2013年1月13日日曜日

殷の全てを立証する二個の人面注口器



 『Yahoo!天気・災害』 

 ※出典:加治木義博言語復原史学会

 大学院講義録 38 23頁



 「図」殷の全てを立証する二個の人面注口器
 《殷の全てを立証する二個の人面注口器
 「殷の全てを立証する二個の人面注口器

 稲敷の阿見町に今も残る福田は、

 最初はマルドゥクの村だったが、

 「日の出」の当て字がホッデンと読まれるようになって
 
 「福田」という当て字に変わり、

 周辺一帯が日の立つ所=日立と呼ばれたが、

 後に日の昇る地という意味が嫌われて、

 <ヒタ>には「常」が、<チ>には「地⇒陸」が当てられて、

 「常陸」になったのは「大化」革命の遺物である。

 これは我が国の地名が、様々に変化する事実と、

 発音が先にあって、

 後から当て字されるものだという事実を物語っているのである。

 A:「辰馬人面注口土器」(復原レプリカ)

 B:「青銅人面盉」(中国殷墟出土)

 『福田は「日の出の」への当て字』

 その聖なるラインの基点は阿見町の福田貝塚である。

 それはもうご存知のとおり殷墟から出土した

 「青銅人面盉」(ワシントンのフリア美術館蔵)と

 全く同じ多数のアイテムをもつ

 「人面注口土器」(西宮の辰馬史料館蔵)が、

 この福田貝塚から出土したからである。

 これは両者が同一の信仰と文化をもつ人々の手になるもので、

 稲敷の<イナ>と殷の<イン>とが、

 同じ血、同じ言語、同じ信仰、同じ文化、同じ歴史をもつ

 人々のものであることの、

 動かぬ貴重な傍証であり、北緯36度線上に測量し設定されたレイ・ラインが、

 単なる偶然ではなく、

 当時はカルデア人以外には見られない天文学と航海測量学の、

 非常な高文化の遺跡であり、無形文化財の最たるものが、

 何びとでも自由に地図上で確認できる

 霊域ラインの東西に層をなして現存しているのである。

 またその東端の東にある地名の「福田」も、

 大隅音で「福」は<フッ>、「田」は<デン>で、

 薩摩音では<ホッデン>である。

 これは「日津出(ホッデ)ン」すなわち

 鹿児島語で「日の出の」という

 地名への当て字だったのである。                         .
 これはこの霊域線が、

 西端の殷墟から北緯36度線上を真東に見るもので、

 その東端が「日立=太陽が昇るところ」と呼ばれていることで、

 間違いない事実だと確認できる。

 『霊域線と日・殷の全ての謎が解ける』

 いや、それだけではない。

 この「日の出」は、鹿児島語で読むと、

 さらに深い意味が読み取れて、

 この霊域線が何のためのものか…、

 何時の時代に…我が国へでやって来たか…から、

 古代の小国・日本は

 鹿児島県にあったことが史実であることまで、徹底的に立証する。

 鹿児島語では「出る」は「ヅッ」、

 「来る」は「ク」と発音するから、

 スメル語を用いて「日」を「マル」と読むと、

 「日が出て来る」は、

 「日(マル)出(ヅ=ドゥ)来(ク)マルドゥク」になる。

 これはバベルの主神「マルドゥク」が、

 「マル=円=太陽」であり、

 「ヅク=出来」すなわち

 「出てくる円形神」という神名をもっていることで、

 どこから見ても疑いなく、

 日殷の信仰は明らかにバベルと同じ太陽神崇拝である。

 我が国には古来、薩摩に「日の丸」の船(ふな)じるしがあり、

 赤丸で「日」の国を表現して来たが、

 それが幕末の英主・嶋津斉彬(なりあきら)によって

 我が国の国旗に選ばれて、

 明治に正式に国旗になり、

 今では人類の全てが日本の名と日の丸を知っている。

 鹿児島が古代の小国日本で、

 その名はニップルから出たことは既に確認した。

 そこに日の丸の旗があり、それを「日のマル」と呼んでいた。

 それはバベルの主神の名の謎を解き、

 日本語とスメル語との関係と、

 福田のフツデンがなぜ薩摩語なのかを説明しているのである。

 『殷商帝国滅亡にも見るイサナキ説話』

 ほかにも我が国と殷との関係は、

 神話伝承にもに共通のものがあったと考えられるものがある。

 殷は周に滅ぼされたが、

 その周が殷王朝打倒の理由に挙げている有名な物語が、

 最後の皇帝・紂(チュウ)王が、王妃・坦己(ダッキ)という

 悪女の尻に敷かれて、

 酒池肉林を初めとする乱行、悪政の限りを尽くしたので、

 天下万民のために周の武王が立って征伐し、

 新たに周王朝を建てたという歴史を遺した。

 勝者はどのようにでも都合よく歴史を書ける。

 しかし、

 まるっきり嘘ばかりでは自国民も内心、

 武王とその政権を軽蔑する。

 根拠がなければならない。

 この坦己が紂王を尻に敷いたというのは、

 作りごとではなかった。

 それは殷人はカリエンだったから、

 ウバイド以来の女帝制国家であったことは、

 当時の人々の常識だった。

 武王はその女帝制の平和偏重の欠点を衝いて、

 「武」の必要を誇張し、

 男帝制の優位を掲げて革命に成功したから『武』王なのである。

 「女性上位では悲劇に終わる。男性上位が良い」

 というイサナキ説話と同じ葛藤と教訓が、

 ここにも実在していたのである。

 岐美2神には「子の数に入らない子供」しか生まれず、

 坦己と紂王には継ぐべき子孫も国土も無くなってしまった。
 
 わが国の『イサナキ説話』には、

 こうした同族の古い記憶や教訓が入っていたのだ、

 ということも見落としてはならないと思うが、

 如何であろうか。

 『失礼すぎる「出雲の流れ者スサノオ」観』

 もちろん稲敷を故郷とし、

 そこを太陽神の居る場所として遥拝した殷人は、

 スメル人の一部に過ぎない。

 しかしその<イン>という発音は、

 インダスを経由したイナンナ女神の名を継いでおり、

 「須佐の男=スサの王」と結婚した

 「稲田姫=インダス姫」を祖先とする私たちは、

 ごく近縁なのだから、

 スサノオの両親に擬されるイサナキ・イサナミ型説話が、

 殷人によく知られていたことは当然で、

 臣下として坦己と紂王に仕えていた武王も、

 それをよく知っていて利用したことは不思議ではない。

 とすると、

 これは今から3200年前の史実なのだから、

 在来考えられていたような朝鮮からの流れ者に過ぎない

 スサノオの尊が、

 古代出雲の村落で

 田舎娘の稲田姫と結婚したという解釈は余りにもお粗末で、

 そんなものを天皇の先祖の話として、

 なぜ?麗々しく取り上げ、宣伝してきたのか?

 まったく理辞に苦しむ。

 スサノオは名乗りだから一人だけではないが、

 インダスの女王と結婚した大王は、

 世界の海洋を股にかけていた大国の王であって、

 朝鮮から木の苗をぶら下げてきた流れ者などではない。

 それは小さな都市国家時代の話でもなく、

 スメル文明の国家群がさらに東に拡大して、

 インダス文明を生んだ史実を、

 桃太郎や浦島太郎式に神話化したものである。

 それがさらに日本列島に遷都し、

 中国に拡大して殷商帝国を生んだ事実を

 よく教育しなくてはならない。

 『「倭」の字が語る国体と殷との関係』

 では、殷が首都になったのか?。

 それとも首都は日本列島にあって、

 殷は植民地にすぎなかったのかを考えてみよう。

 それに答えてくれるのは殷と倭人という二つの国名である。

 この二つの国名はどちらも中国の文字で表現したものである。
 
 この文字は普通「漢字」と呼ぶが、原形は殷の時代に考案された。

 それがスメルの楔形文字とエジプトの象形文字とに

 多くの一致点をもっているので、

 殷文明のルーツはどこか、早くから判っていた。

 ウバイドに対する当て字だと解っている

 「倭人」を分析してみると、

 倭の、旁(つくり)の委は、

 上の「禾」は、

 稲や稗や黍や麦などの、穂が出て穀物を実らせる禾本科植物を意味し、

 下の「女」は、

 それを栽培し、それで食事を作って、管理している、

 のが「女」だという特徴を示している。

 そしてこの場合は人扁(にんべん)は人種を意味しているから、

 女性支配の農業国の名になる。

 それは最初からウバイドの国を意味していたのである。

 それなのに何故?それは殷でなく、

 わが国の名になったのであろう?。

 いや<委>も<倭>も初めは、

 旁(つくり)の音で「イ」だったのである。

 「イン=倭の」だったのだが、

 「豊か」といういい意味のイン=殷の字に変えたのだ。

 そして「倭」の字の発音は「イ」でなく「ウワイ」に変わった。

 これは我が国の国名がウワイトと呼ばれていたから、

 当て字の発音もそれに従って変わったのだ。

 『倭人」の名が語る建国理想の真意』

 この倭をウワイと発音するような、

 外国名への当て字音が漢字本来の中国語音でなく、

 外国語名詞本来の発音に変わるのもまた、

 漢字による当て字独特の現象である。
 
 飛鳥、春日、大和、陸奥、英吉利、仏蘭西、独逸など

 数多くの実例は、よくご存じの通りである。

 また倭だけで人種を意味しているから、

 「倭人」と書いて「人」をダブらせる必要はない。

 それなのに『魏書倭人章』は「倭人」と書く。

 これは人の字を、

 日本語で「ト」と読まなければウワイトにならないから、

 この文字を選んだのは魏人ではなく、

 倭人自身がウバイドの訛りであるウワイトを

 漢字で表現しようと考案して使ったものだと解る。

 このように人種名は、

 ウバイド人が始めた農耕文明政体が、

 様々な文明を生み、

 経済発展を遂げながら拡大して全世界に広がって行き、

 現代に至ったが、

 そのうち最も遅くまでウバイドの名を継承していたのは、

 A.C.640年ごろに日本と改名した倭人だけであるという事実である。

 世界に国家が発生する以前、

 まだ「国」という概念さえ生まれなかった時には、

 世界を一軒の家、母屋と離れ座敷、本家と分家と考え、

 互いに助け合って人類繁栄を計っていた。

 それ「八紘一宇」と表現したのが、

 あの神武建国の真意だったのである。

 『遷都の理由は日本列島のもつ自然防衛力』

 ら倭人の考えは、あくまで他国への移住ではなく、

 行く先々が「我が生みの子の君たるべき土地」だったから、

 それはあくまで、時を移す「遷都」だったのである。

 その結果、様々な都市国家や政権が生まれたが、

 それはすべて分家であり、地方自治体に過ぎなかった。

 分れて出来た都市国家群は皆な兄弟姉妹で、

 地球という一軒の家の部屋なのであり、

 戦争や紛争は同族相食(は)む愚かなこと、

 愛と平和こそ厳守すべき人類繁栄の唯一の真理である。

 というのが常識で当然のこととされていた。

 それによってウバイドは唯一の世界国家として、

 自然の城壁である海岸線に守られて、

 海外で次第に数を増す侵略主義国家とも巧みに共存しながら

 7世紀まで存在した。

 何故?ウバイドから、

 絶海の孤島ともいうべき日本列島まで

 はるばる遷都したのか?という疑問には、

 古代農耕に適した環境もさることながら、

 第一は、やはり争いを避けるため、

 四面環海の日本列島が持つ自然防衛力を高く評価した結果であり、

 またそのお陰でウバイドは今も日本と名を変えて、

 生き読けているのである。

 以上は国史だけでなく、世界史上にも不可欠な最新知識である。

 今まさにグローバル化の時代に突入した全人類が、

 少しも速く知る必襲のある必須人類史常識である。

 それを本学が本講で、世界で最初に確認できたことは、

 稀にみる痛快事で、ご同慶に耐えない。

 『「ムー大陸」実在! その実体は日本列島』

 これで我が国と中国は、

 少なくとも三千数千年前には同じウバイド人が住み、

 その伝統の女性主導「大母=大婆(ウバイ)王」国の首都をなしていた。

 この母の一音「モ(一例=母里(モリ)」は、

 沖縄語では「ムー」に成る。

 ムー大陸があったという説を頭から嘘と決め手かかるのは間違いである。
 
 それは位置、内容ともに、

 本講で解明してきた真相と多くの一致点をもち、

 日本列島を巨大な陸地と感じて

 「大陸」と呼んだことも当然のことである。

 本講はこれからますます面白くなる予感がする。

 これまで検討してきた「ウバイド=ウワイト=倭人」の事実は、

 すでに疑う余地のない証拠群を積み上げたが、

 まだ大量にあって、

 それを全部本講で扱うのは場違いである。

 これで充分ご納得がいったと思うので、

 本号の残ページは、

 ウバイドの発生と発展の背景である古代オリエント史を、

 見易く整理しておくことに使う。

 在来のオリエント学説では、

 オリエントの最古の集落遺跡は、

 イランとイラクとトルコの周辺に散在する

 農排と牧畜による食料生産経済発生に伴う遺跡群で、

 紀元前7000年頃のものであろうとされていた。

 読いてメソポタミヤ北部で

 紀元前6000年頃の新石器を使う人々の村落跡が発見され、

 サマッラで最古の感慨農耕施投が見つかっているが、

 ウバイドが属するメソポタミヤ南部には

 せいぜい紀元前5300年頃の集落遺跡しかないとされていた。

 『お考えになって頂きたい遷都開始期』

 しかし1980年代にウバイド遺跡の洪積層の下に、

 さらに古代の遺跡が見つかり、

 発掘調査の結果、それが8000年前のものだと確認されたが、

 折悪しく発生した湾岸戦争で中断し、

 それ以上の進展は見られないから、

 考古学的な実態は今のところ不鮮明である。

 私たち倭人の子孫としては、

 ウバイドという祖国の発生年代は、

 是非知っておきたい大問題である。

 調査の再開が待ち望まれる。

 発生時期はマルドゥク信仰などで

 バベル族が分化した頃であるということになるが、

 その決定方法などをお考えになってお教え頂きたい。

 B.C.E.9000年  最古の農耕・牧畜集落遺跡群散在

 B.C.E.8000年  前ウバイド期の集落遺跡

 B.C.E.8000年  最古の灌漑農耕施設 サマッラ

 B.C.E.8000年  新石器使用村落跡 メソポタミヤ北部

 B.C.E.6500年
  ↓      ウバイド文化遺跡群

 B.C.E.6000年  フジスタンにスサ誕生

  ↓      ウバイド文化の北部進出遺跡群
 B.C.E.5500年

  ↓      ウルク期
 B.C.E.5100年

  ↓      ジェムデト・ナスル期 都市化進展

 B.C.E.5000年  スメル文明最盛期・都市国家群立

  ↓      初期王朝時代
 B.C.E.1792年
  ↓      バビロン第一王朝
 B.C.E.1750年

 『講演会他』

 1 21世紀の最高の「趣味」
 《21世紀の最高の「趣味」
 「21世紀の最高の「趣味」
 
 2 マス・メディアによって興亡するもの
 《マス・メディアによって興亡するもの
 「マス・メディアによって興亡するもの

 3 トリプトレモスが解いた『日本神話』の謎
 《トリプトレモスが解いた『日本神話』の謎
 「トリプトレモスが解いた『日本神話』の謎

 4 読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布
 《読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布
 「読谷・紫合=ギリシャ。広い地名遺跡分布

 5 天孫族=ギリシャ人は決定的事実
 《天孫族=ギリシャ人は決定的事実
 「天孫族=ギリシャ人は決定的事実

 6 神の贈り物
 《神の贈り物
 「神の贈り物

   「仁徳天皇陵」
    《仁徳天皇陵
    「仁徳天皇陵

   「履中天皇陵」
    《履中天皇陵
    「履中天皇陵

   「伊勢神宮のルーツ」
    《伊勢神宮のルーツ
    「伊勢神宮のルーツ

   「黙示録」
    《黙示録
    「黙示録

 7 天皇陵関連の参考事項
 《天皇陵関連の参考事項
 「天皇陵関連の参考事項

 8 仁徳陵・被葬者は別人?(後継・履中陵より新しい可能性)
 《仁徳陵・被葬者は別人?(後継・履中陵より新しい可能性)
 「仁徳陵・被葬者は別人?(後継・履中陵より新しい可能性)

 9 履中陵・第2の被葬者?
 《履中陵・第2の被葬者?
 「履中陵・第2の被葬者?

 10 『妙見』と『鬼道』と大化大阪大戦
 《『妙見』と『鬼道』と大化大阪大戦
 「『妙見』と『鬼道』と大化大阪大戦

 11 日本人の悲劇と「生きた史学」
 《日本人の悲劇と「生きた史学」
 「日本人の悲劇と「生きた史学」

 12 言語復原史学の役割と古代情報
 《言語復原史学の役割と古代情報
 「言語復原史学の役割と古代情報

 13 加治木義博著書目録
 《加治木義博著書目録
 「加治木義博著書目録

 14 Union Jackと日本古代史
 《Union Jackと日本古代史
 「Union Jackと日本古代史

 《古代オリエント
 「古代オリエント

 《古代メソポタミア
 「古代メソポタミア

 《シュメール・シュメル
 「シュメール・シュメル

 《ウバイド
 「ウバイド

 《倭人(ウワイト)
 「倭人(ウワイト)

 《魏書倭人章
 「魏書倭人章

 《日本書紀・古事記
 「日本書紀・古事記

 《三国史記・三国遺事
 「三国史記・三国遺事

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
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 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏         
 『言語復原史学会:画像』

 『検索』
 GoogleWeb検索
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 YahooWeb検索
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 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
 装飾古墳

2 件のコメント:

  1. 日本の天皇家が亀占の習慣を2019年令和まで保持していた事実は、ほとんどの日本人のルーツが、亀甲占いで収奪の標的を決めていた殷人(後に商と中国が命名)と同じである証拠と思います。

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  2. https://www.youtube.com/watch?v=pyt0csfHBrc&t=2544s
    大嘗祭の亀甲うらないのようす:虎ノ門ニュース

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