2010年6月16日水曜日

倭と卑弥呼は同語源(2)

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
186~191頁
 

  さらに<卑弥呼>がパーリ語の<愛>であるという語源を

 全く知らなかった江戸時代の古代史家、
 
 鶴峰戊申が卑弥呼を熊襲国の女王として

 大和の神功皇后に似せた姫尊(ヒメミコト)と

 名乗った者としながら、

 この可愛山陵を彼女の塚である、としている。

 キメ手になるものを持たずに、

 ただその大体の地理条件から邪馬臺国の位置を

 大隅か薩摩のうちにあると見抜き、

 必ず塚や城柵のあとが遺跡として残っているはずだとして、

 この山陵を見出したのであった。

 しかし、この山陵は卑弥呼の墓としての伝承はもっていない。

 <可愛山陵>と書いて<エノヤマノミササギ>と読まれ、

 延喜式の治部省諸陵寮の条には、

 筆頭に「日向埃山陵」と書かれている。

 <埃>は<エ>で、愛(アイ)の短音化した<エ>に

 <埃>の字を当てたものである。

 <愛>を<エ>と発音する例は、滋賀県の愛知川をエチ川と発音し、

 記の国生みの段の「好(エエ)男、好女」が愛意登古(エオトコ)、

 愛意登売(エオトメ)と
 
 書かれているなど幾らでも挙げられるが、

 この陵はニニギの尊のものとされているのである。

 延喜式では続けて

 「天津彦彦火瓊瓊杵尊。在日向国。無陵戸」とある。

 神代三山陵の筆頭として皇室の最も尊崇厚かるべき

 天孫降臨の天孫その人の墓が、

 延喜式の当時すでに墓守りさえ居ないという矛盾が見られる。

 ここで注意を要するのは、

 <エ>の音だけでなく、<アイ>の音があったことが、

 <川合>という用字ではっきり立証されていることである。

 この陵は山頂にあり、山はどの山でも必ず周囲は谷で、

 常に川に挟まれているのであるから、

 この陵の<川合>は特に川やその合流点を示していない。

 これは<カアイ>という発音に対する、

 ごく自然な当て字と見るのが妥当である。

 では<カアイ>とは何を意味するか。

 <愛>を<アイ>と発音するのはいうまでもなく

 漢民族系の人々である。

 その中国と日本との共通習俗の一つに、

 親愛の情をあらわす一法として相手の名または代名詞に

 阿の字を冠する習いがある。

 オ花、オ母、オ前など、よく御存知の通りである。

 だから愛は「阿愛」であった。

 この<阿>は多くの例で<カ>とも発音されていたことが

 明らかになっている。

 中国式に読むと<アアイ>だが、

 日本式では<オアイ>、

 沖縄式では<ウアイ>となる。

 この<オアイ>と<ウアイという

 二た通りの発音のままの地名ならびに姓が、

 鹿児島には非常に古くからある。

 それは「上井」と書かれ、

 これが姓として呼ばれる時は敬称の殿をつけて

 「ワッドン」と聞こえる。

 このッは助詞の「津」であるから

 「ワの殿」であり「倭の殿」または「和の殿」という

 形を示している。

 この<倭>は、北京音では<ウェイ>であって

 <上井>とピッタリ一致する。

 <上井>を<ウェイ>とよむのは本州弁で、

 鹿児島では<ウアイ>または<オアイ>と発音する。

 さらに<倭>の<ウェイ>と同音には<隈>、<尾>などがある。

 <隈>は和音<クマ>で、

 川内市の古い中心になった隈(くま)之城と一致し、

 <尾>は倭の沖縄音<ゥオ>と一致する。

 <クマ>が<日>の一音であったことはすでに見たから、

 ここでも<愛>と<日>は<姶良>の<アイ国><アヒ国>と同じく

 固く結びあっていたのである。

 中国系のある人々は<卑弥呼>を自らの言葉で<阿愛>と呼び、

 やがてそれに<倭>の字をあてた。

 それがまた多くの同義語と当て字を生み出して行った証拠が

 ずらりと整列して見られるのである。

 「写真:卑弥呼の名をもつ日本最古の山陵」(川上正治氏撮影)

   鹿野島県川内市の可愛山陵の遠望。

 「図:現代語の相互関係(模式図)」(加治木原図)

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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