2013年2月10日日曜日

アンチ・エィジングと始皇帝の憧れ(1)



 『Yahoo!天気・災害』 

 ※出典:加治木義博言語復原史学会

 《アンチ・エィジングと始皇帝の憧れ
 「アンチ・エィジングと始皇帝の憧れ

 《スメル8千年
 「スメル8千年」213頁



 「絵」

 南九州人は

 隼人(はいと)=海人(はいと)=海幸の名が示すように、

 またアカイヤ=水国(アカ)と呼ばれたように、

 海洋を生活圏とした人々だった。

 お馴染みの小松帯刀は肝付尚五郎というのが本名とされているが、

 当時は肝衝(きもつき)が本当の文字で、

 尚五郎も直五郎と書かれている。

 この肝衝家は『続日本紀』の文武天皇四年(700)の記事に

 初めて肝衝郡(現代の肝属郡)の豪族として、

 他の地域の薩摩比売(ひめ)らと共に

 記録されている古い家柄だが、

 その後次第に勢力を拡大して分家が生まれ、

 大隅の内の浦を領地にした内の浦氏と

 岸良(きしら)を領地にした岸良氏が、

 みな水軍を持っていて、嶋津氏が下向したときには、

 大隅の制海権を握っていた。

 そのころ今の根占(ねじめ)、大根占を持っていたのが

 禰寝(ねじめ)氏で、

 嶋津氏が勢力を拡大し始めた頃

 それに対抗して同盟したり、争ったりしながら

 豊臣秀吉の南九州侵入で嶋津と豊臣が和睦すると、

 嶋津家の家臣に編入されて、それぞれ薩摩に移されたのである。

 これが嶋津家が

 薩摩・大隅・日向を完全に領土とした大体の経緯であるが、

 そのころ禰寝氏は、平家から出ているので、

 一般には不人気の平家の中でも、

 不思議に一人だけ人望のある悲劇の人、

 平重盛の通称『小松の内府(ないふ)』 を

 姓に選んで「小松」に改めたという家伝がある。

 一般に言われる「小松内大臣から」というのは、

 家伝から厳密にいうと問違っている。

 110 天璋院とは天照の国ということ
 《天璋院とは天照の国ということ
 「天璋院とは天照の国ということ

 111 制海権を握る水軍・肝衝(きもつき)氏と、小松家の歴史
 《制海権を握る水軍・肝衝(きもつき)氏と、小松家の歴史
 「制海権を握る水軍・肝衝(きもつき)氏と、小松家の歴史

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