※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 94~96頁
㈱徳間書店
しかもその一戸一戸の状態は、
「屋(おく)には室あり。父母兄弟みな臥(が)(寝る場所)、息(そく)(休む場所=居間)を異にする(全部、別々だ)」と書いています。
一人一人がそれぞれ自分用の部屋か仕切られたコーナーをもっているというのです。
魏人である帯方郡使が、それをめずらしがって特記しているのですから、中国北部の風俗・習慣と倭人のそれとが、ずいぶん違っていたことがこれでわかります。
それよりも重要なことは、家がどんなに大きかったかということです。
30人平均が、それぞれ自分用の部屋または仕切られたコーナーをもっていたとすれば、とても現在の平均的な一戸建ての家ていどのものではありません。
岐阜県白川などの大きな「合掌造り家屋」よりもさらに大きな巨大家屋が軒を連ねていたのです。
それは今のマンションやアパートメントだと思えばいいでしょう。
またこのことは、「北方騎馬民族」も、倭人とは無関係だったことを立証しています。
北方の人々は手軽な移動式のテントのような家屋に住み、一家が一つの部屋に雑居していて、別の部屋で暮らす習慣などもっていないからです。
「図」家屋文鏡とカチン人の大屋
屋根の形で住人がわかる。奈良県の佐味田宝塚古墳でみつかった銅鏡に彫ってある屋根の一つは、今ミャンマーに住むカチン人の家の特殊な屋根と全く同じだが、その大屋は個室に区切られたマンション・タイプで、『魏書倭人章』が記録している倭人の大屋の構造をよく教えてくれる。
では当時の世界で、巨大な家屋に住み、一人一人が独立した部屋に住む習慣をもっていたのは倭人だけだったのでしょうか?。
それは東アジアでは珍しがられましたが、地中海周辺のギリシャ文化圏では普通の生活様式でした。
それは現在もヨーロッパ諸国に伝統として広く残っています。
こう申し上げると、すべてがギリシャなどで見られるような、石造でなければいけないように思われる方もあると思いますが、ギリシャでも神殿や宮殿以外は骨格は木造のほうが多かったことは、現代でも現地へ行ってみればよくわかります。
もちろん3世紀の倭人はカンナやノコギリなどの鉄器をほとんどもっていませんから、当時、日本列島の他の地域にさきがけて鉄器文化の進んでいた南九州でも、建築はチョウナやナタによる荒削りなものだったに違いありませんが、外観は違っていても生活習慣は変わらなかったために、巨大家屋に住んでいたのです。
ついでにお話しすると高句麗人も「居る所の左右に大屋(たいおく)を建てて鬼神を祭る」と書てあって、大建築を建てる技術を知っていたことがわかります。
それがなぜかは、位宮のお話で推測できますが、さらに後で一層よくおわかりになります。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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