2010年6月14日月曜日

倭と卑弥呼は同語源(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    186~191頁

 少々唐突だが次の各語は鹿児島弁を

 御存知の方には注釈の要はないと思う。

 他の方々は( )内の標準語と対比して戴きたい。

 ① ジャーオー(行け、行こうという意)

 ② チャラージャーオー(御飯嫌よう、さよなら、行こう)

 ③ チャロ(サロケ「歩け」の幼児語)

 ④ コンターチャウダ好ンドカイ(これが丁度よかろうか?)

 ⑤ 心配ナカロー(心配いるまい)

 ⑥ ジャナヒ(では無い)

 ⑦ アッデヤー(如何にも、宜しい)

 ⑧ ケッチ悪ルワーナヒ(決して悪くはない)

 ⑨ ハーンハーン(成る程、成る程)

   シヤーヤッドアイサーヘー(多分その通りのようです)

 鹿児島弁におくわしい方々、いかがであろうか。

 わずかだが、筆者の発音描写に怪しいところがある、

 とお思いになったはずである。

 それもそのはずで、

 これは鹿児島弁ではなく

 現代インドの標準語(ヒンドスターニー)だったのである。

 少々あやしいのは、我慢して戴くほかない。

 ④ 好ンドは「パサンド」。

 ⑤ 心配は「シンクル」。

 これは注意をしてみると、

 心配という文字そのものが、

 シンクパルであり、シンクルに対する当て字で

 あったことがわかる。

 なぜなら私たちが使う「心配」の本当の内容は、

 単なる心(こころ)くばりではなく、

 もっと深刻なもの「心狂う」を指しているからである。

 ⑦ 悪ルワーは「パルワー」。

 これも今はP音の消えた日本語も昔はP音があったこと、

 <ハ>と<ワ>は今も同じように使われていることで、

 元は一つだったことがわかるのである。

 考えてみて戴きたい。
 
 少くとも二千年近く前に分離した人々が、

 それぞれ全く異った環境の中で別方向へ変化しながら、

 なおこれだけの共通のものを貯わえていたのである。

 話題が鹿児島にあるため鹿児島弁だけを御覧に入れたが、

 シャー(そうだ)は関西弁だし、

 パカロー(捕らえろ)はパクルと同源だし、

 トゥムハーラー(友人)が友輩(ともばら)であったことは

 一と目でわかるし、

 ウタターが(起きる)であることは

 「うたた寝」や鹿児島弁の

 「うっ起(た)つ」の語源であることなど、

 それはそれで別に大冊の共通語辞典が作れるのである。

 もうすでにお気づきの通り、

 パーリ語の「愛」<ペマカ>が<卑弥呼>の

 語源だということに対する抵抗を、少なくするのが目的であった。

 これで<ペマカ>だけでなく、

 現代語にすら共通語が多数実在するということで、

 かなり信頼度は高まったと思う。

 しかしそれだけではないのである。

 混合民族であった倭人は、

 パーリ系人が<ペマカ>と呼び、

 原鹿児島人が<ヒメコ>と呼び、

 原沖縄人が<フィミクヮ>と呼んでいた時、

 「アイ」とその短音「エ」と呼んだ人々も居た証拠がある。

 なぜなら、卑弥呼の名に相当するとするほかない

 「愛」の名をもった山陵が

 鹿児島県内にあるからである。

 川内(せんだい)市にある<可愛(エの)山陵>は

 明治7年になって決められた本来は

 <亀山>と呼ばれていたものである。

 同じく川内市水引町五台の中山々頂には巨岩が二個あり、

 左右に<川合陵>、<端陵>と呼ばれる<陪塚>にあたるものがあり、

 明治以前はこれが<可愛山陵>と信じられて来た。

 筆者がこちらを採る理由は<川合>の<カアイ>は

 <可愛>の<カアイ>と同音であること、

 <端>の<ハタ>の音は<秦>の音と一致することで、

 私たちの言語復原史学を知らなかった人々が、

 こうした名前のセットになったものを保存しているのは、

 これが「愛」の陵であるという事実を

 裏書きしていると考えるほか、

 考えようがないからである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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