2011年5月9日月曜日

13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像

※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 117~119頁
     ㈱徳間書店



 
 「13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像」

 鎌倉時代の寛元元年(1243年)9月に、

 長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から中国へ向けて出航した

 日本の商人が、台風にあって琉球列島へ漂着しましたが、

 その時の見聞録を『漂到琉球国記』という文献にまとめたものが

 今も残っています。

 それには筆者が描いた非常に上手な写生がそえられていますが、

 その絵は私が現地調査の時に見た、

 現在のミャンマーやタイのカリエン人風俗そのままです。

 カリエン人は、戦前の旧ビルマ時代に支配者だった英国人が、

 誤って「カチン族」を「カリエン」と呼び、

 本当の[カリエン人]を「カレング」と呼んだために、

 日本では今でもカレンと呼ぶ人がありますが、

 [カリエン]という名は「コーレアン」の訛なので、

 今後は正確に[カリエン]と呼ばないといけないのです。

 戦後はミャンマー北部のカレン州とカレンニ州を中心に、

 国境を越えてタイ国内にも大人口が住み、

 中国各地にも同族が広く分散して住んでいる人々で、

 「ブガイ=部外」「スガウ=菅生」「プオウ=部王」

 という日本語と共通の名をもった三大部族に分かれています。

 同族の人々が中国では「黎(リエ)族」と呼ばれて各地に

 分散していて、その大集団は広東(カントン)省の

 海南島と雲南省に住んでいます。

 またミャンマー国内の「カチン」や「チン」「シャン」

 「タライン」などの人々も、日本語と同系統の言語を話し、

 共通の名詞をもち、風俗習慣にも私たちと多くの

 共通点をもっていることがわかっています。

 彼らは『漂到流球団記』の絵と同じ「貫頭衣」を、

 男女とも現在もなお頑固に着つづけ、

 また布で頭を包んでいますが、

 これも「招頭」と

 『魏書倭人章』に挙げられているものと完全に同じものです。

 この絵では船の真ん中に、冠を被った女性が一人、

 房飾りを下げた三叉鉾(さんさほこ)を手にして立っていますが、

 これはどうみても指揮者です。

 これもカリエン人の特徴の一つ「母系家長制」の表われで、

 この点も天照大神や卑弥呼から奈良時代の

 大和朝廷の女帝に至る系譜や伝統と、

 共通したものを守り続けていることが観察できます。

 そのほかにも細かい点まで多くの類似点が見られます。

 絵の人物は弓で魚をとっていますが、

 その弓も『魏書倭人章』の記事どおり「下が短く上が長い」。

 また今のカリエン人は入れ墨を自慢にしていますが、

 『魏書倭人章』も倭人は全て入れ墨していると記録しています。

 戦前までは奄美地方に、

 手に「ホツキ=彫突き」という入れ墨をした婦人がいました。

 人種の移動は言語を調べるとよくわかります。

 同じ言葉が点々と分布していれば、

 それは人々が次第に広がって移住したことを示しているからです。

 「絵」漂到琉球国記のスケッチ

 13世紀当時の沖縄の住民が漁をしている姿を詳細に描写している。

 男子の服装や鉢巻きは現在のカリエンの人々が着ている衣服と

 全く同じで、

 『魏書倭人章』が記録したいわゆる「貫頭衣」と「招頭」が

 これであったことを裏書きしている。

 ことに手前の船の中心に三叉鉾を持って指揮している女性は、

 頭に冠をつけていて、その地位の高さ、

 女性上位の社会を証言する。

 これもまた卑弥呼当時から現代のカリエン人まで

 継続している慣習と風俗で、

 絵の弓が上が長く下が短いことなどまで、

 3世紀の『魏書倭人章』の世界が、

 13世紀までほとんど変わることなく沖縄で続いていたことを

 示しているし、

 また三叉鉾はギリシャ神話の「海神」を象徴する武器で、

 この人々がギリシャ文化の継承者であり、

 いわゆる日本神話の「海神=わたずみの神」だったことを、

 この絵ではっきりと証明している。



 『検索』

 『参考』
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 歴史学講座『創世』うらわ塾         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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