2011年5月28日土曜日

かぐや姫ロマンの泉「月の世界」の真相


 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 267~290頁
     ㈱徳間書店
           日本国誕生の秘密






 「赫夜姫のふるさとはどこか?」

 赫夜姫は「竹」から生まれたというお話になっていますが、

 それは出身地を指す「たとえ」であるとみると、

 「タケ・タカ」のつく国が故郷だということになります。

 どこがその「タカ=竹」に当たるのでしょうか?

 南九州の地名を調べてみますと、

 薩摩半島の近くに高城(たき)、

 高尾野(たかおの)、武(たけ)(=鹿児島市ほか)があります。

 だが高句麗から沖縄への位宮の足取りを考えてみますと、

 現在と違って航空機で直行するわけにはいきませんから、

 旅の途中、食事や、暴風を避けるために、

 あちらこちらに寄港しながら、島づたいの長い航海の末、

 ようやく沖縄へたどりついたと考えるしかありません。

 だが彼が高句麗脱出後、

 狗奴国男王として現われるまでわずか3年で、

 意外に時が経っていないのです。

 この速度は陸路では無理ですから、

 彼は魏と同盟関係にある卑弥呼の倭(ウワイ)連邦の

 九州本土には上陸せずに、

 海路を真っ直ぐ沖縄へ向かったことが確認できるのです。

 すると、鹿児島県本土の「高」のつく地名は、

 彼が連邦政権を握る以前には関係ありません。

 そこで赫夜姫に出会うことはないので

 鹿児島県本土は彼女の故郷ではありえません。

 彼女の出身地は海上、

 位宮が立寄った島々のうちのどれかだということになります。

 朝鮮半島の東200キロメートルほどの日本海には

 島根県の竹島があります。

 位宮は西の中国から攻めてきた魏の大軍に押されて、

 鴨緑江沿岸にあった高句麗の都を捨てて、

 東沃沮の東海岸から船で落ちのびたのですから、

 逃げる道は日本海しかなく、この島に寄った可能性はあります。

 しかしこの竹島は全く人の住めない岩礁ばかりの無人島ですから、

 候補地にはなりません。


 「限定条件「天からの迎え」」

 赫夜姫の出身地探しには一つの限定条件があります。

 それは彼女は

 「天から下ってきた車に乗って、天に連れて行かれた」

 ということです。

 迎えは「天=沖縄」から来たのですから、

 位宮はすでに沖縄にいたのです。

 とすれば赫夜姫の出身地は、

 もっと沖縄に近い位置になければなりません。

 この条件に合う位置に、もう一つ「竹島」という島があります。

 鹿児島県薩摩半島の開聞岳の南にあって、

 鹿児島都三島村に入っている人口200人足らずの小島です。

 古語の「島=シマ」という言葉は、

 「……の国」を意味するもので、

 漢字で書くと「之=シ、国=マ」と一致しますから、

 一つ一つの島が国であったころの名残だと考えられます。
 
 古代には、竹島は小さくても独立した自治体で、

 「タケの国」だったことは間違いありません。

 また彼女が玉依姫として育てられた種子島も近くです。

 またその島のはるか南にも、

 「タカ」という名をもった島が一つあります。

 それは吐喝喇列島の中心「宝島」です。

 「タカラ」と「タカ」とは違いますが、

 語尾についている「ラ」は古代日本人が「国」のことを、

 「ラ」や「マ」などと呼んだうちの一つで、

 それには次のような呼び方があったことがわかっています。

 「ラ・マ・ヤ・ナ」と、

 この発音が訛った「ダ・バ・イ・ネ」があり、

 クニの訛った「ギ・グニ」などがあったことも、

 全国の地名の比較分析で今では完全にわかっています。

 「タカ・ラ」は、

 新羅・加羅・百済・平良・太良・姶良・一良などと同じく、

 国を意味する「ラ」という言葉を、

 「タカ」の後につけたもので、

 「タカ国」という意味ですから、

 純粋な名はl「タカ」だったことがわかります。

 赫夜姫の出身地である「タケ・タカ」としては、

 この島も沖縄と種子島に近いし、諸条件もよく揃っています。


 「竹取りの翁は何を意味するか?」

 『竹取物語』の作者は10世紀の日本最古の百科辞典

 『倭名類衆抄(わみょうるいじゅしょう)』の

 著者・源 順(みなもとのしたごう)で、

 いま残っているのは「かな書き」ですが、

 始めは漢文だったものを

 「かな草紙」に直したものだという説があります。

 しかし私たちがみてきましたように、

 この物語は「完全な創作」ではなく、

 もとになる歴史事実があって、

 それが7世紀もの永いあいだ語り継がれてきたものを、

 舞台を平安時代におきかえて、

 面白おかしい「おとぎ話」に、まとめあげた作品です。

 もとの史実とは無関係に登場者を貴族にし、

 都ぶりの風俗描写を入れ、

 ヒロインも当時流行の「才女」ぶりを発揮することが

 必要だったということになります。

 しかし史実の壹與は13歳ですから、

 大学者もどきに難題を持ち出すわけがありません。

 こうみてきますと、この貴族趣味の部分は完全な脚色で、

 史実とは関係がないことがわかります。

 では

 「竹取りの翁が竹藪へ竹を取りに行って、

  光り輝く竹を見つけ、その中から美しい女の子を見つけて、

  連れ帰って育てた」というのも、脚色なのでしょうか……?

 この部分は、

 求婚者の華やかな顔ぶれと比べて余りにもお粗末で、

 貴族趣味とは逆です。

 なぜそんなものが、

 まぎれこんだのかという感じさえするほどですが、

 実際にはそれがなければ

 『竹取物語』は成立しないほど重要な部分なのです。

 これは改作者が削りたくても削れなかった史実のもっていた

 「原型」であるという証拠だといえます。

 宝島付近の南西諸島は、

 従来、物干し竿に使ったマダケのない地域です。

 だが、直径三センチていどのコサンダケと呼ばれる

 細い竹が自生しています。

 その竹の子はたいそう美味しいものです。

 成長したもので竹篭や、魚籠(びく)や、市女笠など、

 いろいろな道具が作れます。

 ですから竹を取るのを職業にしていた老人がいたとしても

 不思議ではありません。

 しかし、この説話の一つのモチーフである「竹」は、

 「タカ」と呼ばれた人たちを暗示しているのですから、

 「竹取の翁」も、

 単に「竹を取るのが職業の老人」だけで

 説明済みというのは間違いで、

 その名に隠された何かがきっとあるはずです。

 竹は「タカ人」を意味しているとすると、

 それでは「取りの翁」は何を意味するか?と考えてみましょう。

 「取り」は、鹿児島で方言化している古い言葉

 「統領=トリュ・トユ」という敬称に似ていますから、

 これを代入してみますと「タカ人の統領である翁」になって、

 意味がよく通じる名詞になります。

 また「竹取」は音読すると「チクシユ」。

 九州の古名「筑紫(ちくし)」に「ユ」を

 プラスした形になっています。

 「ユ」は「ヨ」の沖縄発音で壹與の與も「ユ=王」でした。

 そこでこれを使って「筑紫與」と書くと、

 その意味は「筑紫王」。

 これは誰のことでしょう。

 壹與は間違いなく邪馬壹国女王、

 すなわち卑弥呼の後を継いで、

 九州連邦の女王になつたのですから、

 「筑紫女王」と呼ばれていて当然です。

 その彼女の出世物語を、

 伝承した人々が「チクシ・ユ物語」と呼びならわしていました。

 それにだれかが「竹取物語」と当て字したとすると、

 その名がもとになって、

 養父は「竹取の翁」であったという連想を生んで、

 赫夜姫は竹の中から生まれた、

 という突飛な想像にまで発展した可能性もあります。

 また、沖縄では「時代」のことを「世(ユ)」といいますから、

 「ユ」を世に変えると、

 「筑紫世」すなわち「筑紫時代」という意味になります。

 これは天皇家の先祖が九州日向にいた時代のことですから

 『古事記』『日本書紀』の「神代」を意味することになります。

 『竹取物語』のもとの真意が

 「筑紫世物語」=「日向物語」だったとしますと、

 それには、この壹與=赫夜姫の出世物語だけでなく、

 このほかにも、

 まだたくさんの話が含まれていた物語集だったはずです。

 桃太郎や浦島太郎もそうかも知れませんし、

 「日向神話」もそうかも知れません。

 『竹取物語』の名が何を意味するか?

 と深く考えますと、

 これまで考えられていたような、

 単なる「おとぎ話の、単純な題名」だけではなさそうです。

 思いのほか重要な、大変な名らしい。

 ということがおわかりいただけたと思います。


 「筑紫女王の父・竹取りの翁」

 次は「翁」ですが、

 あなたはこの「翁」を何とお読みになるでしょう……?

 これまでお話しした

 「名乗りと地名」の関係を

 しっかり理解していただいているあなたには、

 もう答えがおわかりになっていると思いますが、

 もう一度、説明しておきましょう。

 沖縄(オキナー)と翁(オキナ)は、

 語尾を引っ張るかどうかの違いだけで、ほとんど同じ発音です。

 それだけなら単なる「他人のそら似」ですが、

 沖縄本島と対応する奄美大島も、

 古代には「大之国=大国」ですから「大=オウ、国=ナ」で、

 「国」を「ナ」と発音するインド系の沖縄人なら

 「オウナ」と呼び、これも嫗(オウナ)と一致します。

 「翁」と「嫗」というペァになった名詞が、

 この島の名でもペアになっているのですから、

 これは決して「他人のそら似」ではありません。

 この見事な対応は、オキナ、オウナという日本語は、

 これらの島々を自分たちの

 「祖父母」と信じた人たちによって作り出されたか、

 または逆にそれを島の名として名づけたか、

 どちらにしてもこの地域で生まれた

 日本語だったことは間違いありません。

 この大島には「奄美(あまみ)」という限定地名がついています。

 これは無意味なものでしょうか?

 翁と嫗は領地を表わしていますから、

 翁は沖縄の王、

 嫗は大島の女王として引き離されたことを

 意味しているとすると大島の嫗は、

 翁のいる沖縄のほうを毎日なつかしがって見ていたことでしょう。

 沖縄は前にお話ししました通り「大天」ですから、

 嫗は毎日「天を見る」すなわち「天=アマ・見=ミ」で、

 奄美は後世の当て字だということになります。

 こうしたことがわかればわかるほど、

 この島々の歴史と『竹取物語』の関連の深さが明瞭に見えてきます。

 ところがこれを京都で説明しようとしてもすべて無理ですから、

 原話はどんなにしても、

 京都で発生した事件とみることはできないのです。


 「王と女王になった両親」

 次はこの答えからさらに歴史を復元してみましょう。

 沖縄が「翁」という人称代名詞になるには、

 この有名な「竹取りの翁」が、沖縄王になる必要があります。

 彼は姫と一緒に沖縄へ行き、

 娘と狗奴国男王が卑弥呼の倭人連邦政権を

 「征伐」に行った時、

 後に残って沖縄の王になったということになります。

 また奄美大島が「嫗」という人称代名詞になっているのは、

 翁の場合と同じ理由で、

 母の嫗が奄美大島の女王になったことを

 示していることになります。

 しかしそれは、この段階ではまだ「仮定」にすぎません。

 それを仮定でなく真実にできる別の証拠があるでしょうか?

 それがあります。

 それは日本人がいまも慣習として大切にしているものなのです。

 日本には古来

 「女、氏(うじ)なくして、玉の輿(こし)に乗る」という

 諺(ことわざ)があります。

 この「赫夜姫=壹與」のお話は、

 まさにその通りであったようにみえます。

 そればかりか単に娘が

 「玉の輿」に乗っただけでなぐ両親まで沖縄王と

 奄美女王に封ぜられたことになるとすれば、

 これは希にみる「目出度い」ことです。

 それがどれほど素晴らしい幸運なお話として

 日本中に伝わったかを、現代まで伝えている物があります。

 それは「尉(じよう)と姥(うば)」として知られる人形や絵です。

 箒(ほうき)と熊手を持った老夫婦が、

 島を象徴する州浜(すはま)の上に立っている姿は、

 非常にお目出度い象徴的な飾り物として、

 今もなお、結婚式などの伝統的儀式には、

 なくてはならぬものとされています。


 「『高砂』の起源と読み方」

 また、日本式の結婚式には欠くことのできないものに

 『高砂(たかさご)』という謡曲があります。

 そこでも翁と嫗が

 「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」と呼ばれて出てきます。

 『竹取物語』と『高砂』。

 この二つの関係を調べてみましょう。

 謡曲『高砂』は世阿弥(ぜあみ)という名で知られている

 観世元清(足利義満らに仕えた観世流二代目=1443(?数説あり) 年没)の作で、

 始めは『相生(あいおい)』という名でしたが、

 いつか謡い出しの「高砂」の方が題名として有名になったものです。

 その、あらすじは、肥後(熊本県)の住人の一人の神官が、

 高砂の浦で老人夫婦に出会って、

 高砂の松と住吉(すみのえ)の松とが、

 なぜ相生の松といわれるのか、その由来を教えられます。

 そこで神官は、その有名な

 「高砂や、この浦船に帆をあげて……」という謡の通りに

 高砂の浦から船出して、

 住吉の滴に「早や、住吉に着きにけり」と到着すると、

 前の老人が住吉明神になって現われ、

 美しい月光を浴びながら太平の世を祝う舞を舞って、

 次第に消えていく。

 という大層、夢幻的で優雅なものです。

 今、高砂の尉と姥として飾られている人形や絵は、

 この能の装束(しょうぞく)を写したものが多いために、

 日本人の思考はこの謡曲で中断してしまって、

 全て世阿弥の想像の産物だと思いこみ、

 それ以上の追究をやめていたきらいがありました。

 しかし詳細に、この謡曲『高砂』のモチーフを分析してみますと、
 
 世阿弥は創作者ではなく、彼は古くから伝わっていた伝承を、

 香り高い文芸作品に仕立てあげた

 「脚色者」だったという事実がはっきりします。

 この「高砂」は現在の兵庫県高砂市のことだと思われていますが、
 
 伝承が生まれた当時の高砂は、

 『桃太郎≡竹取物語』の老夫婦がいた

 「タカの国」でなければなりません。

 「タカの国」と「タカ砂」とを比較してみると、

 砂を「サゴ」と読んだのでは答えは出ないが、

 「スナ」と読んでみると、何と、ぴったり一致するのです。

 日本の古語の特徴の一つに

 「ス」と「ツ」の区別がなかったことがあります。

 だから古代には「スナ」と「ツナ」は同じ言葉だったのです。

 また「ナ」は国のことですから、

 「ス国」と「ツ国」、は同じです。

 これを「高の国」と比較しますと、

 助詞「の」に当たる古語は「津=ツ」ですから、

 「ス国=ツ国=津国」と、謎がほぐれてきます。

 高砂とは「高津国(タカズナ)」という発音に対する

 別の当て字だったのです。

 この「高津国」は仁徳天皇の皇居が

 「高津の宮」と呼ばれたことと関係があります。

 その宮は大阪市にあったとされますが、

 大阪には「住吉」もあります。

 ところが高津の宮は上町台地という高台にあって、

 そこから住吉へは船では行けません。

 だから大阪の地名は後世に南九州から幾つもがセットになって

 大阪へ、一緒に移動してきたものです。

 だから「高砂」はなくて「高津」しかないのです。

 もちろん兵庫の高砂も大阪と同じく移動した遺跡なのです。


 「『高砂』はなぜ目出度いのか?」

 ここでその謡曲『高砂』の主題は何か? 考えてみましょう。

 それはもとの名が相生だった通り、高砂の松と住吉の松とが、

 「相生」であるということが中心になっています。

 「相生」とは一体、何のことでしょう?

 「相」という字にはいろんな意味がありますが、

 この場合は「相手」とか「相身互い」とかいう、

 相対する状態をいっています。

 だから相生とは

 「同じ場所に相対して生えた(松)」という意味です。

 ところが実際には、

 その松は、高砂と住吉にわかれて別々に生えていた。

 だからこそ肥後の神官は

 「なぜ別々に生えているのに相生の松というのか……?」と疑い、
 
 老夫婦は、その疑問に答えたのです。

 その答えは、非常に目出度いとされるほどですから、

 「別れ」という悲劇を吹き飛ばす内容をもっていなくてはなりません。

 それは、今は別れ別れになっていても、

 もとは一つ、心も何時までも一つだから、

 それで「相生」の松というのだ、という以外にありません。

 それはまた、その老夫婦の身の上でもあって、

 二人は「松の化身」でもあることがそれとなく暗示されています。

 しかしそれだけでは実のところ、

 なにが「非常に目出度い」のか、まだよくわからないと思います。

 『高砂』は、離ればなれになっても、白髪の老人になっても、

 なお愛情は変わらないことを「相生」という言葉に掛けて、

 「あい(愛)」と「おい(老い)」の

 美しさ、悲しさを歌ったもので、

 厳密にいえば、そこには「目出たい」という要素はありません。

 前に見た通り、この老夫妻が目出たいとされる理由は、

 「娘が玉の輿に乗って筑紫の女王」になり、

 両親もまた、それぞれ「沖縄と奄美大島の王と女王」として、

 白髪の老人になるまで、

 末永く栄えたという点以外には見つかりません。

 ところが世阿弥の『高砂』では、

 かんじんのこの部分が抜けています。

 だから何が目出度いのかさっぱりわからない。

 わからないのに世間では

 この『高砂』を目出度いものとしてきました。

 それは当時の人々がもとの話を

 よく知っていたという証拠なのです。

 だから世阿弥は周知のことを

 今さら詳しく物語る必要はないと思っていたのです。

 「絵:高砂(たかさご)」

 伝統工芸「和紙押絵」継承者:加治木花象作「高砂」屏風による。

 足もとには従来の州浜(すはま)の代わりに

 沖縄と奄美大島の地図を措き加えて、

 オキナとオウナの語源が平に見えるようにしてあります。


 「「住吉」の名の語源」

 嫗を特定している「住吉」とは奄美大島でなければなりません。

 しかしなぜそれを「住吉」と名づけたのでしょうか……?

 奄美大島の地名を調べてみますと

 「住用村=スミヨーそん)」という村があります。

 「村」の代わりに「之国」をつけると

 「住用之国=スミヨシ国」になるので

 住吉はこれに対する当て字です。

 では「スミヨー」は何を意味するのでしょう?

 古代日本語にはスとツの区別がなかったことをお話ししましたが、
 
 これを「スミ」にあてはめてみますと「ツミ」になります。

 「ツミ」は『記・紀』に「津見」「積」「祇」という

 当て字で出てきます。

 ワタツミ=綿津見・海津見の神、

 オオヤマツミ=大山積・大山祇の神、などと書かれていて、

 それは山幸彦が訪れた海神国を始め、

 日本神話の神名、ことに海神の首長クラスについていますので、

 海人の王を意味する敬称だとされています。

 そうだとすれば「津見」は文字どおり「津=港・海」を

 「見る=監視する。支配する」という

 意味の官名だということです。


 次は「ヨー」ですが、

 古代の「ジョ」が後世「ヨ」に変わったことを先にお話ししました。

 「ヨー」は古くは「ジョー」と発音された音なのです。

 壹與の與が「ジョー」に対する当て字で、

 「嬢・女王」を意味することも、すでに確認しました。

 以上を考えあわせますと「スミヨー」は

 「津見の女王=海・港を支配する女王」という名になります。

 これは「住吉の大神」が古来「海の守護神」として、

 漁業や船舶関係者に崇拝されている事実と完全に表しますので、

 住用は間違いなく住吉の語源だったのです。

 「住用」が「住吉」になったのは、

 南九州語の「良う」は大阪語の「良し」ですから、

 神として祭られた場所によって変化したのです。

 でも「嫗」自身は奄美大島の支配者として、

 「海=ワタ、津=ツ、女王(メ)=ミ」と呼ばれて、

 住用を都として住んでいたのです。

 これで赫夜姫だけでなく

 『竹取物語』に登場する人々の全貌がわかりました。

 これはあなたにとっては、

 思いがけないものだったかも知れません。

 中には私の分析は「我田引水」過ぎる、

 と批判的な方もおいでになると思います。

 しかし、

 それはページ数が限られているために多くの説明を

 やむなく削って省略したからなのです。

 もっと詳しい充実した証拠をお読みになりたい熱心な方は、

 どうぞ私の他の著書をお読みください。


 「「月の世界」とは何だったのか?」

 お話が固くなりましたので、

 この章の最後はまた夢のようなお話に戻りましょう。

 それは脚色に使われた

 「月の世界」「月の宮居」という考えが、

 なぜ取り入れられたのか?……

 その知識の源はどこか?

 といったことです。

 実は位宮は「月」とは切っても切れない人物なのです。

 彼は八俣大蛇(やまたのおろち)=天照大神=卑弥呼を倒した

 政権の王なのですから「スサノオノミコト」に当たります。

 『古事記』にはそのスサノオは、

 天照大神が父から天の仕事をあてがわれたのに、

 彼は「海原を治めろ」といわれて、

 気にいらないで命令に従わずに泣きわめき、

 「僕は[根の国]に行きたい」とすねたので、

 父は怒って追放してしまったと書いてあります。

 これを位宮の史実と比較してみると、

 海原は海の中の国、すなわち沖縄で、

 位宮の名乗り「琉球王」に一致し、

 「根の国」は地下の「暗い国」すなわち

 「クライ=高麗、黒の国=北の高句麗」に一致します。

 スサノオはまた別の部分で

 「韓=カラ=インド語で黒」へ行って戻ってきた神だとも

 書いてありますが、これも位宮にぴったり一致します。

 ではなぜ「月」なのでしよう……?         

 『古事記』ではスサノオが海原を治めろと命令されたとき、

 もう一人「月読尊(つきよみのみこと)」という兄神がいて、

 彼は「夜食国」を治めよと命令されて

 月の王になったと書いてあります。

 この不思議な名の国はどこにあるのでしょう?

 これは当て字ですから別に

 夜食専門の深夜営業店なんかではありません。

 万葉ガナと同じことで、

 「夜=ヤ・食=クウ」と読みさえすれば

 「屋ヤ・久ク・王ウ」だとすぐわかります。

 彼は屋久島の王になったのです。

 『備後国風土記』の「疫隅国社」の話が元になって、

 彼は別名「疫(え)の神」と呼ばれていますが、

 これはいいかえれば「疫病神(やくぴょうがみ)」のことです。

 「疫(やく)」と「屋久(やく)」で、

 これは「屋久の王」がもとになってできた

 悪名だとすぐわかります。

 さらにこの屋久は古くは「邪久」と書かれています。

 7世紀の唐代より前には「邪」は「ジャ・ジォ」と

 発音しましたから、

 「天の邪鬼」の「ジャク」もこの名から出ていますし、

 3世紀当時の「邪久」は「ジキュウ」への当て字で、

 今の鹿児島語でも「琉球」のことを「ジキュ」と発音します。

 おわかりのように「月読尊」とスサノオは同一人で、

 「琉球王」位宮の説話が分裂して

 二人の神に見えたものだったのです。

 「月の満ち欠けを読む」のは海の大潮・小潮を予知することで、

 それは「海原の神」の仕事です。

 山幸彦はその力を得て海幸彦を倒しました。

 その月読みの神の宮殿が「月の宮居」と呼ばれるのは

 少しも不自然ではありません。


 「月の世界に逃げた天女」

 月読尊はまた「大月姫」という女神を殺します。

 この女神も調べていくと天照大神と同じになります。

 天照大神は二度も別の神に殺されたわけではありませんから、

 これは一つの話が分裂しているのであって、

 やはり月読尊とスサノオは同じということになります。

 こうして検算すればするほど、

 位宮は「月の世界」の王だったのです。

 しかしその世界と『竹取物語』の描写とは同じではありません。

 それが物語として完成された平安時代には、

 中国からいろいろな知識が入ってきていました。

 前漢時代に淮南(ワイナン)王・劉安(リュウアン)が編集した

 『淮南子(えなんじ)』に、

 月宮殿を舞台にした有名なお話が収録されています。

 中国最古の「夏」王朝時代。

 「有窮(ユウキュウ)国」の王「羿(ゲイ)」が、

 食べると不老不死になるという天の桃が欲しいと

 女神・西王母に頼んだところ、

 嫦娥(ジョウガ)という天女がとどけることになったが、

 嫦娥はそれを自分で食べて月の世界に逃げてしまった、

 というのです。

 中国では嫦娥は月の別名になっていますし、

 これをもとにしたお話もたくさんあります。

 その中には『聊斎志異(りょうさいしい)』の中の

 [嫦娥]などのように、その罪で地上におろされていた嫦娥が、

 その期限がきてふたたび月世界へ呼び戻されるといったものも多く、
 日本の『羽衣』などもやはり天上で罪を犯して地上に降(くだ)り、
 
 期限が来て天へ戻る話の一種なのです。

 先の物語で注意がいるのはその「有窮国」という名なのです。

 これは「ユウキュウ」で、

 「イキュウ(イキウ)=位宮=リユウキュウ=琉球」の

 発音変化の一つで、ほとんど差がありません

 「夏王朝」があったのは中国河南省ですから、

 東アジアでこの名に合う国は

 琉球以外にないということも記憶しておいてください。


 「「天孫」はアマゾンへの当て字」

 「赫夜姫」は月から迎えがきて、

 「呼び戻される」のだという点が重要なのです。

 もともと彼女は

 「金色に光り輝く金髪をもった別世界の人」でした。

 金髪の異人だったからこそ壹與も卑弥呼と同じく女王に選ばれ、

 連邦政権に君臨することになったのです。

 これを先住民である庶民の側からみますと、

 彼女は故郷である「異人」の世界へ呼び戻されたと見えたのです。

 それは現実には、

 本来の出身地である「天の国」へ帰ったのでした。

 それが大天国=ウチナ=沖縄であり、与那原だったのです。

 「与那=ヨーナ」というのは、

 インド・パーリ語でギリシャという意味、

 ギリシャ語の「イオニア」の訛です。

 金髪の壹與は親元を離れて育てられていましたが、

 沖縄のギリシャ人世界に戻りました。

 そこはまた天界とは切っても切れない

 「織女星=たなばた=棚機=新式織機=七夕」の

 世界でもあったのです。

 前にお話しした南海の優れた織物の話も元は同じです。

 有名な司馬遷(シバセン)の中国の正史『史記』の

 [天官書]には、「織女、天女孫也」と書いてあって、

 その索引には「織女、天孫也」と「天孫」と書いてあります。

 私たち日本人は、古来なぜか「天孫族」だと自称し、

 『日本書紀』にも天智天皇が大化改新のとき、

 やはり「天孫」と自称したと記録していますが、

 天孫とは中国では「織女星」のことだったのです。

 3世紀当時の沖縄地方は、

 すでに1000年以上も貝貨産業を続けてきた

 カリエン人の世界に縄文末期に移住してきた

 弥生人=ヤオ人やマレー人、インドネシア人が混血し、

 さらに前1世紀に移住してきた

 ソナカ布教団の倭人(ギリシャ系インド人)が、

 ミャンマーやタイやベトナム、フィリピン、台湾からの

 技術教師や商人などを大量に連れてきました。

 さらにそこへ中国南部からの商人や漁民や移住者が加わって、

 あるいは人種的独立集団になり、

 あるいは混成集団をつくっていたのですから、

 とても「民族」などと区別できるような

 人種構成ではなかったのです。

 ですから強いて「天孫」とは何を指すかと考えると、

 それはギリシャ系の人々が女系集団の倭人を

 「アマゾン」と渾名(あだな)したものへの当て字

 「天孫=アマゾン」だったことになります。

 それが先の「有窮国」などの天上の話として

 古くから中国へ伝わっていたのです。


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 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2011年5月18日水曜日

「かぐや姫」という名の誕生


※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 257~265頁
㈱徳間書店
           日本国誕生の秘密

「ギリシャ政府」で即位した壹與
「かぐや姫」という名の誕生
「徐那伐(ヨナバル)」はどこ?
「天に昇る」は沖縄へ行くこと




「赫夜姫と壹與は同一人物?」

ではこの物語に隠された本当の歴史とは、どんなものだったのか?

少し専門的で難しくなりますが、

急がず、ゆっくり時間をかけて詳しくご説明してみましょう。

『竹取物語』は登場人物が都の人たちであるため、

たいていの人が日本で一番長く続いた都・京都を舞台にしたお話だと思っていました。

また、それは創作された「おとぎ話」の一つで、本当にあった話ではないと、

これまで永い間、思われてきました。

しかし、この物語は、実際に起こった事件と非常によく似ています。

そこで細かく研究してみますと、

この物語は、日本の国が生まれたころ、

ある一人の少女が、まるでシンデレラのように、

13歳で本当の女王になった珍しい歴史事実が、もとになっていることが、

はっきりわかったのです。

その少女とは「壹與」で『魏書倭人章』に、

卑弥呼の次の女王になったことが記録されている実在の歴史上の人物です。

しかし『魏書倭人章』だけでは、彼女がどこの誰か?

なぜ、どうして女王になったのか、詳しいことは何一つわかりません。

ところがその謎を『竹取物語』が、細かい点まで解いてくれるのです。



「「ギリシャ政府」で即位した壹與」

壹與というのは「斎き祭る嬢」という呼び名を、

種子島語で「イチッジョー」と発音したものへの当て字で、個人の名ではありませんでした。

彼女は卑弥呼政権が倒れたあと、新しく生まれた邪馬壹国の女王になります。

邪馬壹国は、その後、

鹿児島県から移動して、熊本県・佐賀県・福岡県・山口県・広島県などを勢力圏に収めたのち、

朝鮮半島に新羅国を作りました。

だから古代朝鮮半島の歴史を書いた『三国史記』[新羅本紀]に、

彼女とぴったり同じ13歳で即位したと特筆された王がいます。

新羅建国の初代の王「始祖王・赫居世(カクゴシ)」です。

『三国史記』には朝鮮の歴史だけが書いてあると思うのは当然ですが、

これまでお話ししてきたように、

その歴史は沖縄へきた人々が次第に広がっていった日本と共通の歴史でした。

だからそこに壹與の記録がみつかっても少しも不思議ではありません。



この名の「赫」の字は赫夜姫の赫と同じで、赫夜姫の赫は古来「カグ」と読みます。

これは鹿児島の地名のもとになった古代地名「鹿児」の沖縄発音「カグ」と同じです。

古代の天皇や王たちの名はすべて領土の名と役職や称号を連ねた「名乗り」で、

注意してみるとその領土の位置、勢力圏の広さ、

栄枯盛衰などを詳しく知ることができます。

では「居世」は何を意味するのでしょう?

これを「キョセイ・コセ・ゴセ・イセ・イヨ」などと様々に読んで地名と比較してみますと、

居勢(こせ)・御所(ごせ)・伊勢・伊予(愛媛)などに合います。

とすれば壹與も「イヨ」と読めますから、

これは領土名ではなく「鹿児」に「壹與」を足した当て字とみると、

「赫居世」とは「鹿児国の・壹與=斎き・女王」という国名と役職と称号とを完備した、

当時の女王の名乗りとしてごく妥当なものだとわかります。

だから赫居世という名は、他にそれに合う地名がないので、

後世に朝鮮半島に拡大して新羅に成長した国が、

まだ鹿児島にあった当時の王名だったことが確認できるのです。


「写真:ギリシャ・デザインの新羅王金冠」

横から見ると鳥の翼のデザインがはっきり見える。

これはギリシャ系の多くの遺物に見るデザインだが、

古代新羅の王称である「尼師今=イシキン」は

アレクサンドロス以来の王称「イスケンダル」の

沖縄式発音の略称「イシキン」に対する当て字であることを知れば、
少しも不思議ではない。

このイシキは鹿児島で伊敷・市来という地名や神社名になって残っているし、

「壹與」が市木島姫・厳島神社などの別名で祭られていることも強力な遺物であって、

彼女らがギリシャ文化の継承者であったことは疑いの余地がない。

「韓国から筆者に送られた慶州・天馬塚古墳出土金冠レプリカ」



「「かぐや姫」という名の誕生」


しかしなぜ鹿児島なのか?……それをご説明しましょう。

「赫居世」の漢字読みは「カゴセ」ですが、

沖縄語だと「カグシ」、大隈語だと「カゴシ」になります。

沖縄語では「国」を「マ」と呼びますから、「赫居世国」はカゴシマと発音します。

「鹿児島」という文字はその発音に対する当て字だったとみると、

島ではないのになぜ島の字がついているのか?

という謎が解けます。

これで「赫居世」は「カグイヨ」と発音しても間違いではないことがわかりました。

鹿児島方言は言葉を短く縮めて発音するのが特徴ですから、

「カグイヨ」は「カグヨ」と聞こえます。

この「ヨ」に「夜」という字を当てて「赫夜姫」と書くのは、

ごく当然な発想ですが、

後世その「夜」の字が「ヤ」と音読されて、

「カグヤヒメ」と読まれたために、まるで別人になってしまったのです。

カグヤ姫は[赫夜=赫居世=鹿児壹與=鹿児の斎き女王]であり、壹與のことです。




「「徐那伐(ヨナバル)」はどこ?」

彼女は『三国史記』に

「①13歳で、②徐那伐で、③即位した、④初代、⑤新羅王」と記録されています。
この5つもある限定条件には、

他人では体験できなかった非常に多くの史実がからんでいて、

彼女だけがもっている「身分証明書」になっています。

それが『竹取物語』『魏書倭人章』『三国史記』という、

これまでバラバラだった「記録」を接続し、接着して、復元し、互いに不足を補いあって、

永い間「忘却の闇」の中に隠されていた歴史の真相を、

はっきりと私たちに詳細に教えてくれたのでした。

それだけでなく、その即位の場所が

「徐那伐」だったことが大きな証拠を形成しているのです。

この地名は従来は朝鮮半島のどこかだろうとされてきましたが、

『魏書倭人章』との関連から考えると、どうしても沖縄でなければ話が合いません。

「伐」の字は朝鮮語で「パル・バル」なので「徐那伐」は「ヨナバル」と読めるのです。

これに、ぴったりの地名が沖縄にあります。

那覇市に近い島尻郡の「與那原(よなばる)」がそれです。

新羅の歴史を考えますと、狗奴国男王の根拠地であり、

13歳の壹與が女王に即位した「ヨナバル」は、ここ以外考えられません。

また「ジョ・ナ」という発音は「徐国」を意味し、

このナをマに変えることもできるから「邪馬」と書いても同じ「徐国」だとわかります。

その「ヨナ」は今の与那国と同じ発音で、

「ヨーナ」とは「イオニア」のインド訛で、ギリシャという意味です。

だから「与那・徐那」は「ギリシャ国」ということなのです。

古代日本には国を「ナ」と呼んだ人々がいました。

沖縄をウチナと発音しますし、嘉手納、山名、丹那などもそれです。

また「ナ」という発音は沖縄語では助詞の「…の」に当たりますから、

「徐那」は「ジョーナ」と引っ張る発音をする人々なら、

「女王国」または「女王の」のどちらかにも結びつけて考えることもできます。



「「天に昇る」は沖縄へ行くこと」

この「原」は何を意味する文字なのでしょう?

高天原やその他の古代地名から考えると、

当時の「原」は「祭りごと=祭政一致」をする場所「都」を意味していました。

壹與の場合もそれだと意味が素直に通じますから、

與那原は「女王国の都」か「女王の都」という地名だったということになります。

だから彼女は沖縄の「與那原」で女王になったと記録されているのです。

しかし沖縄生まれだとは限りません。

なぜなら、赫夜姫は、

竹藪で、竹の中から見つけだされ、後に「天」へ連れて行かれたのだからです。



「天」は、「天朝(てんちょう)」のことと考えられます。

天朝とは朝廷のことです。

しかし行き先が沖縄であったことがわかると、

この天は単に朝廷というだけでなく、

ほかに何か、そこを「天」と呼ぶ理由があったことがわかります。

なぜなら沖縄は今も「天」という地名を名乗っているからです。

地名は、今では標準語で発音するのが正しいとされていますが、

それは現代政府の行政上、都合がいいというだけのことで、

地名は本来最初に命名された発音が正しいのです。

それをつけた当時の発音で読まないと、何を意味するのかさっぱりわかりません。

「沖縄」という字を当てたのは元禄ごろの学者・新井白石です。

ところが現在ではその沖縄という「文字」を沖縄の方言でウチナーと読んでいるので、

本当の発音も、その意味も忘れられていますが、

詳しく調べて告と本来の名は「ウチンナ」でした。


「チン」は沖縄語「天」のことで、

語尾の「ナ」は国を意味するナであることは間違いありません。

これを総合すると「大天国」になります。

「大」は沖縄が大琉球で台湾が小琉球だった当時の名残と

自分の国を偉く見せるためにつけ加えた場合と、

「タイナロン」のタイであった場合との三つの可能性があります。


いずれにしても沖縄とは、「大天」という名前だったので、

赫夜姫の昇っていった「天」は沖縄だといちばん合理的になります。

都に向かって、その方角へ行くことを「のぼる」といい、

その反対を「くだる」というのは、

日本の古来の習慣語ですが、

赫夜姫が「天へのぼった」という言葉使いは

都が沖縄にあった事実を、間接的に伝えているといっていいでしょう。


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『参考』
ウワイト(倭人)ウバイド        
歴史学講座『創世』うらわ塾         

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

2011年5月17日火曜日

幻想の世界『竹取物語り』もとになった史実とは?





※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 244~230頁
     ㈱徳間書店
           日本国誕生の秘密

 「もと光る竹」
 「もとになったお話」
 「鹿児島で生まれた物語」
 「赫夜姫(かぐやひめ)の成人と求婚者たち」
 「赫夜姫の運命と嘆き」
 「赫夜姫、月世界へ行く」
 「他のおとぎ話との結びつき」




 「もと光る竹」

 『今は昔、竹取の翁(おきな)といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、

  よろづのことに使ひけり。名をば、さかきの造(みやっこ)となむいひける。

  その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。

  あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。
 
  それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。翁言ふやう、

  「われ朝ごと夕ごとに見る竹の中に、おはするにて、知りぬ。

   子となり給ふべき人なめり。」とて、

  手にうち入れて家へ持ちて来ぬ。妻の嫗(おうな)に預けて養はす。

  うつくしきこと限りなし。いと幼ければ、籠に入れて養ふ』

 古文は少し面倒ですが、内容も文章も夢みるように美しい物語です。

 紫式部も日本で一番古い物語だと『源氏物語』に書いています。

 こんな美しいお話は、一体、いつ、どこで生まれたのでしょう……?
 昔の人だって、本当に、竹や桃の中から子供が生まれるなどとは、

 信じてはいなかったに違いないと思います。

 ごく普通のことなら、誰だって不思議がったりしないし、こんな物語が残るはずがありません。

 信じられないからこそ面白く、聞かれたり読まれたりしたので、

 それは今のUFOのお話のようなものだったのです。

 では根も葉もない、まるっきりの「作り話」だったかというと、

 物語のあらすじは、もう確かめたように「史実」にもとづいているのですから、

 植物から生まれた子というのは「たとえ話」だとわかっています。

 もちろん、最初に見た文章は後世の文学作品で、原話そのままではありません。

 文章も洗練されているし、新しい思いつきや脚色が、たくさん追加されていて、

 もとの「たとえ話」とは非常に違ったものになっています。

 そうした脚色部分を取りのぞくと、この物語は本当にあった歴史上の事実を、

 後世に伝えようとする一種の「暗号」だったとみなければなりません。


 「もとになったお話」

 『今昔物語』の中にも同じ話がありますが、それは少し違っています。

 よくご存じのように、赫夜(かぐや)姫に結婚を申しこんだ貴公子たちを、

 あきらめさせるために姫は、

 現実にはとうてい手に入らないものを見つけてほしいと難題を出します。

 その出題がとても違っているのです。

 『今昔物語』 1 空に鳴る雷(かみなり)
        2 優曇華(うどんげ)の花
        3 打たないのに鳴る鼓(つづみ)

 『竹取物語』 1 天竺(てんじく)の仏の石鉢
        2 蓬莱山(ほうらいさん)の玉の枝
        3 唐土の火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)
        4 竜の首の五色の玉
        5 燕(つばめ)の子安貝(こやすがい)

 この二つを見ただけでもずいぶん違っていることがわかります。後のほうが、

 ずっと脚色が増えているので、新しいことがすぐわかります。

 そして、もっと古いものになると、この難題もありません。

 『曽我物語』や『海道記』、それに謡曲の『富士山』などに入っているものは、

 竹藪の中でウグイスの巣を見つけると、

 その卵から美しい女の子が生まれる話になっていますが、

 天皇が皇后に迎えようとすると、それを断わって天に昇っていった。

 というだけで、貴族たちの求婚も難題もなくて、ただ天皇の求婚だけという単純なものです。

 この『鷺姫』はだれが作り変えて広めたお話か教えてくれる本があります。

 『桂川地蔵記』という本では、巫女(みこ)が話し手になっていますし、

 『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』という本では、座頭(ざがしら)の城呂が物語った、

 と書いてありますから、

 総合してみますと、

 もとの話は巫女や座頭といった人々が話して歩いた、宗教の「説教」だったことがわかります。


 「鹿児島で生まれた物語」

 「座頭」というのは、

 あんまなどを職業にする盲人のことだと思われていますが、

 「座」というのは「銀座・金座・楽座」という名でもわかるように、

 大規模な商工業組織のことで、「座頭」とはその「頭取」のことだったのですから、

 本来はその文字が示す通り、非常に高い地位の「官位」で今でいう肩書きだったのです。

 そんな彼らの官位は勝手に自分で名乗ったのではなく、

 全て鹿児島神宮が授けたもので、

 それによって全国的に「座=企業」を開き、八幡信仰を広めて歩いていたのです。

 巫女(みこ)もまた同じことで、最初はやはり鹿児島神宮から全国に派遣されていました。

 あなたは、源義経との悲恋で有名な、

 静御前(しずかごぜん)をよくご存じだと思いますが、彼女もその巫女の一人でした。

 彼女はそのうちの歌や舞いで人々を集めて説教をする

 「白拍子(しらびょうし)」と呼ばれた舞姫です。

 彼女は鶴岡八幡宮の神前で、頼朝の命令で舞(まい)を舞いますが、

 それは彼女が八幡につかえた巫女だった証拠です。

 彼女らは旅を続けながら信仰を広めて歩いたので、

 「歩き巫女」とも呼ばれていました。

 古代には書物の代わりに、

 歴史や重要な知識を記憶して話す「語部(かたりべ)」という職務を持った人々がいて、

 彼らが物語った話が『古事記』と『日本書紀』とになったとされていますが、

 その中の「日向神話」を伝えたのは、間違いなく鹿児島神宮の語部たちだったのです。

 その鹿児島神宮は卑弥呼や壹與(イチヨ)がいた「姫木」と同じところにあります。

 これで『竹取物語』や『鶯姫物語』は、もとは鹿児島神宮で生まれた物語だったことが、

 おわかりになったと思います。

 こうした布教活動は、後には和歌山県の熊野にある熊野三社の熊野信仰や、

 当時の都・京都周辺の比叡山、三井寺などにも広がり、

 鹿児島神宮のものばかりではなくなりましたが、

 それ以前の古い伝承は、鹿児島で生まれて広く全国に伝わったものなのです。


 「赫夜姫(かぐやひめ)の成人と求婚者たち」

 それではもう少し、ところどころ原文を挟みながら、あらすじを見ておきましょう。

 「竹取の翁、竹を取るに、この子を見つけてのちに、竹取るに、節をへだてて、

 よごとに黄金ある竹を見つくること重なりぬ。かくて翁、やうやう豊かになりゆく」

 赫夜姫(かぐやひめ)を見つけてからは、金(きん)の入った竹が次々に見つかったので、

 翁の家は財産家になっていった、というのである。

 また赫夜姫も「この稚児、養ふほどに、すくすくと大きになりまさる。

 三月(みつき)ばかりになるほどに、よきほどなる人になりぬれば、髪上げさせ、裳(も)着す。

 帳のうちよりもいださず、いつき養ふ。

 この児のかたち稀有(けう)らなること世になく、屋のうちは暗きところなく光り満ちたり」。

 姫はどんどん大きくなって、三カ月ほどで立派に一人前に成人した。

 そこで成人したしるしの「髪上げ」や、大人用の着物を着る

 「裳着(もつけ)」をして成人式を済ませたが、部屋からも出さないほどに大切に育てていた。

 しかし姫の美しさは並外れていて、家の中は光りが満ち満ちて、

 暗いところがないくらいだった、というのである。

 その噂はたちまち都じゅうに知れ渡った。

 ひと目でもいいから合わせてほしい、という申し込みが殺到したが、姫は誰にも会わない。

 すると努力家の貴族の子弟たちが、自分が独占しようと思って、結婚を申し込んできた。

 これも姫は全部、断わったが、5人の貴公子があきらめずに、

 なおもしつこく翁たちを責めたてたので、とうとう姫も困って、

 「それなら私の欲しいものを持ってきてくれた方と結婚します」と約束してしまった。
 
 そしてそれぞれの相手に、先に比較したあの難題の品物を、

 プレゼントしてくれるうにといいつけたのである。

 石作(いしきつくり)の皇子(みこ)には、「仏様の石の鉢」。

 車持(くるまむち)の皇子には、蓬莱山に生えているという「珠玉の樹の枝」。

 右大臣・阿部御連(あべのみむらじ)には、絶対に火に焼けない中国産の「火鼠の皮衣」。

 大納言大伴御行(だいなごんおおとものみつら)には、竜の首に光る「五色の玉」。

 中納言石上麿足(ちゅうなごんいそのかみのまろたり)には、

 燕が子育てのお守りにしているという「燕の子安貝(=タカラガイ)」である。

 もともと、この世に実在しないものばかりなのだから、手に入るはずはないが、

 恋に日のくらんだ5人は、大金を使い、大勢の人を使い、

 自分でも必死になって奔走して、それを求めては失敗する。

 その、地位の高い人間の、無知と、愚かさと、一喜一憂と、失敗とが、

 読者の笑いを誘うのだが、結局は予想通りみな失敗に終わって読者をさらに喜ばす。

 すると、その噂を聞いた、ときの帝が迎えをよこす。

 しかし姫は勅使がきても会わない。

 そこで帝は代わりに翁を宮中に呼んで宮仕えを命令しようとしたのだが、

 姫はそれも断わってしまう。

 しびれを切らした帝は、そこで鷹狩りを口実にして出かけ、

 彼女の家へ直接、立寄って無理やりにでも宮中へ連れて帰ろうと計画する。

 ところが……そうは行かなかった。

 赫夜姫は自分の意思で求婚を断わっていたのではなくて

 自分はこの地上には永くいられないことを知っていたからなのである。


 「赫夜姫の運命と嘆き」

 『葉月(はづき)・望(もち)の日ばかりの月に、出で居て、赫夜姫いと痛く泣き給う。

  これを見て、親どもも、「なにごとぞ」と問ひさわく。

  赫夜姫、泣く泣くいふ、

  「さきざきも申さむと思ひしかども、

   かならず心惑ひし給はむものぞと思ひて、
 
   いままで過し侍(はべ)りつるなり。

   さのみやはとて、うち出で侍りぬるぞ。

   おのが身は、この国の人にもあらず。

   月の都の人なり。

   それを昔の契(ちぎ)りありけるによりなむ、

   この世界には、まうで来たりける。

   いまは帰るべきになりにければ、この月の十五日に、

   かのもとの国より、迎へに、人々まうで来むず。

   さらずまかりぬべければ、思しなげかむが悲しきことを、

   この春より思ひなげき侍るなり」と言ひて、いみじく泣くを、

  翁

  「こはなでふ事のたまふぞ。竹の中より見つけきこえたりしかど、

   菜種の大きさおはせしを、わが丈たち並ぶまで養ひたてまつりたる我子を、

   なに人か迎へきこえむ。まさに許さむや」と言ひて、

  「われこそ死なめ」とて、泣きののしる事、いと、耐へがたげなり』


 [現代語訳]

  旧暦の八月半ばごろのこと、部屋から出て翁たちと月を見ながら姫はたいそう泣いた。

  親たちは驚いて「どうしたの?」とたずねた。

  赫夜姫は泣きながら答える。

  「以前から申し上げようと思いながら、きっとお悩みなると思って、

   今日まで過ごしてまいりましたが、もう、そうもしていられませんので、

   本当のことをお話し申し上げに出てまいりました。

   実は私は普通の人間ではありません。

   月の都の者なのです。

   それが前世の因縁によって、この世界にやってまいったのです。

   ところが、とうとう帰る時がきてしまいました。

   今月十五日には、月の国から迎えの人々がやってくるはずです。

   そうすれば私は行かなければなりません。

   それをお話しすれば、父上母上が考え悩まれると思うと、それが悲しくて、

   この春から、思い苦しみ悩んでおりました」といって、

 また激しく泣いたので、

 翁は

 「これは何いうことを、いわれまする。

  貴方さまを竹の中でお見つけした時は、菜種の実のようにお小さかったのを、

  今は私と背丈が並ぶまでに、大きくお育てしたのです。

  その我が子同然の方を、勝手に迎えにきて連れていく権利が、

  一体だれにあるのですか、絶対にそんなことは許せません」といい

 「それくらいなら、いっそ私のほうが死にたい」と泣きわめく有様は、

 余りの辛さに、とても耐えられない悲しみようだった。


 「赫夜姫、月世界へ行く」

 そして翁は迫ってくるその日に備えて、門という門、戸という戸を全部しめ切り、

 姫を一部屋に閉じこめて、一歩も外へ出さなかった。しかし、その日はすぐにやってきた。

 その夜、十五夜の月が空に昇ると、

 そこから美しい牛車をとり囲んだ大勢の天人たちが現われて、

 まっすぐ赫夜姫の御殿目がけて下ってきた。

 そして天人の一人が翁に、姫を連れて帰ると告げた。翁は答えた。

 『「赫夜姫を養ひ奉ること、二十年あまりになりぬ。

   片時とのたまうに、あやしくなり侍りぬ。

   また異所に赫夜姫と申す人ぞ、おはすらむ」といふ。

  「ここにおはする赫夜姫は、重き病をし給えば、えい出おはしますまじ」

  と申せば、その返事はなくて、屋の上に飛ぶ車を寄せて、

  「いざ、赫夜姫。汚きところに、いかでか久しくおはせむ」といふ。

  たてこめたる所の戸、すなはちただ開きに開きぬ。

  格子(こうし)どもも、人はなくして開きぬ。

  嫗いだきて居たる赫夜姫、外に出でぬ。

  え止むまじければ、たださし仰ぎて泣きおり。

  竹取、心惑ひて泣き伏せるところに寄りて、赫夜姫いふ、

  「ここにも心にもあらでかくまかるに、昇らむをだに見送り給へ」 といえども、

  「何しに悲しきに見送り奉らむ。

   我をいかにせよとて捨てて昇り給ふぞ。

   具して率いておはせね」

  と泣きて伏せれば、御心惑ひぬ。』


 [現代語訳]

  ……翁は答えていった。

 「私は赫夜姫を二十年余りも養っています。

  それなのに、貴方は「片時」だといわれます。

  それでは、うちの姫かどうか疑わしい。

  どこか別のところにも別の赫夜姫という方が、

  いらっしやるんじゃありませんか?。

  うちにおいでの赫夜姫は今、重い病気にかかっていて、

  とても貴方と一緒には、おいでにはなれますまい」と、

 いったのだが、天人は、それには返事もせずに空飛ぶ車を姫の部屋の屋根につけて、

 「さあ、赫夜姫。汚いところに、何故いつまでも、おいでになるのです?」といった。
 
 すると、閉め切った戸が全部、ひとりでに開き、格子戸も人が開けないのにガラガラと、

 全部ひとりでに開いてしまった。

 そこで嫗(おうな)と別れを悲しんで抱きあっていた赫夜姫は、外へ出た。

 嫗は止めるすべもなく、ただ見上げて泣くばかりだ。赫夜姫は、

 泣き伏している翁のそばへ歩みよって、

 「私も、お別れしたくないのに、

  無理やり連れて行かれるのですから、

  せめて天に昇って行く間だけでも見送ってくださいね」と頼むのであったが、

 翁は、

 「どうして悲しいのに見送れまするか。

  私を見捨てて自分だけ天に昇るなんて、

  一体、そのあと私はどうすればいいのかわかりません。

  ぜひ一緒に連れていってくだされ」

 と泣き伏したので、いったんは月世界へ帰る決心をしていた赫夜姫も、

 また決心が鈍って、行こうか止めようかと、迷い悩むのであった。

 しかし結局、宿命には逆らえない。

 赫夜姫は真っ赤に目を泣きはらしながら、天人に連れられて天へ昇っていってしまった。


 「絵:竹取物語絵巻」

 天からの迎えの車が来た場面。
 門のまわりには鎧武者が警備しているが、
 何の役にも立たない。
 屋内では翁たちが嘆き、縁側では貴族が天からの使者に懇願しているが、
 すでにかぐや姫が雲の上の車の中にいる。

 江戸時代初期の作品(東京大学蔵)


 「他のおとぎ話との結びつき」

 この物語にはいろいろな種類があって、それぞれ脚色が違いますが、

 富士の噴火と結んだものでは、姫は昇天の萱に、帝に不老不死の薬を残していきます。

 すると帝は残念がって、それを焼けば、もう一度、姫に会えるのではないかと、

 天に一番近い富士山の頂上で、その薬を焼きました。

 しかし姫には再会できないで、その煙だけがいつまでも尽きずに立ち昇っていました。

 そこで「不尽山=フジの山」と呼ばれるようになった、

 と富士山の語源と煙が立ち昇るわけの説明になっていました。

 この部分は浦島太郎が、乙姫にもらった玉手箱を開けると煙が立ち昇ったが、

 乙姫には再会できなかったというお話と、全く同じモチーフであることにご注意ください。

 また赫夜姫はもともと天人でしたが、何かの罪を犯したためにその償いに、

 一時、人間の世界におろされて、ふたたび天に戻るのだという説明もあります。

 この部分はご存じの『羽衣』の物語と共通です。

 『鴬(うぐいす)姫】の場合は、もともと「鳥」だったということになり、

 『白鳥の湖』など世界中に分布している

 『白鳥伝説』から「脚色材料」を得たと考えることもできます。

 また九州の言葉では助詞の「……の」を「……ン」と発音しますから、

 「フジン山」を「フジの山」と解釈したのは九州人だということもわかります。

 「フジン山」は他の方言では

 「婦人山」か「夫人山」と聞こえて「富士の山」にはなりません。

 仮に二つとない山という意味で「不二山」という名が先についていて、

 その説明のために、この「不尽山」の話を作ったとしても、

 やはり九州方言を話す人が、

 助詞の「ン」を間に挟まなければ「フジン山」にはなりません。

 このことはこの物語の最初の語り手が、

 やはり九州人だったことの動かない証拠だといえましょう。



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