2012年10月29日月曜日

「和人」の遠い故郷「バビロン」



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 ※出典:加治木義博言語復原史学会

 『魏書倭人章』詳解4 邪馬壹国大移動 123頁



 「図」
 《「和人」の遠い故郷「バビロン」
 「「和人」の遠い故郷「バビロン」

 バビロン第1王朝の弟6代ハンムラビ王

 「ハンムラビ法典」によって知られているが、

 彼はペルシャ湾岸のヤムトバル

 エウフラテス川中流のマリ。

 ティグリス川上流のアッシュールなどを統一して

 「アムル族」王朝を確立した。

 しかし彼の死後シュメル人、カツシート人が

 相次いで第2、第3王朝を作り

 カルデア(バビロニア)人は国を失って流亡し始めたのである。

 カスピ海
 ウルミア湖

 アッシリア(ティグリス川)
  ・ニネヴェ・アッシュール

 バビロニア(エウフラテス川)
  ・マリ・バビロン・ウルク・ラルサ
  ・ウル

 ルリスタン
  ・スーサ・ヤムトバル

 『「和人史」総括年表』

 これまでみてきたことを分りやすく総括して

 年代順に整理しながら、

 新たに考古学データなどをつけ加えてみよう。

 1 紀元前18世紀。

   バビロニア第一王朝滅びる。

   カレン人の放浪生活、始まる。

 2 紀元前1523年。

   中国に商(シャン)=後の殷(イン)帝国起こる。

   その繁栄は宝貝によって支えられていた。

   カレン人は沖縄海域で宝貝産業に従事。

   沖縄の貝塚からは宝貝の貝塚出ない。

 3 弥生時代。

   種子ガ島の広田遺跡付近に「山」という漢字や、

   古代中国の文様を彫った

   装飾品をもった人々がいた。

   その付近は今も水稲や「赤米」を祭祀用に栽培している。

   古代辰韓。

 4 紀元前。

   高句麗、北朝鮮に建国。

   その国名は宝貝を意味する。

   地名、数詞は日本語。

   沖縄から九州本土西部を北上した痕跡

   『三国史記』「高句麗本紀」の地名、王名に残っている。

 5 3世紀。

   朝鮮に馬韓・辰韓・弁辰の古三韓あり。

   三国とも日本語名の小国で構成されている。

 6 244年。

   高句麗・山上王位宮、北朝鮮より敗走、行方不明になる。

 7 244年。

   新羅始祖・赫居世(のちの倭女王「壹與」と諸条件が一致)、
 
   沖縄・与那原で即位。

 8 246年。

   辰韓の「臣濆沽」国主、帯方郡の崎離宮を攻めて太守を殺し、

   臣濆沽国、滅亡。

 9 247年。

   狗奴国男王・卑弥弓呼素、邪馬臺国を攻撃。

   卑弥呼死ぬ。

   大冢を作る。

   古墳時代の始まりか?。

 10 247年。

   2代目卑弥呼・御間城姫、立つが、

   夫・崇神天皇の自立で内乱起こり、

   邪馬臺国消える。

 11 247年。

   3代目卑弥呼・壹與、立つ。

   邪馬壹国起こる。

   筆頭官「伊支馬」は山上王位宮=垂仁天皇。

 12 247年?。

   鹿児島県知覧に古代新羅「鶏林」が都する。

   福岡が白日別と呼ばれ新羅「斯盧」時代に一致する。

 13 425年頃。

   倭王・珍の名乗りに始めて新羅・百済の名がある。

   このころ朝鮮に始めて古墳ができる。

 14 663年。

   新羅王・金春秋、百済を滅ぼす。

   こののち天智天皇即位。

   「神武東征」革命で倭国滅ぶ。

 15 670年。

   倭国、国号を「日本国」に変える。

 『総括年表補足』

 年表をもう少し補足しておこう。

 先ず


 <1>のカレン人だが、

 古代バビロニアは「カルデア人」の国である。

 この「カル」と「カレン」や「カリエン」の「カレ」「カリ」は、
 
 方言ていどの違いでしかない。

 沖縄・南九州万言は「ラ行」を「ダ行」で発音することは、

 前章で説明したが、

 大坂の河内方言では「ウドン」を「ウロン」と

 発音したこともよく知られている。

 仮に河内方言で「カルデア」を読むと「カルレア」。

 それに「人」を意味する語尾の「アン」または、

 南九州助詞の「ン」をつけると、

 「カルレアアン」または「カルレアン」になる。

 これが縮まって「カリ工ン」「カレン」に

 なっても不思議ではない。

 「カレン」の語源は「カルデア人」であった可能性が濃厚である。

 宝貝の「カウレイ」は「カルレアン」が「カウレアン」と

 訛った場所・時代があって、

 そこで「カウレ人の商品」という意味で

 「カウレ・イ」と命名されたように見える。

 彼等がバビロニアで宝貝を取っていたとは考えられないから、

 それは放浪中に始めた仕事だったはずである。

 貝の名の方があとで生まれたことは間違いない。

 それが移動先でさらに次々と発音が訛って

 「コーリー」や「コグレー」と変化したのである。


 <2>の中国古代帝国「商(シャン)」の名もまた、

 ビルマからタイヘかけての山岳地方に住む民族の総称として

 有名な「シャン民族」の名と一致する。

 ビルマにはシャン・高原にシャン州が、

 カレン・カレンニの二州とならんで実在しており、

 それらの地方からタイに移動した民族の名前をとって、

 かってタイ国がシャムと呼ばれていたことを

 ご存じの方も多いと思う。


 <3>の赤米は

 今も私たちがお祝いに食べる赤飯の古い姿だというのが定説である。
 年表には書けなかったが、

 北部九州が銅剣・銅鉾をもっていた弥生時代に、

 南九州からはそうした銅器が全然出てこないので、

 南九州は文化が低かったのだとされていた。

 しかし戦後、同じ弥生時代の遺跡から銅器の変りに

 鉄器が次々に出てきて、

 南九州が一と足さきに鉄器時代に入っていたことが

 明らかになった。

 そこで「なぜ北九州の方が遅れていたのか謎」とされていたが、

 読者にはもう、その理由がよくお分りだと思う。


 <4>地名は日本語。

 『三国史記』「地理」にある朝鮮の古地名が

 日本語であることは

 私(加治木義博)著『異説・日本古代国家』(前出)で

 説明済みなので、もと高句麗領地名を選んで少し例を挙げておく。

 それがどうして日本語だと分るかというと、

 地名は全然別のものに変えてしまうと不便極まりないから、

 どうしても元の地名に近い発音をもった当て字に変えるしかない。

 <十谷城>という地名を新羅王が鎮湍県に変えているのをみると

 「ジウタンキ」という名を「ジンタンケン」に

 変えたとみるほかない。

 十谷城を<ジウタンキ>と発音するのは

 日本語の・南九州方言しかないということが分るのである。

 また<烏斯含達>は「ウシガンダ」か

 「オシガンダ」としか読みようがないが、

 それは牛神田か押神田という日本式地名である。

 以下、説明ぬきで並べてみよう。

 沙熱伊=サネツイ=実洋井。

 古斯馬=コシマ=小島。

 伊伐支=イバルキ=茨城。

 加支達=カシダ=加世田。

 河西羅(または何瑟羅)=カシラ(またはカヒラ)。

 千珍=ウチヌ。

 数詞は日本語。

 高句麗の数詞を日本語か?

 と指摘したのは『大辞苑」の新村出氏である。

 「三・七・十」に当たるものに

 「蜜(ミツ)・難(ナヌ)・徳(卜)」という

 当て字が使ってあるのを発見したからであった。

 これはその後、

 私(加治木義博)が後の数詞全部を見つけだして

 日本語だったことを立証できた。

 詳細は次編で説明の予定。


 <10>邪馬臺国は鹿児島からどこへ移動したのか?。

 崇神天皇系の人々が兵庫県に移住した事実が

 「天の日矛」伝承として記録されているが、

 邪馬臺国の名は「宇治山田」型の地名として

 京都、奈良、伊勢に分布している。

 この地域は弥生後期、銅鐸文化が栄えたが

 3世紀末頃に奇妙な滅び方をしている。

 これは先住民が新しい勢力に征服されたかたちに見える。

 そして代って古墳文化が栄え始める。

 その古墳は卑弥呼の死にともなって作られた「大冢」が、

 記録に残る「古墳らしいもの」の最初である。

 こう考えてくると

 3世紀の近畿地方の大変動は

 邪馬臺国の人々の移動によるものであった可能性がもっとも強い。


 <13>「倭の五王」をその頃の近畿の支配者と考えるのが

 これまでの常識だったが、

 最後の「武」の上表文を分析してみるとそれは間違っている。

 ここでも思いがけない真相が隠されていた。

 次編をお楽しみに…。

 『なぜ日本は新羅だったか?』

 以上で天智天皇の「日本」とは何であったかが、

 出発点に遡って一と通り分った。

 『魏書倭人章』に関連していえば、

 日本は壹與女王と卑弥呼弓呼素に始まった、

 あの『垂仁天皇の邪馬壹国』だったのである。

 それがどうして「日本」でなく「新羅」になっていたのか?。

 日本と熊襲・出雲・八俣・ヤマトが

 もとは同じ名から派生したこと。

 熊襲梟師(クマソタケル)が垂仁天皇であったことなどは

 昭和48年の『異説・日本古代国家』以来、

 繰返しお話してきたから簡単に説明しよう。

 垂仁に敗れた卑弥呼の太子・景行天皇(戴斯烏越)は、

 のちに垂仁朝を倒す。

 それが『記・紀』の「熊襲退治」である。

 そして皇子は

 「熊襲=クマソ=肥素=ヒノモト=日本」の名乗りを継ぐ、

 それが「日本武尊=倭建命」である。

 これをみると邪馬臺国が「日の本」を国名にしていたのである。

 邪馬壹国は姫木を中心とする大隈にあったから、

 そこを追われた人々は薩摩半島に移って

 山間の知覧に新しい国を作った「日国=ヒラ=シラ」である。
 
 これを鹿児島方言では「シラ・ン・国」と発音する。

 「知覧」という当て字は「シラン=知らん=知覧」

 という発想で生まれたとみていい。

 「始林」は「シラン」に対する当て字である。

 しかし「チラン」と発音されるようになったため

 「鶏林」という当て字に変えられた。

 それを『三国史記』「新羅本紀」は

 「鶏が鳴いて金閼智が見付かったから」

 という説話で脚色してしまった。

 「鶏林」は「知林」と同じ発音「チリン」だが

 鹿児島方言では「チィン」である。

 これは沖縄方言の「金(チィン)と同じである。

 「鶏林」で拾った子供が「金」という姓をつけられたのは、

 そのためである。

 後世、

 「日本国」を再興した天智天皇の本名「金春秋」の金は、

 「知覧」と同じものであり、

 そのルーツは沖縄以来いろいろに変型しながらも

 本質的には変らなかった

 「チヌ=シン=ヒノ」に結びつくものだったのである。

 「シラ」は「斯盧国」と変ったとき

 「シラグイ」と鹿児島方言で発音され、

 文字が「新羅」に変っても日本では

 「シラグイ=シラギ」と読まれた。

 すべての名は人為的でなく

 自然に生まれ育って歴史を記録していたのだ。

 『「名」の背後にある実体』

 私たちの祖国「日本」。

 その国号の歴史は、

 大方の読者にとっては意外なものだったと思う。

 私(加治木義博)自身、

 半世紀の研究中、

 意外な展開に幾度、疑問をもったか数えきれない。

 その度に別の角度から研究をやり直し、またやり直して、
 
出た答を整理に整理を重ねて、

 やっと皆さんに御覧戴く日を迎えたのである。

 これで本当の「日本」の建国者、

 勝利者「天智天皇」とはだれであったかが分った。

 歴史では単なる名前は何一つ物語らない。

 それは幾ら有名でも

 「卑弥呼」だけでは謎のままだったことでよく分る。

 そして今では卑弥呼は数人もいたことが分って、

 よけい単に卑弥呼といっても、どの卑弥呼か分らなくなった。

 「天智天皇は天智天皇じゃないか!」といった単純なものではない。
 その人物の別名、地位、経歴はもちろん、

 彼がどういった民族の、どういった時代の、どういった歴史の、

 後継者であり、またどういう子孫につながるのか?。

 そこまで分らなくては、

 とても「天智天皇」とは何者かということを、

 いい表わしたことにはならない。

 それと全く同じ意味で、

 『魏書倭人章』の解説も「邪馬壹国とはなにか?」を

 説明するには、ここまでの解明が必要だったのである。

 それは「邪馬台国は○○にあつたのだ」とか

 「邪馬[壹]国が正しい」といった

 低俗な「謎々遊び」ではいけない。

 少なくとも「歴史」を論じる以上は、

 対象の実体が歴史的に明らかになるまで追及して

 公表すべきだと思うが読者はどうお考えであろうか。

 その意味では、

 こうした書物の型式は研究のごく一部しかお目にかけられない。

 余り詳しすぎて膨大でも読んでもらえない。

 かといって証明と説明が少なくても信用してもらえない。

 最小限これまでお読み戴いただけのことは必要だったと思う。

 これでともかく「日本」とは何であったかは分った。

 それは一たんは老卑弥呼らの邪馬臺政権を倒して

 新しい邪馬壹国を樹立した垂仁天皇政権であった。

 しかしそのまま

 7世紀の大和政権「日本国」になったのではなかった。

 邪馬壹国は朝鮮半島へ大回りしたのち大和へ入った。

 では天智天皇に倒された倭国は一体、

 何ものだったのであろうか。

 次編は巨大古墳を作った

 倭国の人々の正体と歴史を詳しくお話しよう。

 地図:神武×長髄彦の戦った土地
 《神武×長髄彦の戦った土地
 「神武×長髄彦の戦った土地

 地図:長柄豊碕地形復元図
 《長柄豊碕地形復元図
 「長柄豊碕地形復元図

 地図:「和人」の遠い故郷バビロン  
 《「和人」の遠い故郷バビロン
 「「和人」の遠い故郷バビロン

 《古代オリエント
 「古代オリエント

 《古代メソポタミア
 「古代メソポタミア

 《シュメール・シュメル
 「シュメール・シュメル

 《ウバイド
 「ウバイド

 《倭人(ウワイト)
 「倭人(ウワイト)

 《魏書倭人章
 「魏書倭人章

 《日本書紀・古事記
 「日本書紀・古事記

 《三国史記・三国遺事
 「三国史記・三国遺事

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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