※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 120~124頁
㈱徳間書店
「高句麗王はみな沖縄出身」
「南九州王朝が支配していた高句麗」
「高句麗遺跡に現存するカリエン家屋」
「高句麗王はみな沖縄出身」
鹿児島から沖縄へかけての島々にいたカリエン人が九州を通過して、
朝鮮半島に高句麗を建国したのなら、それは歴史として残っているはずです。
三韓の正史『三国史記』「高句麗本紀]をみると、
その移動が事実だったことが、はっきりわかります。
加治木義博は『異説・日本古代国家』(1973年・田畑書店)で、
高句麗の建国が、『記・紀』にある出雲神話と同じものであり、
その舞台が薩摩半島だったことと、
その人々の[移動を立証する日本語地名]などが、
『三国史記』[地理志]を筆頭に、
びっしり詰まっていることなどを説明しましたが、
その中からいま必要なことだけをお話ししましょう。
諡号(しごう)というのは、
王族が死んだ後でつける贈り名(戒名のようなもの)ですが、
高句麗では王を埋葬した地名をその諡号に使っていますので、
その諡号は地名と王名とによつて、
その人々の移動と時代を教えてくれる証拠になります。
ただ、その人たちは沖縄出身ですから当然のことですが、
それらの高句麗王名は沖縄語で書かれています。
ですから沖縄語について少し予備知識がいります。
沖縄語は母音が<ア・イ・ウ>の三つしかなく、
<エ・オ>を発音しませんので、
<エ>と<オ>の代わりに<ア・イ・ウ>を代用します。
慣れないとおかしく聞こえますが、この原則を知っていると、
次第に理解できるようになります。
ところが使える<ア・イ・ウ>でも、
私たちの標準語に比べると混乱しているように見える使い方がありますので、
そのおもしろい[沖縄語の代表例]を挙げておきます。
<沖縄語の代表例>
e→I
o→I
o→e
o→u
[ケ=キ]
[セ=シ]
[テ=チ]
[ネ=ニ]
[へ=ヒ]
[メ=ミ]
[エ=イ]
ke→ki
se→si
te→ti
ne→ni
he→hi
me→mi
e→I
[コ=ク]
[ソ=ス]
[ト=ツ]
[ノ=ヌ]
[ホ=フ]
[モ=ム]
[ヨ=ユ]
ko→ku
so→su
to→ti
no→ne
ho→hu
mo→mu
yo→yu
[オナゴ(女子)=イナグ]
onago→inagu
[オイ(甥)=イイ]
oi→ii
[ウオ(魚)=イユ]
uo→iyu
[ウロコ(鱗・ふけ)=イリチ]
uroko→iriti
[イネ(稲)=ンニ]
ine→nni
[イモ(芋)=ンム
imo→nmu
「南九州王朝が支配していた高句麗」
これだけの知識をもった上で[高句麗本紀]をみますと、
[9代・故国川王]は「故=コ=ク、国=マ・川」で、
もうよくご存じの球磨川。
[6代・故国原王]は「故国=クマ」「原=ゲン」ですから
[クマゲ=熊毛]の王。
[7代・小獣林王]は「小=オ=イ、獣=ジュウ、林=リン=イン」、
南九州方言と朝鮮語では「リ」は「イ」と発音しますから
「イジユウイン=伊集院王」(鹿児島)。
[18代・故国壌王]は「クマ・壌=ジョウ=城王」
「クマジョウ王=隈城王」(鹿児島)。
* 九 故国川(球磨川)王
*十六 故国原(熊毛の)王
*十七 小獣林(伊集院)王
*十八 故国壌(隈之城)王
古い高句麗王名が
球磨川王(熊本)。
熊毛の王(鹿児島)。
伊集院王(鹿児島)。
隈城王(鹿児島)
という名乗りに復元できて、
それらが現在も南九州に実在する地名であること、
またその近くにその王の都があったことが、
はっきりおわかりいただけたと思います。
日本の天皇名=和風諡号(しごう)は領土名で、
埋葬地名とは違うが、
地名を諡号に使うのは結局は『記・紀』にある天皇たちと同じです。
この地名が埋葬地だとすると、当時の交通事情からみて、
土葬だった古墳時代以前に、
北朝鮮から南九州まで死体を運んだとは考えられません。
都はその埋葬地にあって領土が北朝鮮まで広がっていたのです。
<地図:高句麗王と三韓と共通の現存九州地名>
<1> タニ 種子
<2> コム 熊毛
<3> アタ 阿多
<4> クシラ 串良
<5> カクトウ 加久藤
<6> イムタ 藺牟田
<7> ソノヤマ 襲之山
<8> イシキ 伊敷
<9> イスキ 揖宿
<10> イレキ 入来
<11> ヒトヨシ 人吉
<12> ツナギ 津奈木
<13> キイレ 喜入
<14> トモチ 砥用(富有)
<15> シスイ 洒水
<16> キクチ 菊池(仇知)
<17> ウシヅ 牛津
<18> タク 多久
<19> カシヒ 香稚
<20> ツパキ 椿
<21> クキ 洞
<22> カラツ 唐津
<23> ウサ 宇佐
<24> トミキ 富来
<25> ヒジ 日出
「高句麗遺跡に現存するカリエン家屋」
戦前、梅原末治氏が古代高句麗遺跡調査の際、
その一帯に今も高床家屋があるのをみて、
亜熱帯の建築様式がなぜ寒帯にあるのか?。
と疑問を投げかけました。
しかし今、和人の北上という事実がわかってみますと、
その謎の習俗も逆に沖縄和人の発展を証明する貴重な遺物になり、
梅原氏の報告が素晴らしい証明としてよみがえってくるのです。
[奄美の高倉]は鹿児島県徳之島の名物として有名ですし、
和人=カリエンの人々はミャンマーやタイ国で、
3世紀に帯方郡使が見た倭人の家さながらの、
高床で巨大な家屋に住んでいます。
これで紀元前後の和人=高句麗人の実態が具体的に見えてきました。
有名な金印で知られる[委奴国王]らが九州より近い
漢の都まで行けたのは当然ですし、
卑弥呼が公孫氏の滅亡をいち早く知って、
ただちに魏へ使者を送ったのも、少しも不思議ではなくなります。
さらに重要なことは倭人と朝鮮半島の人々との関係が、
これまで考えられていたように血縁が薄くはなかったということです。
はるか紀元前の殷の時代には、朝鮮半島最北端の高句麗までが、
和人の宝貝文化圏だったからです。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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