※出典:加治木義博:言語復原史学会
日本国誕生の秘密 114~116
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「和人、倭人、縄文人、弥生人、古墳人の区別」
「弥生・銅鐸人はヤオ人」
「和人、倭人、縄文人、弥生人、古墳人の区別」
その[高麗]は古くから鹿児島の南の海上にありました。
こう見てくると今もそこにある[宝島]が何を意味するかも、
その島を中心とする島々が[吐喝喇(とから)列島]と呼ばれていることも少しも不思議ではありません。
『魏書倭人章』には、この高麗とよく似た国名の[高句麗]がありますが、
それによると紀元9年に[前漢]を乗っ取って[新]という国名に変えた王莽(オウモウ)が、東胡を討つために高句麗人を動員したという記事が出ています。
だから高句麗が紀元前からあったことは間違いありません。
この国と高麗がどういう関係にあるか考えてみましょう。
高句麗は朝鮮語の発音では[コグリョ]と聞こえます。
また『日本書紀』では高句麗とは書かず、必ず高麗と書いてあります。
だから高麗と高句麗は同じ国だったのです。
中国語の[人]の発音は[リェン]に近く、[カ人]は[カリェン]と聞こえます。
カリエンの人々は、むかし中国で[夏・和=カ]と呼ばれた人たちで、和人と倭人が同じだとされていた理由であり証拠でもあります。
しかし厳密にいうと[和人]は縄文時代から日本列島にいましたが、[倭人]のほうは卑弥呼の時代にはじめて九州へきたインドのアショカ仏教布教団が、東アジアに広めた初期仏教信者のことで同じではありません。
[倭人]はいま古墳と呼ばれている
記念物「ストゥーパ」を日本に建て始めた人々です。
[和人]が縄文人なら、[倭人]は[古墳人]なのです。
「写真」銅鼓を叩くヤオ人」
鉢巻きをした男たちが戚努よく銅鼓を叩く。
中国四川省の少数民ヤオ人の祭り風俗だが、
大阪の八尾市にもよく似た「河内音頭」が残っている。
近畿は銅鐸文化圏の発展地であり、この2種類の青銅楽器をもつ2つのヤオが、
同族であることは明らかである。
「写真」:芝遺跡の神殿図?の蝸牛文
1996年6月、奈良県桜井市の芝遺跡の土器片に彫られた家屋図が、
同市教育委員会から発表された。
1世紀のものだというが、
それをよく観察すると家屋の下部に多数の蝸牛文が丁寧に彫られている。
これは現在も東南アジアに広く分布している
ヤオ、アカ、カリエンなどの人々が崇拝している縁起物の「カタツムリ=蝸牛」の象徴で、
銅鐸や銅剣などにも多く見られる弥生人の象徴である。
鉄器人である卑弥呼ら古墳人との区別点は明瞭。
「弥生・銅鐸人はヤオ人」
また厳密にいうと[倭人]は[弥生人]とも違います。
そのことは『倭人章』が[銅鐸(どうたく)]について何一つ書かないことではっきりわかります。
弥生時代後期の本州西部には銅鐸を使う人たちが住んでいましたが、古墳時代には銅鐸は姿を消しました。
勢力の交替があったことがはっきりしています。
当然倭人は弥生人と区別しなければなりません。
[銅鐸人]の弥生人は、紀元前のベトナム・ドンソン遺跡から立派な銅鼓が出ているので、そのあたりからの移住者だったことがわかっています。
中国には今も銅鼓を太鼓のように使っているヤオ(揺)人と呼ばれる少数住民がいますが、日本でも銅鐸の出土する地域には八尾、八百井、矢追、八百板などという地名や姓が残っています。
これから考えると弥生時代の名の起こりになった東京都の「弥生」町の名も、古代にはヤオ人が住む「弥=ヤ・生=オ」と呼ばれた土地だったものが、時が経つにつれて文字のせいでヤオイと読まれ、ヤヨイと訛ったものだとわかります。
『検索』
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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