
真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
20~37頁
写真:台湾に現存すろギリシャ系倭人
台湾に現存すろギリシャ系倭人
後からきた侵入者に追われて山地に住んでいる人々の中には
写真のような人たちがいる。
その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、
その古いルーツがインド経由の地中海人だったことを示している。
「臺」はウティナで沖縄のこと。
「湾」はワニで「倭人」の唐代以後の読み方。
ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。
[台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。
そして『ヒミコ』でお話しした
ヒメゴソとオオヒルメが
「太陽の光で身ごもった」というあの
『阿具沼伝承』も『かぐや姫』の原話も
両方とも台湾に現存するお話の中にある。
またカリエンの人たちの都は今も花蓮(カリエン)港と呼ばれ、
「鬼道=アショカ仏教」の子孫も現存している。
ヒミコの一生
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でも……まだ「なぜ、ジンム?」という方へ
でも……まだ「なぜ、ジンム?」という方へ
発見!耶馬臺戦争の詳細な記録!
発見!耶馬臺戦争の詳細な記録!
まさか!?『記・紀』が事実だと証言
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神武紀と崇神紀との共通の事件
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足利尊氏とヒトラーか戦うほど意外な真相!?
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神武と索神をつなぐ「キ」=武埴安彦(たけはにやすひこ)
神武と索神をつなぐ「キ」=武埴安彦(たけはにやすひこ)
狗奴国男王か武埴安彦か?
狗奴国男王か武埴安彦か?
卑弥呼政権が崇神政権だった証拠
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ほんとうの「日本建国の日」を発見!!
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2012年2月6日月曜日
神武天皇と崇神天皇が戦った!(1)
※出典:加治木義博:言語復原史学会
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真説:日本誕生 卑弥呼を攻めた神武天皇
1~19頁
写真:唐古の楼閣図土器は畿内説に有利か?
唐古の楼閣図土器は畿内説に有利か?
帯方郡使は二度来たが、どちらも伊都国までしか来なかった。
梯儁は伊都国でヒミコと合い、宮室・楼観を目撃した。
その遺跡は佐賀県の牛津付近にある。
畿内説も伊都国は九州の中だと認めている。
伊都国にあった楼観と奈良県とは、
地理的にみて全然、無関係である。
では吉野ヶ里だったか?いや「邪馬壹国」は、
その後、伊都国よりもさらに
[南]の[水行十日・陸行一月]の遠方の土地へ遷都している。
牛津より北にあって、近くて、
水行できない吉野ヶ里では絶対にない。
では唐古遺跡はだれのものか?本書ではそれも明らかになる。
「はじめに」
戦後、私(加治木義博)はずっと関西に住んで活動してきた。
大阪府民大学の講師や文化財審議委員として
20年以上も前から古代日本の真相について、
広い地域やテレビでお話ししてきた。
そのあいだにこんな面白い体験をした。
講演のあとの座談会で、ある中学生が、
私の話を聞きにいこうとお母さんを誘ったら
「神武なんか知らんでも、死なへんワ」と言ったというのである。
私は「君はどう思うの?」と聞いてみると、
「歴史は面白いけれど、それだけのもので、
受験にも役に立たないし、
お母さんの言うことは一理あると思う」と言ったのである。
私は、今これをお読みの読者の中にも、
この親子と同じような考えの方が多いかもしれない」と
思うとゾツと恐怖が走る。
これを「まえがき」に書くことにした。
それは私が第二次世界大戦中に小学校の教員をしていて、
自分も飢え、
小さな生徒もおなかをすかせて苦しんだ悲惨な体験があるために、
この[神武問題]は、今、日本人として、
どうしても知っていなければならない
重大な常識であることを痛感しているからである。
私たちが飢えに苦しんだ戦争はなぜ起こつたのだろう?
若いみなさんにはチンプンカンかもしれないが、
そのときの「大義=戦争スローガン」は[八紘一宇]だった。
それは「日本は世界を一軒の家のようにするために戦う」
という意味である。
これが神武天皇が唱えた日本の永遠の理想だというのである。
それは今でいえば世界連邦にあたり、
国境と戦争のない理想的な世界のことだと思って
、国民は「理想に燃えて」ガマンにガマンを重ねていた。
決してバカだったから、政府にだまされていたわけではない。
しかし現実は、そんなに、甘くはなかった。
そのスローガンは次第にきびしくなって、
最後は「現人神(アラヒトガミ)、
天皇陛下のために…世界を敵として戦い…
神国日本を守り抜く…」という、
最初の[大義]とは正反対の、
一見悲壮だが実は天皇に全責任をなすりつけた、
卑怯きわまるものにスリかえてしまった。
だがもともとその[大義]とは、
日本人を[戦争という極悪の道]に
ムリヤリ引きずりこむために
[発明]されたものだったのである。
その発明者は伊藤博文である。
彼は日清戦争用に日本歴史を改造し、
その[神国日本]とか[現人神・天皇]とかいう
考えを盛りこんだ[国定歴史]を御用学者らに作らせた。
日本人を戦争という人間にとって最もいやなものに駆り出して、
死んでも文句が言えないように、
コキ使う[屁理屈]の一つとして、
[歴史]を[活用=実は許せない悪用]したのである。
もっともそれは[西欧帝国主義]が、
日本も植民地にしようという野蛮きわまりない時代の、
やむにやまれぬ選択だったことも事実である。
欧州には伊藤以上のケタはずれに悪いヤツらが、
暴力で非武装国を「征服」して強奪した
他人の富で豪勢な宮殿を建てて住み「王だ、貴族だ」と自称して、
恥ずかしいとも思わなかった。
人類の超低級時代だったからである。
しかしそれを非難ずに、
自分もその悪魔らの仲間入りしようとして「作られた」歴史が、
今になって厄介きわまりないものになったのだ。
そうした思想は当然の結果として
「大日本帝国」を滅ぼしただけでなく、
手本になった西欧帝国や大国も、
大英帝国からソ連帝国に至るまで次々に滅ぼして、
残ったのはアメリカ帝国だけになったが、
それも超赤字国に転落し、
その費任を日本のせいにしようとヤッキになるほどの
末期症状を呈しはじめている。
そんなときに、明治の幼稚な学者らが大あわてで作った
「帝国政府御用達(ごようたし)の皇国史観歴史」が
そのまま手つかずで残っていると、どうなるか……?
それは日本人が「昔からの帝国主義思想の持ち主で、
武器に[経済]を使って、世界を征服しようとしている証拠だ。
経済・八紘一宇だ…」と
非難の口実にされることは目に見えている。
その結果は世界規模の「経済封鎖」に発展しかねない。
アメリカ主導の世界政治は、
口実さえあれば他国にどんどん制裁を加えているのだ。
極悪のCCC(クークラッククラン)がのさばるアメリカを、
紳士国と誤信して、
絶対に日本にはおハチは回ってこないと信じるのは
余程の大バカなのである。
神武問題は今や日本人にとって、
そうした[死活を分ける]大問題なのだ。
今、世界世論の先手を打って、
[神武問題]を徹底的に[真実の歴史]に戻し、
国民常識を完全に改めないと、
海外からの石油も食料も封鎖されて、電気もこず、
水道も出ず、医薬もつくれず、飢えて痩せ細って、
あのお母さんも、とても「死なへん」などとは
言えなくなるのである。
《神武天皇と崇神天皇が戦った!》
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