※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 88~90頁
㈱徳間書店
しかしそんなに苦労してまで、なぜ南へ行かねばならないのでしょう?
それは八代~人吉の間が約60キロメートルあることが答えです。
海抜100メートルの人吉盆地を過ぎて南の矢岳山(東京の小仏峠、神戸の摩耶山ていどの高さ)を越えれば、真南へ真っ直ぐ鹿児島湾までのゆるやかな下り道です。
それを約60キロメートル歩くと、鹿児島神宮のある隼人(はやと)町に着きます。
そこには卑弥呼と同じ発音をもった「姫木山」が神宮の背後にそびえています。
ここは18世紀末の歴史学者・本居宣長(もとおりのりなが)が『馭戎慨言(ぎょじうがいげん)』(からおさめのうれたみごと)の中で卑弥呼がいたのは九州南部だといい、その1世紀あとの1893(明治26)年に吉田東伍が『日韓古史断』で「高千穂の宮」だといった位置に一致します。
これで私たちは目指す「邪馬壹国」候補地に着きました。
しかしまだ、これで間違いないと決まったわけではありません。
『魏書倭人章』には「郡より女王国に至る、万二千余里」という計算書がついています。
これに合わなければ、最初から考え直さねばなりません。
この数字は最初の紀行文の朝鮮半島部分の最後に、「郡より倭に至る……その北岸・狗邪韓国(くじやかんこく)に到る。
七千余里」と書いてありますから、これを一万二千里から引くと、狗邪韓国から女王国までは五千余里ある勘定になります。
狗邪韓国は韓国の巨済島です。
「地図:邪馬壹国行程明細地図」
対馬国→一大(壱岐)→末盧(唐津)→伊都(牛津)→山門→八代→邪馬壹国(姫木)
澣海 玄界灘 松浦川 有明海 球磨川
壱岐 ~松浦川 南船 千余里 55.0km
松浦川~牛津 東南陸行 五百里 27.5km
牛津 ~八代 南水行 十日 82.5km
八代 ~姫木 陸行 一月 150.0km
(km数は大体の目安)
そこから九州までの実際の距離が書かれていませんが、この紀行文の数字自体が全て概算で、大体の表現で間にあわせているのですから、実情を知らない陳寿は彼の判断で、この間の距離を郡使が記した三つの千余里を足して「三千余里」と計算しています。
これを引くと末盧国以後は約二千里になります。
末盧国から五百里で伊都国でしたから、残りは約千五百里です。
奴国と不弥国への各百里は単なるコース説明で、伊都国から邪馬壹国へのコースとは無関係ですから、残る「女王国までの距離」は、この約千五百里だということになります。
これを「一里=55メートル」で換算すると82.5キロメートルになります。
これを有明海北岸と八代(やつしろ)を結ぶ直線に重ねてみますと、ほとんど同じ距離です。
これほどぴったりした数字が出るのは、倭人たちがこの距離をかなりの精度で知っていたということです。
それはまた「女王国までの距離」と書いてあることにも注意が必要です。
決して「邪馬壹国までの距離」とは書いてありません。
このことで、女王国とは八代以南に広がっていた国々=小国連合を指していたことがわかるからです。
それはこの「郡より女王国に至る、万二千余里」という総括の前に、それらの小国を「旁国(ぼうこく)」と呼んで21カ国の名を挙げ、最後の奴国の後に「ここが女王の境界が冬きるところだ」と説明してあるからでもあります。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
0 件のコメント:
コメントを投稿