2013年2月28日木曜日
古代史21世紀の研究課題:ムー大陸(幻の大陸・捏造記事)
出典:謎解き古代文明:㈱彩図社・2011年
「写真」ウィリアム・ニーヴンの「メキシコ石板」
ジェームズは、こころからもムー大陸の痕跡を
読み取ることができるとしていた。
画像の出典:
Churchwardo, james "The Children Of Mu, Rider, London, 1931"より
●ムー大陸の陰影-ジェームズだけの「幻の大陸」
ジェームズは、
「ムー大陸」を復元するにあたって、つぎのような史料を活用している。
①粘土板『ナーカル碑文』(インドの僧院蔵)
②ウィリアム・ニーヴン発見のメキシコ石板
③『トロアノ絵文書』(大英博物館蔵)
④『コルテシアノ絵文書』(スペインーマドリード国立博物館蔵)
⑤『ポポル・ヴフ』(Popol Vuh or Popol Wuj)
⑥『ラサ記録』(チベットの僧院蔵)
⑦イースター島の碑文(コハウ・ロンゴ・ロンゴ)
①は「ムー大陸」における最重要史料であるが、
⑥ともども
「インドおよびチペットのいくつかの僧院にも非常にお世話になったが、
その希望によって寺院の名、地名等は一切記さないことにした」として、
出所は明かされていない。
①については写真も載せていないし、
本当に実在したのかどうかもまったく担保されていない。
②はアメリカの鉱物学者ウィリアムーニーヴンがメキシコで発掘したもので、
ジェームズのムーシリーズ第2弾
"The Lost Children Of Mu” (1931) に写真が載っており
実在は確実なもののようである。
ジェームズの ”The Lost Continent Of Mu” には、
ニーヴンヘの献辞があるが、
この石板がジェームズのように訳せるとはとうてい思えない。
③④⑤は実在で、スペイン人に焼却されずに残った貴重なマヤ文献である。
③④はもともと1冊の本で、③が大英博物館にあったことはなく、
今日では
『トロ=コルテシアノ絵文書』(『マドリード絵文書』)と呼ばれている。
『ポポルーヴフ』はチチェ族の神話集・歴史書である。
ジェームズはこの両者もル・プロッジョンの「解読」に依拠している。
「伝説」冒頭で引いた『トロアノ絵文書』の一節も、
じつはル・プロンジョンの解読からの借り物たった。
しかも、
『トロ=コルテシアノ絵文書』は
のちにマヤの神々や儀礼・暦・予言の本であることが明らかになる。
ループロッジョッは1886年に自身の『ポポル・ヴフ』解読を基礎として
『1万1500年・マヤ族およびチチェ族の秘儀』を発表し、
マヤ文明を途方もない1万1500年前にさかのぼらせて学界の嘲笑の的になった。
それに依拠した研究の行方は想像に難くないだろう。
⑥の『ラサ記録』なるものは、
1912年10月20日付『ニューヨークーアメリカン』紙に
パウルでツユリーマンが寄稿した
「私は、いかにして失われたアトランティス、全文明の源を発見したか」に
もとづくものである。
パウルは著名な在野の考古学者ハインリッヒ・シュリーマンの孫で、
死の床でハインリッヒの託した「封印された包み」が存在し、
アトランティスの秘密を解明する手掛かりを残していたと主張した。
欧米でセンセーションを巻き起こしたが、
のちに「あるジャーナリスト」がもっともらしく見せるため
孫と偽って書いた捏造記事であることが判明している(『失われた大陸』)。
この記事末尾にはル・プロンジョン訳の『トロアノ絵文書』の一節と
チベットのラサの一寺院に伝わった古文書(紀元前約2000年)が引かれているが、
これが「ムーの七つの都市」の出典になっているのである。
⑦の「コハウ・ロンゴ・ロンゴ」は
21世紀の現在でも解読されていない文字である。
こうした出所不明の史料や誤訳・握造記事などに依拠して紡がれたのが、
ジェームズの「ムー大陸」だったのである。
「ムー大陸」は、ジェームズの頭の中にだけ存在する、
まさに「幻の大陸」だったと言えるだろう。
《藤野七穂》
「藤野七穂」
※⑩パウル・シュリーマンの捏造記事
これは有名なスキャンダルで、L・ザイドレル(中山)郎訳)
「アトランチス大陸-大西洋に沈んだ謎の大陸」(大陸書房、1969年)、
ライアンースプレイグ・ディーキャンプ(小泉源太郎訳)
「プラトンのアトランティス」(角川春樹事務所、1997年)にも紹介されている。
ジョン・ブルーノ・エアによると、『ニューヨークアメリカン』紙は
イエロー・ジャーナリズム系タブロイド紙の走りだという。
ザイドレルによれば、パウル自身は実在で、
1914年ドイツで諜報関係の仕事をしていて、
第一次世界大戦中にロシアで死んだとも、
バルカン半島で連合軍に銃殺されたともいわれているという。
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2013年2月27日水曜日
古代史21世紀の研究課題:ムー大陸(虚構)
出典:謎解き古代文明:㈱彩図社・2011年
「写真」ジェームズ・チャーチワード
●若きジェームズ・チャーチワードの軍歴の虚構
誤訳のたびにスケールを増していく失われた大陸の伝説。
しかし、まだそれは大西洋に存在していた。
それを太平洋に持ってきて、
アトランティスとは別の「ムー大陸」に作り上げたのが、
デヴォンシャー生まれのイギリス「陸軍大佐」、
ジェームズ・チャーチワードだった。
ジェームズの著書『失われた大陸ムーー人類の母国』(1926年)によれば、
「ムー大陸=太平洋説」の着想を得たのは、
1868年から1880年にかけてインドで軍務に就いていた期間、
余暇で訪れたヒンズー教の寺院で、高僧から門外不出の『ナーカル碑文』
(ナーカルとは「聖なる兄弟」の意味)を見せられ、
解読の手ほどきを受けたのが発端だったとされる。
しかし、その経歴は虚構である可能性が高い。
軍務に就いたという1868年には、ジェームズはまだ17歳の少年だった。
その少年がはたして軍の隊長として
飢饉の救済活動に従事するようなことがあっただろうか。
余暇を使ったにしても、インドの古寺院を訪れ、
高僧から門外不出の碑文解読の手ほどきを受けることなどできたのだろうか。
ジェームズの長年の親友で、特許事務所を経営していた
ハーシー・テート・グリフィスの著書
”My Friend Churchey and His Sunken Island of Mu(1937)”
『マイフレンドーチャーチーと彼の沈んだ島ムー>』)によると、
ジェームズが「ムー大陸」に踏み込んだのは、
ハーシーの祖母の家でル・プロンジョン夫妻と会ったことがきっかけだったという。
ジェームズはループロンジョン夫妻の話す
ユカタン・マヤの起源にまつわる話に感銘を受けたようで、
何時間も一緒に議論したという。
そこでは「ムー」の伝説も議題に上っただろう。
なにしろループロンジョンの持論であったのだから。
実際にジェームズが研究に没頭するようになるのは、
特許侵害などで本業の鉄鋼関係の仕事が思うように行かなくなった
1910年代半ばになってからだった。
前述の伝記によると、ジェームズはハーシーにこう語ったという。
「私は世界中の歴史資料、太平洋の物質的遺跡・遺物による証拠、
聖なる粘上板と巻物、絵文書、インド古代の聖なる本を原典にしている。
待ってろ。
これは全部組み合わせてムーとその文明の完全像になるんだ!
科学者は今、ひどく無責任に書き下ろしている歴史の本を
書き直さなくてはならなくなるぞ!」
ジェームズは現実から逃避して、
「ムー大陸」の危険な水域に踏み込んでしまっていた。
[ムーのことをずっと考えて暮らしているので、私の一部になってしまったよ。
生まれ変わりは真実だと絶対確信があるし、それだけじゃなくて、
昔レムリアに暮らしていて数千年前の文化の一部だったのも間違いない」
そして1926年、ジェームズが40年間全身全霊を打ち込んだ著書
”The Lost Continent Of Mu, The Motherland of Man”
”(『失われた大陸ムー人類の母国』)と題するハードカバー、
316頁がついにニューヨークの書肆 Willam Edwin Rudge から刊行された。
1931年にはその事実上の改訂版
”The Lost Continent Of Mu”(失われた大陸ムー) が
同じニューヨークの出版社 Ives Washburn から新刊として出版される。
こちらは335頁のハードカバーであった。
これが同社のムーシリーズの始まりだった。
※⑩ジェームズ・チヤーチワードの真の経歴
軍務に就いた時期は、まだイギリスにおり、
1872年のころからスリランカで紅茶農園を経営。
妻子を残したまま、1880年代に渡米。
鉄道関係のセールスマンや技術者をしていたが、
鉄道用品会社を立ち上げ、1890年から特許を取り始める。
鉄道用品の開発からニッケルクロムバナジウム(NCV)鋼を開発し、
製造特許を取得。
1910年までにニューヨークに
チャーチワード・インターナショナルースティール社(デラウェア社)を設立。
第一次世界大戦前後、
ジェームズの発明特許をめぐってUSスチールなど
鉄鋼業界といくつもの訴訟となる。
勝訴したこともあったが、不可解なこともあって鉄鋼業界から「抹殺」され、
17年には失意のうちにコネチカット州レイクヴィルに移り住む
(特許は1922年取得が最後)。
※⑥ジェームズのその後
ジェームズはその後同じ版元から
”The Children of Mu(1931)”
”The Sacred Symboles of Mu(1933)”
”Cosmic Forces of Mu(1934)”
”Sedond Book of Cosmic Forces of Mu(1935)”
の4冊を刊行。
1936年1月4日、ロスアンゼルスでの講演中に倒れ、そのまま死去。
享年84。
遺体はニューヨークに運ばれ、
1月11日、バルハラにあるケンシコ墓地に埋葬された。
墓石上部にはムー帝国の紋章が刻み込まれている。
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2013年2月26日火曜日
古代史21世紀の研究課題:ムー大陸(誤解から生まれた)
出典:謎解き古代文明:㈱彩図社・2011年
「写真」トロアノ絵文書(左)と「ランダのアルファベット」(右)
プールプールやル・プロンジョンらが
「幻の大陸」の手がかりを求めた絵文書は、
実際には儀ネLや暦について記したものだった
●誤解から生まれた「ムー」大陸
地質学的な条件から考えれば、
ムー大陸は太平洋に存在してはいなかった。
では、ジェームズの研究が間違っており、
ムー大陸がどこか別の場所にあった可能性はないだろうか。
いや、残念ながらそれもないだろう。
なぜなら、「ムー」大陸自体がそもそも誤訳の産物であるからだ。
きっかけはフランス公使館付司祭上がりのマヤ研究家
チャールズ・エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブールの誤訳だった。
プールプールは1863年に
スペインーマドリードの王立歴史アカデミアの図書館で、
ユカタン司教を務めたディエゴーデーランダの遺した
『ユカタン事物記』の写本を発見する。
『ユカタン事物記』はスペインの支配下にあった16世紀のユカタン半島の
文化や風俗、言語などを記録したもので、
ランダの手によるマヤ文字とスペイン語の対照表
「ランダのアルファベット」が掲載されていた。
プールプールはこれに長い解説とフランス語訳をつけて1864年に公刊した後、
マドリード大学の古文書学教授から
『トロアノ絵文書』を借用し、解読を試みた。
『トロアノ絵文書』はマヤ文字と絵で構成された古写本で、
その内容は当時、まだ謎とされていた。
当初、プールプールはこの古写本を「地方地主が使う暦の一種」と考えていた。
しかし、
やがてそこにはアトランティス滅亡の話か書いてあると信じ込んでしまったのだ。
ブールブールは読解中、一対のシンボルがたびたび登場することに気がつく。
そのシンボルは「ランダのアルファベット」にあった
「M」と「U」にどことなく似ていた。
プールプールはこれこそ大災害を被った国の名に違いない、
それは「MU」といったのだ、とかなり無茶な断定を下してしまった。
ここに「ムー」誤訳の歴史が始まったのである。
この誤訳にさらなる屋上屋を架したのが、
19世紀フランスの医者兼考古学者・写真家の
アウグストゥス・ル・フロンジョンだった。
ループロンジョンの解読は、
当否を別としてブールブールより多少洗練されてわかりやすくなっていた。
ループロンジョンが1900年に発表した
『マヤ/アトランティス--ムー女王とエジプトのスフィンクス』によれば、
「ムー」は失われた大陸そのものの名前ではなく、
大陸にあった超古代マヤ王朝の女王の名であった。
女王「ムー」はクーデターによって夫を殺され、
ナイル川湖畔に亡命した。
そこで築いたのがエジプト文明で、
亡き夫のために建てたのがスフィンクスだったというのだ。
※⑥チャールズ・エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブール
(1814~1874)
フランス北部のダンケルクに近いブールブール生まれ。
若いころから考古学に関心を持ち、1845年に聖職に就く。
31歳のときメキシコに渡り、
先住民の言語を習いながら貴重なマヤ古文書を発見している。
1857年にヨーロッパに戻ってからは、
余人の追随を許さないペースでマヤ研究を発表している。
※⑦『ユカタン事物記』
フランシスコ会の初代ユカタン司教、
ディエゴーランダ(1524~1579)の著作。
1566年ころに書かれたマヤ民族誌で、
古代マヤの神話・歴史・風俗・社会・文学・暦・
スペイン人による征服・植民の歴史についての記述に及ぶ。
※⑧画像の出典
左:Wikipedia「ムー大陸」
右:『ムー大陸の謎を解く』(大陸書房・1986年)20ページより。
※⑨アウグストゥス・ル・プロンジョン(1825~1908)
ドーバー海峡にあるフランス領ジャージー島生まれ。
パリのエ芸学校を出て19歳で南米に渡る。
アメリカで医者・測量士となり、さらにイギリスに渡って写真術を習得した。
1873年から1885年までユカタン半島を拠点に、
夫妻で遺跡調査と撮影を行った。
75年チチェン・イツァを発掘。
出土した彫像を「チャークモル」と命名した。
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2013年2月25日月曜日
古代史21世紀の研究課題:ムー大陸(ジェームズ・チャーチワード)
出典:謎解き古代文明:㈱彩図社・2011年
「写真」チャーチワードらの主張する「ムー大陸」
はるか昔、
現在のサモアやイースター島、ハワイを覆う超巨大な大陸があったというが…。
●「ジェームズ・チャーチワードのムー大陸像」
それでは、ムー大陸とはいったいどのようなものだったのだろうか。
まずは簡単にジェームズの主張をまとめてみよう。
ジェームズによると、ムー大陸があったのは太平洋の中央部。
島の面積は東西8000キロ、南北5000キロにも及んだといい、
この数字が正しければ、
ムー大陸は
広大な太平洋(面積は約1億7970万平方キロ)の
およそ4分の1を占めていたことになる。
この大陸に人類が誕生したのは、少なくとも5万年前。
最盛期には約6400万の人口を抱え、肌・髪・瞳の色が
異なる10の民族が暮らしていた。
しかし、人種差別などは存在せず、
白人王ラームーを中心に民主的な生活が営まれていたという。
ムー大陸の住民は優れた文化と高度に発達した学問を持っていた。
なかでもとくに建築と航海の術に秀でており、
アジアやヨーロッパ、エジプト、北米、南米の北部に17もの植民地を持っていた。
大陸には7つの大都市があり、神殿や宮殿といった
石造りの建造物が立ち並んでいた。
なかでも首都ヒラニプラは壮観で、象牙や金、銀、錫、
その他「火のような光を放つ不思議な金属」で建物が装飾されていたという。
●「太平洋に大陸はなかった」
では、太平洋にそれだけ巨大な大陸があった可能性はあるのだろうか。
ジェームズはムー大陸に関係する場所として、
太平洋に実在する地名をいくつか挙げている。
そのなかでムーの首都「ヒラニプラ」かもしれないと主張したのが、
ミクロネシア連邦にあるナンーマトル(ナンーマドール)遺跡である。
ナンーマトル遺跡は、
ポンペイ本島の南東に隣接するチャムエン島沿岸の珊瑚礁上にある92の人工島で、
六角形や八角形の玄武岩柱を井桁状に積み上げて作られている。
しかし、1980年代に行われたオレゴン大学による考古学調査によると、
遺跡は500年から1500年ごろにかけて
作られたものであることが判明しており、
1万2000年前のムー大陸とはまったく時代が合わない。
その他、候補に挙がっている場所も同様だ。
チリ領にあり絶海の孤島イースター島もムー大陸と関係がある、などと語られるが、
海洋地質学的な調査によって過去数万年以上にわたって沈下した形跡がないという。
そもそも、ムー大陸が実在したとすれば、
特有の安山岩質からなる大陸地殻が候補となった島々の周辺海域に
沈んでいなければならないが、それも発見されていない。
太平洋の海底にあるのは数千万年前からある玄武岩を主とする海洋地殻であり、
太平洋中央部はずっと海だったのである。
※③ムー大陸と太平洋
ジェームズによると、ムー大陸があつたのは、
現在の地理でいえば北はハワイ諸島、西はマリアナ群島、
南はポンペ(ポナペ)・フィジー・トンガークック諸島、
最東南端にイースター島を含む地域。
ムー大陸は1個の大陸ではなく、
狭い水路で3つのエリアに分かれていたという。
また、ジェームズは太平洋の半分以上を占めていたなどというが、
そこまで大きくはない。
※④ムー大陸と人種差別
邦訳では改訳されているが、チャーチワードの原著には
[白色人種のほかに、黄色や黒い肌の人種もいたが、
彼らに支配力はなかった]
といった人種差別的な記述がある。
ジェームズ自身は白人優越主義者であったと思われる。
※⑤ナンーマトル遺跡
ミクロネシア連邦ポンペイ州にある。
1595年、ポルトガルのペドローフェルナンデスーデ・キエロスが
ポンペイ島を発見したときには、すでに遺跡であった。
ドイツ・日本統治時代に調査が進み、戦後も発掘されている。
島によって行政・祭祀など用途が違っていたと考えられている。
塚田清実「ナン・マドール遺跡」
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2013年2月24日日曜日
古代史21世紀の研究課題:ムー大陸(実在したか!)
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ムー大陸は実在したか!
「写真」トロアノ絵文書
《伝説》
今から1万2000年前、太平洋の真ん中には「ムー」と呼ばれた大陸があった。
その大陸には高度な文明を持つ6400万もの人々が暮らし、
太陽神の化身である白人の王、ラームーの治世の元、豊かな平和を享受していた。
しかし、ムー大陸に突然、終わりが訪れる。
『トロアノ絵文書』にはつぎのように記録されている。
「カンの六年、十一ムルク、サクの月に恐ろしい地震が始まり、
十三チュエンまでやむことなく続いた。
地の丘の国-「ムー大陸」は犠牲の運命にあった。
大地は二度持ち上がり、夜のうちに消え失せた。
地下の火の作用により、大地は絶えまなくうち震え、
各所で盛り上がり、また沈んだ。
ついに地は割れ、十の国々(民族)は四散した。
かくして六千四百万の住民はその国とともに陥没した。
この書を編むに先立つこと八千六十年前の出来事である」
(ジェームズーチャーチワード〈小泉源太郎訳〉『失われたムー大陸』より)
『トロノア絵文書』の解読者で、
ムー大陸の提唱者であるジェームズーチャーチワードによると、
ムー大陸こそ人類発祥の地であり、
聖書の『創世記』に出てくる大洪水で没した土地だったという。
遥か太古の昔に海中に没したという「ムー・大陸」。
本当に存在したのだろうか。
※①トロアノ絵文書
スペイン人の侵略を免れて現代に残るマヤの4写本の1つ。
『トロアノ写本(マニュスクリプト)』とも呼ばれる。
登場する神々の種類からユカタン半島南部で、
先スペイン期末期(後古典期後期。11~16世紀)に作成されたとみられている。
石膏を表面に塗布した細長い樹皮紙を屏風折りにしたものに、
マヤの絵文字で、古代マヤの神々や儀礼、暦や予言のことが記されている。
1869年に刊行されたが、その後、
『コルテシアノ絵文書』の続きであることが判明し、
1967年にフルカラー完全版(グラーツ版)が刊行された。
現在では『卜ロ=コルテシアノ絵文書』(あるいはマドリード絵文書)と呼ばれ、
マドリードのアメリカ博物館所蔵である。
※②アトランティス
1万2000年前に滅びたとされる幻の大陸。
欧米ではアトランティス人気が圧倒的で、研究家に対して。
”アトラントローグ”という呼称さえあるほどである。
『アトランティス伝説』(平凡社、1994年)で位置付けたように、
ムーはアトランティスのエピゴーネンと見られているためだろうか。
《真相》
日本では「失われた大陸」といえばムーとアトランティスが双璧である。
そして、
どちらも同じような超古代文明の繁栄と滅亡を伝えた「伝説」だと思われがちだ。
しかし、両者はだいぶ趣が異なる。
アトランティスが古代ギリシャの哲学者、
プラトンの『ティマイオス』『クリティアス』という典拠を持つのに対し、
我が「ムー」ではプラトンに当たるのが、
19世紀から20世紀にかけて生きたイギリス大のジェームズーチャーチワード。
口承された背景もなく、[ムー]を伝説と呼ぶにはきわめて新しいものなのだ。
※『ムー大陸は琉球にあった!(徳間書店・1991)』
《ムー大陸は琉球にあった!》
「ムー大陸は琉球にあった!」
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2013年2月23日土曜日
古代史21世紀の研究課題:ムー大陸(Wikipedia)
※出典:Wikipedia:ウィキペディア
ムー大陸
「写真」ムー大陸の位置
ムー大陸(ムーたいりく、英: Mu)は、
ジェームズ・チャーチワードの著作によると、
今から約1万2000年前に太平洋にあったとされる失われた大陸とその文明をさす。
イースター島やポリネシアの島々を、
滅亡を逃れたムー大陸の名残であるとする説もあった。
しかし、決定的な証拠となる遺跡遺物などは存在せず、
海底調査でも巨大大陸が海没したことを示唆するいかなる証拠も見つかっておらず、
伝説上の大陸であるとされる。
ムー大陸が存在した証拠として、
イースター島には資源に乏しいにも関わらず
大規模な石造があることが挙げられることもあったが、
かつてのイースター島は森林資源が豊富で、
森林伐採の挙句文明が滅んだことが現在ではわかっている為、論拠に乏しい。
※『ムー大陸は琉球にあった!(徳間書店・1991)』
《ムー大陸は琉球にあった!》
「ムー大陸は琉球にあった!」
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