出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
155~157頁
私たちが<日本の鏡>の語源を考えてみると、
<日>を<カ>という人々が、
<日(カ)神>と書いて<カカミ>、
または<カガミ>と発音したことも考えられるし、
三日四日という意味の、日時の日と、太陽の日とを並べて
<日日見>と書き<カカミ>、
または<カガミ>と発音したとも考えられる。
どちらの場合も、日を役立てるもの、
という内容をもつていて顔を写すということは語源なっていない。
むしろ逆に、<日日>を<カホ>と発音して、
これが顔という日本語を生み出したと考えられる。
<日日>という用字からみて、
これは第二義的なものだったのである。
このことはまた古代日本で<鏡が王族の象徽>とされたことからも
証明される。
それは各家庭に幾個かずつ有るというものではなくて、
ごく高位の者の古墳と思われるものからでも、
時には一面しか出土しないという貴重品であった。
これは鏡の役割が、
<領土の境界を定め>、<国土を守り>、併せて<祭祀用にも使い>、
また<官位を証明する辞令>としての殷や周の銅器の役目を
承けついでいたからである。
だから所有者の墓碑銘に当るものとして埋めたので、
実用品なら子孫が化粧用に使うのである。
このことが理解できると、
魏王が卑弥呼に百枚の鏡を贈った理由もまた理解できる。
百という数字は、かって中国に朝貢していた
倭人百ヶ国と一致する。
しかし魏に朝貢したのは邪馬臺国を代表とする
三十ヶ国に過ぎなかった。
<公孫氏>を倒して朝鮮を征服した魏は
大国倭人の動向に神経質になっていた。
そこで魏王は卑弥呼に百ヶ国が朝貢するように努力せよと
注文をつけたのである。
それは<景初二年十二月の詔書>に書いてある。
使者らが帰りついて贈物を受けとったら
「悉(こと)ごとく汝の国中の人に示して、
魏が親のようにいとほしみ目をかけていることを
知らしめなさい、
そのためにこそ鄭重に汝が必要とする品々を
下賜したのである」と、
その目的をはっきり教えているのである。
このことは、百枚の鏡が、その後どうなったかを考える上で
重要なことである。
卑弥呼の墓を掘れば百枚の鏡が出てくるなどと
考えることはできない。
卑弥呼自身は鏡を王たちに与えられなかった可能性もあるが、
倭王は216ヶ国を征服した。
百枚では足らなかったのである。
さらにつけ加えておくのはこの卑弥呼用の鏡は、
もう方位盤としては使えないものになっているという点である。
それが何故かも考えれはわかると思う、想像でなく、
様々の証拠を集めて本当の推理を楽しまれたい。
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「コラム:磁針はいつからあったか
(商周代の字型の意味)」(加治木原図)
中国では邪馬臺国の頃には<地相家>が<磁針>を
使っていた記録がはっきり残っている。
後漢代の論衡中にも司南という磁針利用の占い具が登場する。
また黄帝が<指南車>を使用したという伝承もある。
これが磁針の応用かどうかは不明だが,
殷周文字の字型を見るとそれは磁針に
基づくものというほかない。
こうした字型や伝承や指南といった名が先にあり、
そのはるか後に偶然にも都合よく
「文字通り」南を指す磁針が見つかったということは、
まずあり得ない。
鏡の鈕にみられる天測と磁針のズレに相当するものは
磁針の存在を裏書きするものと考えるべきものである。
<1>~<5>は南を意味する午。
<6>~<8>は北を意味する子である。
<1>父乙鼎。
<2>功仲盒。
<3>文王命癘鼎。
<4>周琥。
<6>父辛單。
<7>子乙斗。
<8>召伸考父壷。
<1>と<6>が商代。
<5>は漢代。他は周代のもの。
<3>と<7>、<8>は鏡の円周と鈕、方格などを表現しており、
ことに<3>は鈕に棒を通した形をしている。
これでみると商には磁針があり、周には鏡があったことになる。
(中国では現代地図とは逆に南が正面で上にくる。
午と子とで指示方向が正反対になっている点に注意)
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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