2011年5月14日土曜日

金髪の卑弥呼はギリシャ系美人

 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 158~177頁
     ㈱徳間書店
           日本国誕生の秘密 

 「卑弥呼は伊都国で帯方郡使と会った」
 「卑弥呼の「私は老人」は言い訳」
 「卑弥呼の遷都は青い眼が原因」
 「呉との血縁を示す数々の証拠」
 「呉の皇帝と同族だった卑弥呼」
 「白人だった呉の皇帝・孫権」
 「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」


 


 「卑弥呼は伊都国で帯方郡使と会った」

 初回にやってきた帯方郡使・梯儁(ティシュン)は伊都(いつ)国までしかこず、
 そこに泊ったのですから、

 彼が卑弥呼に会った場所は伊都国以外の場所ではありません。

 いかに梯儁が大国(たいこく)魂の使者だとはいっても、

 辺鄙(へんぴ)な田舎の郡の建中校尉という小役人に過ぎませんから、

 女王がそれに会いにわざわざ出掛けていくことはありません。

 そして伊都国で会ったということは、そこが当時の都であり、

 そこに梯儁が見て報告書に書いた

 「城柵を厳しく設けた宮室・楼観(ろうかん)」があったということになります。

 その伊都国が、7年後に張政がきたときには、

 人口千余戸の小さな町になってしまっていました。

 それでは都であるはずがありません。

 「女王が都する邪馬壹国」は「七万戸」あると書いてあります。

 間違いなく卑弥呼は梯儁に会った後、張政がくるまでの間に、

 都をどこかに移していたのです。

 張政が伊都国で女王でなく難升米にしか会えなかったのもそのためです。

 すでに卑弥呼はほかの土地に都を移していたのです。

 その時、伊都国で張政が聞いたのは、

 「女王のいる都」はその伊都国から

 [南へ水行十日、陸行一カ月]もかかる遠方だということだったのです。
 彼は、それまで伊都国までしか書いてなかった行程に、

 伊都国の後にそれを書きこんだのです。

 しかもその南の都ではすでに内乱の激戦が展開していました。

 彼は卑弥呼の救援要請をうけて、

 争いを仲裁する任務をもって派遣されてきたのですが、

 時すでに遅く、大きな内戦が始まってしまい、

 彼は危険を避けて「争いをやめよ」という命令書だけを

 都へ届けさせました。

 だからその時は彼は伊都国に止まっていて、

 危険な地域へは行かなかったのです。

 だが間もなくかんじんの卑弥呼が死んでしまいました。

 こうして、すべての記録を総合して細かく計算すると、

 卑弥呼が遷都(せんと)した先は、

 今の鹿児島県姶良(あいら)郡の隼人町一帯以外にはないことになります。

 そこだけが

 『魏書倭人章』にも『記・紀』の「神話になった歴史」にも

 全ての条件が完全に一致するからなのです。


 「卑弥呼の「私は老人」は言い訳」


 だが卑弥呼はなぜ、

 そんな辺鄙な南九州の果てにまで都を移したのでしょう?。

 ただ「公孫氏の二の舞を踏みたくない」ということだけだったのでしょうか?

 今でも引っ越しは大変な仕事ですが、七万戸もの人々を連れて、

 そんなに遠くまで引っ越したのは、

 それがやむにやまれぬものだったことがわかります。

 その事情を考えてみた結果、

 それは彼女が梯儁に会ったことに決定的な動機があることがわかりました。

 『魏書倭人章』には卑弥呼が梯儁に

 「私は年すでに長大(大へんな年寄り)なのです」と

 [自ら謂(い)った=自分から話した]と

 会話の内容まで明瞭に書いてあります。

 普通なら老人かどうかは会っている相手には

 説明しなくてもわかります。

 それなのに「彼女は自分からそういった」と報告しているのです。

 これはごく重要な報告ですから見過ごせません。

 いったい卑弥呼はナゼ?……梯儁に、

 そんな言わなくてもいいような言い訳がましいことをいったのでしょう?

 それは彼女の髪の色に関係があるとみるほかありません。

 なぜなら彼女のすべてを総合して出した真相では、

 その時の卑弥呼の本当の年齢は40歳代と若く、

 そんなに老人ではありません。

 それなのに老人だといった理由、

 それは彼女が金髪だったからなのです。

 しかもそれは魏からみると、

 いちばん憎い呉の皇帝・孫権との血縁を疑われる恐れのある目立つ特徴でした。

 その髪の毛の色が明るい理由を、

 [私は大変な年寄りなの……、

 だから、こんな変な色の白髪なの……]と言い訳したのだとわかったのです。
  

 「卑弥呼の遷都は青い眼が原因」

 それにはもう一つ「言い訳だった」と考えられる理由があります。

 それは彼女の大急ぎの[遷都]です。

 本来なら、立派な宮殿で大国の女王らしく振る舞ってこそ、

 魏に対しても威圧と牽制(けんせい)の効果が上がるのです。

 千人と称する多数の女官を並べ、

 武器をもった衛兵をずらりと並べて、

 おごそかに梯儁を出迎えたのですから、

 髪の色のほかは全てうまくいったはずだったのです。

 それなのにその豪壮な宮殿・楼観・城柵を捨て、

 七万戸の大屋(たいおく)を捨てて大急ぎで[遷都]してしまいました。

 それは梯儁が帰ったあとで、取り返しのつかない、

 ある重大なミスを犯してしまったことに気がついたからだとしか

 考えられません。

 それはどんなことだったか?。

 彼女は髪の毛の言い訳はしたが、眼の色のことを忘れていたのです。

 梯儁がそれに気づかない訳がありません。

 とすれば、呉の人々との血縁がバレて、

 それを口実に次は魏の侵略にさらされる恐れが充分にあります。


 そう考えたからこそ、普通では非常識にそえる、

 とても困難な遠距離遷都を、

 それでなくても暗く困難な国際情勢の中で、

 やむにやまれず決行したのです。

 そうしたセッパ詰まった危機に直面したのでなければ、

 軽くみても200万人はくだらない七万余戸の人口を引き連れて、
 はるばる南九州の果てまで大移動することなどありえません。

 今のような発達した輸送機関のない当時には、

 それは空前の難事業だったのですから……。

 実は彼女がそれほどまでに、遷都実行を迫られたのは、

 呉王との血縁が事実だったからだとみられるものがまだ他にもあります。

 それは『記・紀』に使われている

 [六合(りくごう)]という言葉です。

 天照大神の誕生の記事によれば、

 卑弥呼は沖縄の伊是名(いぜな)島で生まれましたが、

 彼女は「光華(こうか)明彩で六合の内に照り徹(とお)っていた」

 と書いてあります。

 そのため両親である伊是名王(イザナキ)、伊是名女(イザナミ)の神が、

 こういったと書いてあります。

 「わが子はたくさんいるが、こんなに霊異な児ははじめてだ!……

  ここに永く置いてはいけない。

 早く天に送って天上の仕事をさせよう!……」

 これが「大日霎貴(オオヒルメノムチ)」で、

 一書には「天照大神」と書いてある、

 という書き加えもありますから、

 のちに天照大神になった卑弥呼に一致するのです。

 <写真:アダナ山>

 トルコ・イスカンダル=アレクサンドロスの遺跡
           ↓
 <写真:姫木山>

 鹿児島県姶良郡隼人町と国分市にまたがる卑弥呼の遺跡
           ↓
 <写真:夫婦(めおと)岩の夜景>

 伊勢・二見が浦の天照大神の神聖な象徴


 「呉の皇帝と同族だった卑弥呼」

 日本語で[クニ]といえば、

 「クニのおっ母(か)さん]

 [クニヘ帰る]のクニは[故郷=出身地]のことです。

 [六合]は[国家]の意味ではなく、[故郷]のことで、

 その言葉を使った人々は[六合県出身者]だったということがわかります。

 だとすれば卑弥呼が、呉の皇帝・孫権の一族と同じギリシャ系の、
 
 よく目立つ特徴をもっていても、少しも不思議ではないことになります。
 少しずつの手掛かりがしっかり結びあい隙間を埋めあって、

 金髪も、青い眼も、六合も、大遷都も疑いの余地は残りません。

 呉は、[呉孫=ウースン=烏孫(ウースン)人]が、

 筏(いかだ)を使って大挙して揚子江(ヨウスコウ)を下り、

 河口一帯に土着、繁栄していた土地でした。

 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の話で有名な、

 戦国時代の呉や王族とは800年近くもへだたって、

 中身は国も人もそっくり変わっていたのです。

 魏・呉・蜀二国の対立は、蜀は孔明の死でほとんど無力化しましたから、

 後は魏の敵は呉だけになっていました。

 魏政権の次の目標は当然、

 残る呉を倒して魏による統一中国を実現しようということでした。

 だが呉は蜀と違って、

 魏の背後に有力な同盟国・公孫氏の「燕(エン)」がいて、

 魏を挟み討ちにできる態勢を整えています。

 これが次の大問題でした。

 ここで呉とはどんな国なのかを簡単にお話ししておきましょう。

 まず「呉」というその国名の読み方から確認していく必要があります。
 日本では「呉」を、従来はいいかげんに「ゴ」と読んできましたが、
 それは言語学からいうと大変な間違いなのです。

 なぜなら中国は日本と違って広大な国土をもっていますから、

 その言語も地域ごとに大きく異なります。

 呉は中国の南部を占めていた国で、北部を占めていた魏魂や、

 西部を占めていた蜀とは同じ漢字でも、その発音がまるで違うからです。

 中国語の発音は先にお話ししたように時代と地域で大きな違いがあります。

 「呉」を私たちが「ゴ」と発音するのは、

 漢、魏の時代の北部中国語の発音なのです。

 だから文章としてお読みになるのには、

 従来通りゴとお読みになってもいいが、

 本当は呉の国では「ウー」と発音するのが

 正しいということを憶えていてください。

 なぜそれが重要かといいますと、

 いま日本は外国人には、

 ジャパン、リーペン、ハポン、ジープンなどと呼ばれていますが、
 
 「ニホン」か「ニッポン」と発音しないと日本語として通用せず、

 発音をもとにした比較研究はできません。

 日の字を<リー>とか<ハ>に当てたのでは、

 「日子」とは「リース」という英語のことだというような、

 とんでもない「コジつけ」ができあがるからです。

 「呉=ウー」も同じことで、それは正しく「ウー」と読んでこそ、

 はじめて彼らが何者だったかがわかり、

 正しい歴史の謎解きができるのです。


 「白人だった呉の皇帝・孫権」

 では呉の国民は何者だったのでしょう?。

 それは3世紀の皇帝・孫権の顔だちをみればすぐ謎が解けます。

 『魏書倭人章』の編集者・陳寿の『三国志』に入れられた

 『呉書』には彼が生まれた時のお話が特記されています。

 彼の父・孫堅(スンキン)は後漢時代には呉郡と呼ばれていた

 地域の富春(フシュン)という町の出身で、

 17歳で海賊を負かして軍人に採用され、

 184年に起こつた黄巾族(こうきんぞく)の乱と、

 その翌年涼(リョウ)州の大反乱で、

 たて続けに大手柄をたてましたので、

 抜擢されて長沙(チョウサ)郡の太守になり、

 その後の功績で「烏程侯(うていこう)」という

 貴族になった人物なのです。

 孫権はその孫堅の次男ですが、

 彼が生まれたときその顔を見て父がうなりました。

 「ううむ、これは貴相じゃ!……こいつは大した出世をするぞ!

  ……目出度い、目出度い!」とはしゃいだといいます。

 一体どんな変わった顔をしていたのでしょう?。


 「ギリシャ神話の英雄の子孫たち」

 このウースンというのは、

 『ギリシャ神話』の英雄イャーソンから出た名前です。

 その話はイヤーソンが「金毛羊皮」を求めて、

 船団を率いて遥か東の国へ遠征した物語ですが、

 それは史実が後世に次第に変型したもので、

 ギリシャ人が古い時代から東方に遠征したこと、

 その知識が本国へも伝えられていたという実例なのです。

 ギリシャ語には多くの方言がありますから、

 <イャーソン>という名は<ヨーソン>から<ユースン>、

 <ウースン>と変化します。

 先にみた「挹婁=ユーロー」とヨーロッパも同じ名詞が

 訛ったものでしたが、それはさらに日本で「ウロ=洞窟」

 という名詞を生んでいます。

 『魏志東夷伝』に彼らが「洞窟に住む」と書いてありますので、

 <ウロ>とは「ユーロー」が訛った名詞だとわかります。

 これで「イヤ」と<ヨ>と<ユ>と<ウ>との訛りかたがわかると思います。

 その地域での「ウースン」が、

 ギリシャでいうイャーソンだったこともすぐわかるのです。

 その神話に残され地名とコースが、

 東南アジアの現在の国々と一致しているので、

 今では彼らがマレー経由で台湾へきて、

 そこにギリシャの季節の女神「ホーライ」の名をつけたことも、

 その後、カリエン人と一緒になって沖縄を中心に

 一大宝貝産業を発展させたことも、明らかになってきました。

 また、古代中国の統一政権・殷人の商帝国に供給するために、

 その基地として高句麗・濊(ワイ)・烏孫(ウースン)・烏丸(ウカン)・
 鮮卑(センピ)・夫余(フユ)・挹婁(ユーロ)・沃沮(ヨース)・蒙古(モングル)などの国を

 造っていたことも、あますことなくわかったのです。

 しかし次第に金属文化が進んで貨幣が宝貝から

 金属に変わったために、彼らは営業を続けられなくなりました。

 ウースン人も新しい生活手段を求めて移動を続けた末に、

 中国に入って揚子江を河口まで流れくだって、

 古代の呉の地に根をおろしたのでした。

 このウースン人についてはもっと重大な事実があります。

 それは鹿児島県の東半分を占める

 「大隈(おおすみ)」を、地元で「ウースン」と発音することです。

 そして今も鹿児島県人には、

 大相撲(ずもう)の力士・寺尾が大隅出身であることでも

 わかるように、ギリシャ系の顔だちや背の高い白人型の体格をもった人が多く、

 ウースン人が大隅という国を作った事実を証明しています。

 この一致で、

 大隅王・卑弥呼がウースン王=呉人だったことは疑いの余地がありません。



 『検索』

 『参考』
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 歴史学講座『創世』うらわ塾         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 

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