2011年5月3日火曜日

伊都国の遺跡「牛津」は文化財


 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 76~77頁
     ㈱徳間書店




 『魏書倭人章』は末盧国上陸後のコースを「東南、陸行、五百里、伊都国に到る」と書いています。上陸点からの進行方向は「東南」だというのです。

 松浦川は河口から5キロメートルほど上流までは南南西から流れてきますが、そこで折れて上流まで、ほぽ東南方向から流れてきています。

 だから川沿いに上流へ向かって歩くと、「東南へ陸行する」ことになります。

 念のため、広い松浦地域に、海岸から奥まった場所が壱岐から55キロメートルの地点で、そこから東南に五百里進む道のあるところが、他にもあるか調べてみましたが、すべて条件に合いません。

 この「松浦川コース」一つだけが合格だったのです。

 では 「五百里=27.5キロメートル」歩くと今ならどこへ着くでしょうか?。

 そこには今「牛津」(佐賀県小城郡)という町があります。

 『魏書倭人章』のいう「伊都国」の「南に向かって船出する港の位置」は、距離・方角からいくと、この町以外にはありませんから、その名を比べて考えてみましょう。

 「牛」の字には「ゴ」という発音があります。

 「ゴ=五=イツツ」ですから、これに「伊都津=イツツ」と当て字するとピッタリになります。

 地名は文字によって変わるものです。

 先に「伊都津」という地名があって、後にその当て字が、書きやすく記憶しゃすい「五津」になり、やがてその文字が「ゴヅ」と読まれるように変わったあと、「牛津」に文字が変わって、さらに後世また発音が変わって「ウシヅ」になったと見ると無理なく説明できます。

 記録とぴったりの距離、ぴったりの方角、ぴったりの位置に、今もこうして伊都国の名をとどめる町が現存しているのです。

 「地図:正しいコースは、ただ一つ」

 伊都国は海の中にはない

 壱岐→末盧国 →伊都国(牛津)→邪馬壹国
       東南

 ●畿内説

 ●宇佐説

 ●甘木説

 ●吉野ケ里説

 ●奄美説

 ●沖縄説



 『検索』

 『参考』
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 歴史学講座『創世』うらわ塾         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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