※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 76~77頁
㈱徳間書店
『魏書倭人章』は末盧国上陸後のコースを「東南、陸行、五百里、伊都国に到る」と書いています。上陸点からの進行方向は「東南」だというのです。
松浦川は河口から5キロメートルほど上流までは南南西から流れてきますが、そこで折れて上流まで、ほぽ東南方向から流れてきています。
だから川沿いに上流へ向かって歩くと、「東南へ陸行する」ことになります。
念のため、広い松浦地域に、海岸から奥まった場所が壱岐から55キロメートルの地点で、そこから東南に五百里進む道のあるところが、他にもあるか調べてみましたが、すべて条件に合いません。
この「松浦川コース」一つだけが合格だったのです。
では 「五百里=27.5キロメートル」歩くと今ならどこへ着くでしょうか?。
そこには今「牛津」(佐賀県小城郡)という町があります。
『魏書倭人章』のいう「伊都国」の「南に向かって船出する港の位置」は、距離・方角からいくと、この町以外にはありませんから、その名を比べて考えてみましょう。
「牛」の字には「ゴ」という発音があります。
「ゴ=五=イツツ」ですから、これに「伊都津=イツツ」と当て字するとピッタリになります。
地名は文字によって変わるものです。
先に「伊都津」という地名があって、後にその当て字が、書きやすく記憶しゃすい「五津」になり、やがてその文字が「ゴヅ」と読まれるように変わったあと、「牛津」に文字が変わって、さらに後世また発音が変わって「ウシヅ」になったと見ると無理なく説明できます。
記録とぴったりの距離、ぴったりの方角、ぴったりの位置に、今もこうして伊都国の名をとどめる町が現存しているのです。
「地図:正しいコースは、ただ一つ」
伊都国は海の中にはない
壱岐→末盧国 →伊都国(牛津)→邪馬壹国
東南
●畿内説
●宇佐説
●甘木説
●吉野ケ里説
●奄美説
●沖縄説
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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