※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 117~119頁
㈱徳間書店
「13世紀のナゾの沖縄人の凄い画像」
鎌倉時代の寛元元年(1243年)9月に、
長崎県五島列島の小値賀(おじか)島から中国へ向けて出航した
日本の商人が、台風にあって琉球列島へ漂着しましたが、
その時の見聞録を『漂到琉球国記』という文献にまとめたものが
今も残っています。
それには筆者が描いた非常に上手な写生がそえられていますが、
その絵は私が現地調査の時に見た、
現在のミャンマーやタイのカリエン人風俗そのままです。
カリエン人は、戦前の旧ビルマ時代に支配者だった英国人が、
誤って「カチン族」を「カリエン」と呼び、
本当の[カリエン人]を「カレング」と呼んだために、
日本では今でもカレンと呼ぶ人がありますが、
[カリエン]という名は「コーレアン」の訛なので、
今後は正確に[カリエン]と呼ばないといけないのです。
戦後はミャンマー北部のカレン州とカレンニ州を中心に、
国境を越えてタイ国内にも大人口が住み、
中国各地にも同族が広く分散して住んでいる人々で、
「ブガイ=部外」「スガウ=菅生」「プオウ=部王」
という日本語と共通の名をもった三大部族に分かれています。
同族の人々が中国では「黎(リエ)族」と呼ばれて各地に
分散していて、その大集団は広東(カントン)省の
海南島と雲南省に住んでいます。
またミャンマー国内の「カチン」や「チン」「シャン」
「タライン」などの人々も、日本語と同系統の言語を話し、
共通の名詞をもち、風俗習慣にも私たちと多くの
共通点をもっていることがわかっています。
彼らは『漂到流球団記』の絵と同じ「貫頭衣」を、
男女とも現在もなお頑固に着つづけ、
また布で頭を包んでいますが、
これも「招頭」と
『魏書倭人章』に挙げられているものと完全に同じものです。
この絵では船の真ん中に、冠を被った女性が一人、
房飾りを下げた三叉鉾(さんさほこ)を手にして立っていますが、
これはどうみても指揮者です。
これもカリエン人の特徴の一つ「母系家長制」の表われで、
この点も天照大神や卑弥呼から奈良時代の
大和朝廷の女帝に至る系譜や伝統と、
共通したものを守り続けていることが観察できます。
そのほかにも細かい点まで多くの類似点が見られます。
絵の人物は弓で魚をとっていますが、
その弓も『魏書倭人章』の記事どおり「下が短く上が長い」。
また今のカリエン人は入れ墨を自慢にしていますが、
『魏書倭人章』も倭人は全て入れ墨していると記録しています。
戦前までは奄美地方に、
手に「ホツキ=彫突き」という入れ墨をした婦人がいました。
人種の移動は言語を調べるとよくわかります。
同じ言葉が点々と分布していれば、
それは人々が次第に広がって移住したことを示しているからです。
「絵」漂到琉球国記のスケッチ
13世紀当時の沖縄の住民が漁をしている姿を詳細に描写している。
男子の服装や鉢巻きは現在のカリエンの人々が着ている衣服と
全く同じで、
『魏書倭人章』が記録したいわゆる「貫頭衣」と「招頭」が
これであったことを裏書きしている。
ことに手前の船の中心に三叉鉾を持って指揮している女性は、
頭に冠をつけていて、その地位の高さ、
女性上位の社会を証言する。
これもまた卑弥呼当時から現代のカリエン人まで
継続している慣習と風俗で、
絵の弓が上が長く下が短いことなどまで、
3世紀の『魏書倭人章』の世界が、
13世紀までほとんど変わることなく沖縄で続いていたことを
示しているし、
また三叉鉾はギリシャ神話の「海神」を象徴する武器で、
この人々がギリシャ文化の継承者であり、
いわゆる日本神話の「海神=わたずみの神」だったことを、
この絵ではっきりと証明している。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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