※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 226~230頁
㈱徳間書店
『日本書紀』「神武天皇三十一年」に昔、イサナキノミコトが、
日本の国を呼んだ名の一つとして「秀真国(ホツマクニ」という名を挙げています。
これはそのまま「豊都国(ホツマ・ホタマ)=豊玉」と一致します。
また山幸彦と神武天皇は、どちらも
「彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」という名をもっています。
これは祖父と孫だから名前の相続だといわれてきましたが、
『記・紀』は混乱していて、時代の異なる記事を一緒に混ぜたり、
同一人を別人として、あちらこちらにはめこんでいたりしています。
位宮はスサノオで、「八雲立つ…」の歌は彼がよんだ歌とされるが、
それとも「竜王」ともよく一致しているし、シロタは広田で、
スルタン、サルタは猿田彦とつながり、
ソトはソ=襲やソトモというサツマの別名に一致しているなど『記・紀』の記事と一致点が多い。
「図:さほのはやさめ=狭穂の疾雨」
深沢省三画(菊池寛「日本建国童話集』文芸春秋社刊の挿絵)
そして忘れてならないのは、日本最古の悲劇ロマンとして知られる
『日本書紀』[垂仁天皇紀]にある「狭穂(さほ)姫皇后の悲劇」です。
そのあらすじを見てみましょう。
秋のある日、天皇は皇后狭穂姫のひざを枕に、うたた寝をしていて夢をみて眼を覚ました。
「錦の色をした小蛇が首に巻きつき、
狭穂(さほ)のほうから真っ黒な黒雲がやってきて、
急に雨が顔に降りかかった夢をみた。
これは何の知らせだと思う?……」
みると皇后は涙を流していて、そこへ両手をついて詫びた。
「実は兄が陛下を殺せとこの小さな刀を渡しました。
だが何も知らずに安心して私のひざでおやすみの顔をみていると、
陛下と兄の板挟みになった自分の宿命の悲しさに、
つい涙が散って陛下のお顔にかかってしまいました。
蛇は小刀、雨は涙、黒雲は兄の狭穂彦でごぎいましょう。
どうか私をお罰しくださいませ……」
「そうか……しかし、そなたの罪ではない。悲しむな」
垂仁天皇は部下に命じて狭穂彦を捕えにやった。
すると予期していた狭穂彦は大急ぎで稲わらを積み上げて防戦の準備をしていた。
月を越えても決着がつかない間に、
皇后は生まれたばかりの皇子・誉津別命(ホムツワケノミコト)を抱いて
兄のところへ帰ってしまった。
天皇は驚いて将軍をやって皇后と皇子を返せと交渉させたが狭穂彦はきかない。
将軍は威嚇のためにその稲わらに火をつけさせた。
すると皇后が現われて、
駆けつけた天皇に「私と皇子に免じて兄の罪を許していただけたらとここへ釆ましたが、
焼かれるのをみると許していただけないとわかりました。
私は捕えられて生きようとは思いません。
私が死にました後の皇后には丹波の道主(みちぬし)の王の娘をお選びください」という。
火勢が強くなって稲わらの防壁が崩れおちるのをみた天皇は、
皇后を助け出させようとしたが皇后は、
皇子だけを兵士に渡して自分は火の中へ飛びこんでしまった。
もちろん狭穂彦も妹とともに焼け死んだ。
垂仁天皇の「竜宮城」での楽しい日々は終わった。
これが神話の「豊玉姫のお産と離婚の悲劇」の真相なのです。
悲劇の原因は姫の正体が竜だったからだというたとえ話は、
宗教の違いと、
こうした醜い肉親間の争いを不思議な話にすりかえて穏すための方便だったのです。
またこれと『魏書倭人章』とのつながりをみますと、
狭穂姫皇后が推薦した後任の皇后・日葉酢(ビバス)姫皇后は、
その系譜を整理すると豊玉姫の妹の玉依(たまより)姫であり、
『魏書倭人章』の「壹與(イチヨ)」その人なのです。
だから玉手箱の「玉」は豊玉・玉依姉妹の象徴。
楽しい日々の裏に潜む醜い権力争奪を戒めるのがこのお話の本当の目的です。
だが位宮は悲劇を見てしまいました。
「竜宮城」の楽しい夢は「玉手箱の煙」のように一瞬に消えて、
後には急に老けこんだ「浦島太郎=位宮」しか残りませんでした。
その枯れ果てた心はまさに何百歳の老人のようだったのです。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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