2012年12月23日日曜日

中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)



 『Yahoo!天気・災害』 

 ※出典:加治木義博言語復原史学会

 大学院講義録 28 27頁



 「図」中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)
 《中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)
 「中国初期王朝時代(前2000-前1000年ごろ)

 「黄河中流域

  辛店文化
  《辛店文化
  「辛店文化

  寺窪文化
  《寺窪文化
  「寺窪文化

  二里頭文化
  《二里頭文化
  「二里頭文化

  夏王朝<二里頭遺跡>落陽・鄭州

  商王朝<殷墟遺跡>安陽・太原

  周王朝<周原遺跡>西安

 「鄭州商域

  三星堆文化<三星堆遺跡・金沙遺跡>成都

  十二橋文化
 《十二橋文化
 「十二橋文化
 
 「揚子江下流域

  薛家崗文化
 《薛家崗文化
 「薛家崗文化

  呉城文化
 《呉城文化
 「呉城文化

  馬橋文化
 《馬橋文化
 「馬橋文化

  湖熟文化
 《湖熟文化
 「湖熟文化

 「初期王朝時代」

 黄河中流域に大型の宮殿跡や青銅礼器(れいき)類などを持った

 二里頭(にりとう)文化(「夏(か)」王朝か)が出現し、

 初期王朝時代をむかえる。

 その後、商(しょう)(殷(いん))・周(しゅう)の両王朝が興り、

 黄河流域を中心に支配。

 ただし、これら初期王朝の支配領域の「外」では、

 中央の影響を受けながらも在地的な文化が花開き、

 四川でも三星堆(さんせいたい)文化や

 十二橋(じゅうにきょう)文化が隆盛した。

 三星堆文化やそれに続く十二橋文化は、

 成都平原一帯なった独自の文化圏を形成した。

 『渡来カルデヤ人が残した地名文化財

 <ヤマトバル人>がもってきた凄い<測量文化>は、

 天測によるもので、

 彼等が天文学に優れていたことがわかる。

 当時のその文化の所有者はカルデヤ人だったから、

 それを調べてみると、

 彼等が残した痕跡には次のようなものがある。

 カルデヤン 軽寺(カルデヤ・南九州語) 鹿児之国(カルしま) → 鹿児島 

 カリエ ン 軽(カリ・南九州語)  軽部(カルベ)  仮屋・刈谷・狩谷 

 カレ  ン 花蓮港(台湾) 嘉例川(カレガー・鹿児島県) カレン人(ミャンマー) 

 カウリエン 高麗人 郡園  番里園(大阪府枚方(ヒラカタ)市) 

 コウリジン 小売人 → コウリニン  高離人 

 コ レジン 高麗人(南九州語) 高良(コウラ→タカラ→宝・吐葛邏) 財部(宮崎県) 

 コグリョ  高句麗(朝鮮語) 漕ぐ盧(リョ)=国  小栗(コグリ→オグリ) 小倉
 
 ク     高・コオ→ク(沖縄発音) 高国(クマ)・熊・球磨 高天原(クマゲン)・熊毛の

 クリ    句驪(『宋書』)栗・クイ(南九州語) 鬼(クイ)(漢魏音)=鬼国(クヒマ)=串間(くしま)

 クル     久留米=句驪女・クルミ・胡桃(沖縄語)クルド人(イラク北部人)

 タカ     高・多賀・田川(タカワ・高倭)・高輪(タカワ・タカナワ・高の倭)

 『東アジアの広域経済も支えたカルデヤ文化人

 その遠い出身地を証明する地名が、

 歴史にも現在にもびっしり残っているのである。

 彼等が故郷を離れて船出したのは<ヤマトバル>からだったが、

 その子孫が<ミャンマー>から台湾→南西諸島→九州から、

 近畿や中国東北区にまで拡がった痕跡がはっきり残っている。

 今、朝鮮半島人を英語で<コレアン>と呼ぶのも、

 <カルデヤ人>の子孫だという証拠なのである。

 <宝貝>を英語で<カウリー>、<コウリー>と呼ぶのもまた、

 高麗の貝がいかに世界に有名だったかを記録している。

 殷代から使われていたその<宝貝貨幣>が中国の西域、

 成都から雲南省にまで

 大量に分布出土して私(加治木義博)が鑑定を依頼された。

 それを調査して行ってみると、その大半が琉球海域のものだった。

 当時の沖縄の宝貝産業がいかに大規模なものだったか!を、

 今更ながら実感せずにはいられなかったのである。

 漕ぐリョ(高句麗人)が操る船に乗って、

 潜んぐり(モンゴル)(蒙古人)が潜った地域は、

 バイカル(貝(ばい)狩る)湖にまで達していたという地名、

 国名が、

 いま壮大な名詞文化財になって、

 今も連携の濃密な広大な東アジア地域に

 広く現存しているのである。

 これはこれまでも繰り返しお話しし、

 著書でもお読みいただいたことで、

 簡単に済ませておくが、

 これがカルデア人の移住から始まったものとすると、

 ただ一点、疑問が残る。

 『カルデヤ人の紀元前1200年頃の大移動

 それは殷・稲敷レイラインは紀元前1200年頃のものなのに、

 <カルデア人の帝国>が出現したのは、

 それから5世紀も後のことだからである。

 しかしレイライン測定は動かぬ事実だし、

 当時そんな<天測技術>をもっていた人々は

 <カルデヤ人>以外にはなかった。

 そして彼等は前記の通り移動コースを示す

 大量の完全な痕跡を残している。

 この時間差は何?なのだろうか?。

 その答は、今、イラクにクルド人がいるが

 クルドという独立国はないことが教えてくれる。

 <カルデア人>は<セム族>で、

 紀元前1200年前後から<南バビロニヤ>に定住し、

 紀元前7世紀にそれまでの支配者だった<アッシリヤ>を

 倒して<新バビロニヤ帝国>をつくった。

 有名な<ネプカドネザル>は2代目皇帝で、

 そのときが最盛期だったが、

 名もなき小国としては殷代より前から実在していた人々で、

 独特の文化をもっていたのである。

 ところが私たちは、

 カルデヤ人といえば新バビロニヤ帝国だという先入観から、

 彼等は紀元前7世紀以後の存在のように錯覚し、

 彼等が殷以前にいたはずがないと想像してしまう。

 しかし今、国はなくてもクルド人が実在しているのを見れば、

 歴史の表面に現われたものだけで、

 真実の歴史が判ったつもりでいることが、

 どんなに間違っているか、深く思い知らせてくれる。

 カルデヤ人は紀元前1200年前後に南バビロニヤに移った。

 その前後に我が国までやってきた人々もいたのである。

 『カルデヤ→インド→稲敷→殷の大量の証拠群が復元

 しかしこの事実は、もう少し再確認しておく必要がある。

 それは、<カルデヤ人>は国を作る500年も前に、

 そんな進んだ文化をもっていたはずがない、

 偶然だ、間違いだという者が必ず現われるからある。

 本当に<カルデヤ人>が<レイライン文化>をもってきたのであろうか?。

 まず<殷墟>と<稲敷>との間に2200kmの<レイライン>が

 実在することは、地図で計ってみればすぐ確認できる。

 その<レイライン>は以後の日本列島に定着して、

 5世紀に築造配置されたことの確実な

 <仁徳天皇陵>から<応神天皇陵>、<景行天皇陵>、<伊勢元宮跡>までが、

 全く同じ11の倍数単位で測定配置されている。

 <その他の古墳>はもちろん、

 <神社仏閣>まで同じ配列になったものが、

 8世紀以後の建造物にまで実在している。

 この<レイライン文明>は<日本の古代文明>だと主張できるから、

 なにもカルデアと結びつける必要はないのだが、

 前記のように<殷>と<稲敷>の結びつきが明瞭で、

 その稲敷と九州との間に<イン>・<イナ>の地名遺跡が

 現存して生きている。

 しかもそれは

 インドとつながって<イン>・<イナ>という地名のルーツを

 立証している。

 それと同時に、そのルートを結ぶ、

 <カルデヤ>の名からしか生まれない地名や国名の一族が、

 <ミャンマー>から我が国まで見事に分布していて、

 その関連を疑う余地がない。

 そのコースは<鰹節>や<宝貝貨幣>といった<特殊な海洋産業遺物>によって、

 殷帝国の誕生史を裏書きしている。

 『帝国「商」の名が記録していた歴史

 こんなに大量の偶然など、あるはずがない。

 それを偶然と呼ぶこともできない。

 偶然とはごく少数のものごとが奇跡的に重なることを

 「偶・たまたま」「然り・そうなった」というのであって、

 こんなに多くなくても複数であれば、

 それは「必然」と言わねばならないのである。

 以上の問題は、その「必然」=「当然」のことであって、

 それを偶然と思い

 偶然と表現すること自体、その人物の無知を立証している。

 だから<シュメル文明の担(にな)い手>だった<カルデヤ人>は、

 <新バビロニヤ建国>とは無関係に、

 その大移動当時に、東進して<インド>から

 <ミャンマー>、<タイ>、<台湾>、<トカラ諸島>を

 経由して、<南九州>から<稲敷>にまで至り、

 次いで<中国>に最初の帝国・殷(商)を建てて、

 その文化圏を拡大したのであると確認できるのだ。

 その<殷人>が「商」を正式国名にしているのも

 <シャプガル>(<シャプ>=<商売>、<ガル>=<人>)という

 <シュメル語>がなければ

 「商売」という中国語は生まれなかったし、

 <商>の字も「高」の字の変種であることは誰にでもわかる。

 これは<殷人>=<カルデヤ人>そのものが、

 もともと広域を対称にした隊商と海上貿易からなる商売人集団で、

 そのために天測でコースを決める文化を、

 いち早く開発して発達させていたのだと教えてくれる。

 商を国名にしたのは当然で、

 <シヤブ>がタイ語訛りで<シャム>になるのもまた、

 彼等のコースを記録していたのである。

 『大学院講義録20』

 1 なぜ?シュメルにまで遡る必要があったのか?
 《なぜ?シュメルにまで遡る必要があったのか?
 「なぜ?シュメルにまで遡る必要があったのか?

 2 「商人」文化の源か?「シアルク文明」
 《「シアルク文明」
 「「商人」文化の源か?「シアルク文明」

 3 文化史年表 1 (CHRONOLOGICAL CHART)
 《文化史年表 1 (CHRONOLOGICA文化史年表 1 (CHRONOLOGICAL CHART)L CHART)
 「文化史年表 1 (CHRONOLOGICAL CHART)

 4 文化史年表 2 (CHRONOLOGICAL CHART)
 《文化史年表 2 (CHRONOLOGICAL CHART)
 「文化史年表 2 (CHRONOLOGICAL CHART)

 5 ギリシャ人が創った「弥生時代」
 《ギリシャ人が創った「弥生時代」</ギリシャ人が創った「弥生時代」a>》
 「

 6 中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化
 《中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化
 「中国文明の母胎は太古ペルシャのシアルク文化

 7 「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権
 《「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権
 「「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権

 8 ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々
 《ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々
 「ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々

 9 民族史観と国境を否定する『文化史年表』
 《民族史観と国境を否定する『文化史年表』
 「民族史観と国境を否定する『文化史年表』

 10 我が国へきたインド「商人」のコースと生態
 《我が国へきたインド「商人」のコースと生態
 「我が国へきたインド「商人」のコースと生態

 11 超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷
 《超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷
 「超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷

 12 ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』
 《ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』
 「ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』

 13 沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字
 《沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字
 「沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字

 14 阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字
 《阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字
 「阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字

 15 ギリシャ問題が不可欠だった『『魏書倭人章』』解明
 《ギリシャ問題が不可欠だった『『魏書倭人章』』解明
 「ギリシャ問題が不可欠だった『『魏書倭人章』』解明

 16 「人種」という観念を生みだしたもの 寺田和夫
 《「人種」という観念を生みだしたもの 寺田和夫
 「「人種」という観念を生みだしたもの 寺田和夫

 17 救いようがないほど暗い迷信「人種的偏見」
 《救いようがないほど暗い迷信「人種的偏見」
 「救いようがないほど暗い迷信「人種的偏見」

 18 高市の名が教える我が国の紀元は4千8百年!
 《高市の名が教える我が国の紀元は4千8百年!
 「高市の名が教える我が国の紀元は4千8百年!

 19 イザナミの尊=幡梭皇女が立証する女王制の継続
 《イザナミの尊=幡梭皇女が立証する女王制の継続
 「イザナミの尊=幡梭皇女が立証する女王制の継続

 20 長谷(ハセ)は倭の五王が種子島出身だと証明する
 《長谷(ハセ)は倭の五王が種子島出身だと証明する
 「長谷(ハセ)は倭の五王が種子島出身だと証明する

 21 名乗りの書き替えが生む『古事記』不信
 《名乗りの書き替えが生む『古事記』不信
 「名乗りの書き替えが生む『古事記』不信

 22 断定を急ぐより再検討を繰り返すこと
 《断定を急ぐより再検討を繰り返すこと
 「断定を急ぐより再検討を繰り返すこと

 23 『古事記』序文を素直に続んで 隅田真也
 《『古事記』序文を素直に続んで 隅田真也
 「『古事記』序文を素直に続んで 隅田真也

 24 何故?序文は安萬偶の「記名」「日付」入りなのか
 《何故?序文は安萬偶の「記名」「日付」入りなのか
 「何故?序文は安萬偶の「記名」「日付」入りなのか

 25 天武天皇と『日本書紀』
 《天武天皇と『日本書紀』
 「天武天皇と『日本書紀』

 26 何故?序文はの「安萬侶記名」「日付」入りなのか
 《何故?序文はの「安萬侶記名」「日付」入りなのか
 「何故?序文はの「安萬侶記名」「日付」入りなのか

 27 『記・紀』は7~8世紀の人達の知識と教養に立脚して書かれた

 28 序文執筆者Xは誰か
 《序文執筆者Xは誰か
 「序文執筆者Xは誰か

 29 姓は稗田、名は阿礼
 《姓は稗田、名は阿礼
 「姓は稗田、名は阿礼

 《古代オリエント
 「古代オリエント

 《古代メソポタミア
 「古代メソポタミア

 《シュメール・シュメル
 「シュメール・シュメル

 《ウバイド
 「ウバイド

 《倭人(ウワイト)
 「倭人(ウワイト)

 《魏書倭人章
 「魏書倭人章

 《日本書紀・古事記
 「日本書紀・古事記

 《三国史記・三国遺事
 「三国史記・三国遺事

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状
 装飾古墳

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