2013年2月3日日曜日
豊臣政権の嶋津家への敬意(2)
『Yahoo!天気・災害』
※出典:加治木義博:言語復原史学会
《豊臣政権の嶋津家への敬意》
「豊臣政権の嶋津家への敬意」
《スメル8千年》
「スメル8千年」177頁
「図」「邪馬壹国行程明細地図」
邪馬壹国がどこにあったか?という論戦は、
そこに記録された旁国の地名が、
今のどこか?という問題に集約される。
それを完全に行なうと90%以上が鹿児島県の地名に合うから、
この八幡市国=邪馬壹国は、
今後もう絶対に変わることはない。
遣唐使が大半、
薩摩の坊の津を渡航出発港に使っていたことも、
すべて記録があり、
鑑真和上も坊の津に上陸して唐招提寺を建てた。
以後も中国人は薩摩に往来し続けているので、
彼等が自分なりに当て字した、
当時の薩摩の地名が、彼等の地図や地誌に残っている。
『籌海図編』
薩摩
暗字辣=油津
起麻子記=肝属
羊買高=山川
康国什麼=鹿児島
罷里=巴利国
軍車米=根占
先台=川内
審孛署=志布志
大隅 什麼烏思迷=下大隅
日向 多故奴甫治=高鍋津
『魏書倭人章』には、
壹與女王の邪馬壹国ができてすぐ、
その時、
来ていて政局を指導していた張政を帯方郡まで送った後、
さらに足をのばして魏の都まで行ったと記録する。
この時の出発点が奈良県なら、その道程は大変で、
九州北部へ着くまでに、長い日月がかかるから、
その報告が入っていなければならないし、
また、
郡使は伊都国(佐賀)に滞在してすべての指令を出していたと、
詳しく説明してあるのだから、
その指示は往復に大変な時間がかかって、
『魏書倭人章』が書くようにテキパキとは
行かなかったはずである。
またその時、葬られた卑弥呼の墓は、
古墳だったとしても、箸墓古墳ではない。
箸墓は後世の形式「前方後円墳」だからである。
だから「邪馬台国の女王・卑弥呼」という
無知丸出しの言葉を使い、
古墳の時代差も、
帯方郡使の駐留した場所も、
佐賀から奈良までの通信往復に要する日数も、
経費も考えられない頭の妄想が、
どんなに出鱈目なものだったか、
おわかりになったと思う。
真実の歴史のほうは、
本当に奈良に都が移った後の「遣唐船」ですら、
わざわざ薩摩の坊の津まで航海してから船出し、
帰りはまたそこへ戻ったことが、
公式記録に大量に残っているのだ。
邪馬壹国が八幡市国で大隅の隼人に都していたことは、
もうどんなにしても動かないし、
またそうでなければ、
嶋津氏も篤姫も生まれず、
育たなかったのである。
「邪馬壹国行程明細地図」
対馬国→一大(壱岐)→末盧(唐津)→伊都(牛津)→山門→八代→邪馬壹国(姫木)
澣海 玄界灘 松浦川 有明海 球磨川
壱岐 ~松浦川 南船 千余里 55.0km
松浦川~牛津 東南陸行 五百里 27.5km
牛津 ~八代 南水行 十日 82.5km
八代 ~姫木 陸行 一月 150.0km
(km数は大体の目安)
90 余りにも愚かな「邪馬台国の女王・卑弥呼」説
《余りにも愚かな「邪馬台国の女王・卑弥呼」説》
「余りにも愚かな「邪馬台国の女王・卑弥呼」説」
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