※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 110~113頁
㈱徳間書店
「古代難民カリエン人の東方大移動」
「超古代に実在した「壮大な倭人圏」
「カリ工ン=宝貝人=高麗人」
「倭は超大国(ユニークな仮説紹介)」
「古代難民カリエン人の東方大移動」
その「貝人」は「カウリー・高離人・カリエン・カレン・高麗」などと呼ばれてきましたが、これは韓国・北朝鮮をコーリアと呼ぶ語源です。
この名は宝貝のインドや英語の名である「カウリー」「コウリー」と全く同じものです。
中国に素晴らしい絹を織る南海の「蛟人=カゥリエン」の話がありますが、その名も、やはりこの人々のことだったのです。
私は幸いこの事実に早くから気づいていて、カレン語が日本語と同系であることなどを、テレビや新聞で発表してきましたが、篤志な視聴者の好意で、ミャンマーのカレン人がこの一族であり、その語り部がタイ国に現住していると教えられ、タイの奥地まで調査に行きました。
そのカリエン人たちは、バビロン崩壊とともに四方へ散った旧カルデア人のうち東へ大移動した集団の子孫であり、南インド経由で沖縄から日本列島そして朝鮮半島へ広がつていった、という詳細な歴史記録をもっていて、私にそのすべてを教えてくれました。
彼らはインドの南、セーシェルの海から出発して、次第に東へ移動し勢力を拡大しながら、最近まで世界最大のタカラガイ産地だった沖縄に進出して、そこを本拠に中国のイン(殷=商帝国)に貝貨を供給して、その中国統一を実現させるなど、大規模な経済活動で東アジアの大勢力になりました。
高句麗、蒙古は今でいえばその海外販売担当支社だったのです。
「超古代に実在した「壮大な倭人圏」
しかし高句麗にいた人々は不運でした。
前漢が滅んだ後に政権をにぎった王莽(オウモウ)と、
隋(ズイ)の皇帝・煬帝(ヨウダイ)とが二度も高句麗を攻めて負かし、高句麗の男性を根こそぎ江南地方に移住させて水田の開発に当たらせました。
その子孫が逃亡して次第に中国西部に広がって、雲南省から、さらに西に拡大して、ミャンマーにカレン、カレンニの二州をつくるまでに発展したのです。
だから彼らは3000年前の縄文時代から日本にいた先住民で、その後に入ってきた倭人とは、はっきり区別する必要があります。
しかし彼らを「前期倭人」とみるなら、その勢力範囲は日本から江南、そしてミャンマーまでの広大な地域にまたがることになります。
[カリエンの語り部の物語ったカリエンの歴史]によると彼らは沖縄から日本列島、朝鮮半島を経て拡大し移動しました。
忘れてはいけないのは、古代には今のような厳重な国境はなかったということです。
だからカリエンたちは、幾らでも故郷へ帰ってこれたのです。
ただ今と違って、その旅には長い年月がかかりました。
しかし丈夫な男なら、数年歩いた後、船に乗れば、また日本列島まで帰りつくことができたのです。
「カリ工ン=宝貝人=高麗人」
日本では[カレン]という名のほうがポピュラーですが、タイやミャンマーの現地へ行ってみると、その名は正確に[カリエン]と発音されています。
この一音差の[i]が謎を解いてくれたのです。どんなに小さなことも見逃してはいけないという教訓です。
いま朝鮮半島の人々を、英語ではコリアンとかコレアンと呼ぶことはよくご存じでしょう。
これをローマ字で書くと[KOREAN]。
これは訛の強い英語やその先祖のインド語では[カリエン]と発音します。
では[コレアン]とは何のことでしょう?
それが[高麗人]という名の英語読みであることはご存じだと思いますが、では[コーレ][コウリ]と発音できるこの[高麗という国名は一体……なにを意味していたのでしょう?。
それと全く同じ発音の[コーレー][コウリー]という印欧語(インド・ヨーロッパ語)の名をもった海の生物がいるのです。
それがこれまでお話ししてきた[宝貝]なのです。
昔は物の名や商品の名は、それを供給する人々の名や産地で呼ばれました。
日本刀に「長船=オサフネ」というのがありますが、それは岡山県の地名ですし、「虎徹(こてつ)」というのは作者の名前です。
だから[コーレー]という宝貝の英語名は、高麗貝という意味なのです。
「倭は超大国(ユニークな仮説紹介)」
昭和55年11月8日 土曜日 サンケイ新聞 加治木・府文化財保護審査委員
枚方市教委は八日から五回連続シリーズの歴史講座を、枚方市民会館で開くが、初日に大阪府文化財保護審議会委員、加治木義博氏が、言語学の立場から古代日本の謎に挑戦、「倭人は、朝鮮半島や東アジアのタイ、ビルマの奥地まで民族移動できるほどの国力を持った超大国であった」との大胆な仮説を紹介する。
この仮説は、「南インド、タミール語を日本語のルーツ」とみる大野晋学習院大学教授らの仮説と比べると、視点を全く逆転させたもので、「古代日本語こそ、倭人の移動とともに、海を渡り、朝鮮や東アジアに移っていった」というユニークなもの。従来の通説をくつがえす仮説でもあるだけに、この日の講座は、古代史に関心を持つ人たちの注目を集めそうだ。
一部を紹介すると-。
加治木氏は、長年「日本語は、どこからきたのか」というテーマに取り組んで研究してきたが、最近、タイの「奥地に現住する山地民族「カレン族」の言語に注目。
「一(ヒィ)、二(フゥー)、三(ミィ)…」という日本語数詞が、カレン語数詞と、母音、子音変なのうえで、極めて酷似していることに気づき、「日本語のルーツはカレン語では?」という推測に達した。
さらにその後、「宋書 倭人伝」や朝鮮の「三国史記」を研究するうちに、高句麗語数詞も、カレン語と同じように「蜜(ミツ、三のこと)、難(ナン、七のこと)、徳(トク、十のこと)」と、古代日本語の影響をうけていることを発見。
これを、さらに裏付けるように倭の五王「讃・珍・済・興・武」と治世年代を同じくする百済・新羅・高句麗の王の名前が、母音変化の上で似ていることを発見した。
こうした言語学上の類似点をひろいあげると、倭の五王(5世紀)時代、倭は世界最大の墳墓(仁徳陵)や河内湖を干拓するほどの国力をもつ。
”超大国”で「高句麗や百済などの王を兼ねていたのでは?」との考えに達した。
つまり、「倭王済(允恭天皇か)が中国王朝に求めた”使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王”などという名乗りは、いたずらに名誉を求めたのではなくて、実際の倭国の領土に支配権を主張したものだ」と説明する。
だから、加治木説の結論は「倭国は、朝鮮半島に進出し、さらに東アジアにも民族を移動させることのできるほどの”超大国”だった」というユニークな仮説に発展する。
現在日本と非常に似た言葉や風俗を持つタイ・カレン族は「倭人の子孫と考えられる」とみるわけだ。
もちろん、このユニークな仮説について、加治木氏は「あくまで仮説として受け取ってほしい。
そしてみなさんが、古代日本のナゾを解明するために、わたしの研究が少しでも役立てばうれしい」と、話している。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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