2010年6月8日火曜日

南九州要塞


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    171~172頁

 
 かなり正確な水行時間の古代記録と考えられるものに、

 <延喜式>主計上の<太宰府>への海路30日がある。

 これは10世紀であるから、

 大阪~博多間であるとして大過ないものである。

 この間の距離概数約500km、一日16.7km程度になる。

 これを中世の一般航路である福岡県豊前市に変えると約430km、

 一日14.3kmになる。

 もっとも、この延喜式の記載は、

 それ程厳密なものでないことを心得ておく必要がある。

 それは海路で越前国へ6日。加賀国へ8日。播磨国へ8日。
 という書き方でわかる。

 平安京は京都であるから、

 播磨を姫路あたりと見て約110km、

 8日だから一日12kmということになる。

 これは古記録を現代の尺度や習慣でミクロ単位で考えたり、

 一致させようとする愚を教えているのである。

 船旅の日数などというものは、現代でも不安定なもので、

 距離測定結果のようには扱かえない。

 しかし、そんな数字でも大体の目安は得られる。

 一日12kmから16~7kmぐらい、が10世紀の水行だったのである。

 これは帆船があったことの明瞭な遣唐使以後であるから

 帆船を使用したことは間違いないが、

 より確実な帆船の航行記録が手許にある。

 コースは逆だが地理的に九州を南北に航海しているから、

 念のためそれを見ておこう。

 慶長2年の第二次征韓役の際のものである。

 島津義弘は十一反帆船を使って、

 鹿児島県の川内川河口を3月18日出帆、

 熊本県の佐志津、長崎の樺島、平戸、壱岐の勝本などを経て

 4月19日に対馬に着いている。

 この間32日。北上する対馬海流を利用しての400kmの水行である。

 一日12.5km。十一反帆といぅのは大型帆船であり、

 さらに海流に乗っている。

 このことから逆算して延喜式の船が帆船であったことは

 充分証明できる。

 では倭人の方はどうか?

 <牛津>~<八代>間は85kmほどであるから一日平均8.5km。

 10世紀、16世紀末という時代差の割には速度の差は小さく、

 また潮汐流、食糧、泊地の不便といった要素に

 支配される部分の大きい当時の旅を

 考えにいれると、

 船の速度そのものは殆んど差がなかったと考えられる。

 倭人達は原始的なものであったにしろ、

 有明海でも帆船を用いていたのである。

 統一邪臺国は世界にも比類のない素晴らしい水路をもっていた。

 しかもその水路は幾重もの大半島や島々に囲まれ、

 外敵の不意の襲撃を恐れずにすむ交通路である上に、

 外部は強力な海流が北からの敵軍の南下と、

 西の大陸からの侵攻を防いでいる。

 邪馬臺国が東夷中唯一の統一国家を形成し、

 卑弥呼がその盟主たり得た条件の一つに、

 この難攻不落の一大天然要塞としての地の利が、

 大きく働いていた事実を見逃してはならない。

 「コラム:(征韓録)伴信友 手沢本 末尾頁」

 このあとに一頁、ぎつしりと彼の自筆の批評、考証が加えられ、

 史家信友の面目躍如たるものがある。(筆者所蔵)


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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