2011年5月4日水曜日

八代(やつしろ)以南に広がっていた女王国

 ※出典:加治木義博:言語復原史学会
     日本国誕生の秘密 88~90頁
     ㈱徳間書店




 しかしそんなに苦労してまで、なぜ南へ行かねばならないのでしょう?

 それは八代~人吉の間が約60キロメートルあることが答えです。

 海抜100メートルの人吉盆地を過ぎて南の矢岳山(東京の小仏峠、神戸の摩耶山ていどの高さ)を越えれば、真南へ真っ直ぐ鹿児島湾までのゆるやかな下り道です。

 それを約60キロメートル歩くと、鹿児島神宮のある隼人(はやと)町に着きます。

 そこには卑弥呼と同じ発音をもった「姫木山」が神宮の背後にそびえています。

 ここは18世紀末の歴史学者・本居宣長(もとおりのりなが)が『馭戎慨言(ぎょじうがいげん)』(からおさめのうれたみごと)の中で卑弥呼がいたのは九州南部だといい、その1世紀あとの1893(明治26)年に吉田東伍が『日韓古史断』で「高千穂の宮」だといった位置に一致します。

 これで私たちは目指す「邪馬壹国」候補地に着きました。

 しかしまだ、これで間違いないと決まったわけではありません。

 『魏書倭人章』には「郡より女王国に至る、万二千余里」という計算書がついています。

 これに合わなければ、最初から考え直さねばなりません。

 この数字は最初の紀行文の朝鮮半島部分の最後に、「郡より倭に至る……その北岸・狗邪韓国(くじやかんこく)に到る。

 七千余里」と書いてありますから、これを一万二千里から引くと、狗邪韓国から女王国までは五千余里ある勘定になります。

 狗邪韓国は韓国の巨済島です。

 「地図:邪馬壹国行程明細地図」

 対馬国→一大(壱岐)→末盧(唐津)→伊都(牛津)→山門→八代→邪馬壹国(姫木)

    澣海   玄界灘  松浦川    有明海    球磨川


 壱岐 ~松浦川  南船   千余里  55.0km

 松浦川~牛津  東南陸行  五百里  27.5km

 牛津 ~八代   南水行  十日   82.5km

 八代 ~姫木    陸行  一月  150.0km

  (km数は大体の目安) 

 そこから九州までの実際の距離が書かれていませんが、この紀行文の数字自体が全て概算で、大体の表現で間にあわせているのですから、実情を知らない陳寿は彼の判断で、この間の距離を郡使が記した三つの千余里を足して「三千余里」と計算しています。

 これを引くと末盧国以後は約二千里になります。

 末盧国から五百里で伊都国でしたから、残りは約千五百里です。

 奴国と不弥国への各百里は単なるコース説明で、伊都国から邪馬壹国へのコースとは無関係ですから、残る「女王国までの距離」は、この約千五百里だということになります。

 これを「一里=55メートル」で換算すると82.5キロメートルになります。

 これを有明海北岸と八代(やつしろ)を結ぶ直線に重ねてみますと、ほとんど同じ距離です。

 これほどぴったりした数字が出るのは、倭人たちがこの距離をかなりの精度で知っていたということです。

 それはまた「女王国までの距離」と書いてあることにも注意が必要です。

 決して「邪馬壹国までの距離」とは書いてありません。

 このことで、女王国とは八代以南に広がっていた国々=小国連合を指していたことがわかるからです。

 それはこの「郡より女王国に至る、万二千余里」という総括の前に、それらの小国を「旁国(ぼうこく)」と呼んで21カ国の名を挙げ、最後の奴国の後に「ここが女王の境界が冬きるところだ」と説明してあるからでもあります。




 『検索』

 『参考』
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 歴史学講座『創世』うらわ塾         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


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