2010年6月3日木曜日

王者の利器『鏡』(4)

出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    155~157頁

 
 私たちが<日本の鏡>の語源を考えてみると、

 <日>を<カ>という人々が、

 <日(カ)神>と書いて<カカミ>、

 または<カガミ>と発音したことも考えられるし、

 三日四日という意味の、日時の日と、太陽の日とを並べて

 <日日見>と書き<カカミ>、

 または<カガミ>と発音したとも考えられる。

 どちらの場合も、日を役立てるもの、

 という内容をもつていて顔を写すということは語源なっていない。

 むしろ逆に、<日日>を<カホ>と発音して、

 これが顔という日本語を生み出したと考えられる。

 <日日>という用字からみて、

 これは第二義的なものだったのである。

 このことはまた古代日本で<鏡が王族の象徽>とされたことからも

 証明される。

 それは各家庭に幾個かずつ有るというものではなくて、

 ごく高位の者の古墳と思われるものからでも、

 時には一面しか出土しないという貴重品であった。

 これは鏡の役割が、

 <領土の境界を定め>、<国土を守り>、併せて<祭祀用にも使い>、

 
 また<官位を証明する辞令>としての殷や周の銅器の役目を

 承けついでいたからである。

 だから所有者の墓碑銘に当るものとして埋めたので、

 実用品なら子孫が化粧用に使うのである。

 このことが理解できると、

 魏王が卑弥呼に百枚の鏡を贈った理由もまた理解できる。

 百という数字は、かって中国に朝貢していた

 倭人百ヶ国と一致する。

 しかし魏に朝貢したのは邪馬臺国を代表とする

 三十ヶ国に過ぎなかった。

 <公孫氏>を倒して朝鮮を征服した魏は

 大国倭人の動向に神経質になっていた。

 そこで魏王は卑弥呼に百ヶ国が朝貢するように努力せよと

 注文をつけたのである。

 それは<景初二年十二月の詔書>に書いてある。

 使者らが帰りついて贈物を受けとったら

 「悉(こと)ごとく汝の国中の人に示して、
 
  魏が親のようにいとほしみ目をかけていることを

 知らしめなさい、

 そのためにこそ鄭重に汝が必要とする品々を

 下賜したのである」と、

 その目的をはっきり教えているのである。

 このことは、百枚の鏡が、その後どうなったかを考える上で

 重要なことである。

 卑弥呼の墓を掘れば百枚の鏡が出てくるなどと

 考えることはできない。

 卑弥呼自身は鏡を王たちに与えられなかった可能性もあるが、

 倭王は216ヶ国を征服した。

 百枚では足らなかったのである。

 さらにつけ加えておくのはこの卑弥呼用の鏡は、

 もう方位盤としては使えないものになっているという点である。

 それが何故かも考えれはわかると思う、想像でなく、

 様々の証拠を集めて本当の推理を楽しまれたい。

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 「コラム:磁針はいつからあったか

  (商周代の字型の意味)」(加治木原図)

 中国では邪馬臺国の頃には<地相家>が<磁針>を

 使っていた記録がはっきり残っている。

 後漢代の論衡中にも司南という磁針利用の占い具が登場する。

 また黄帝が<指南車>を使用したという伝承もある。

 これが磁針の応用かどうかは不明だが,

 殷周文字の字型を見るとそれは磁針に

 基づくものというほかない。

 こうした字型や伝承や指南といった名が先にあり、

 そのはるか後に偶然にも都合よく

 「文字通り」南を指す磁針が見つかったということは、

 まずあり得ない。

 鏡の鈕にみられる天測と磁針のズレに相当するものは

 磁針の存在を裏書きするものと考えるべきものである。

 <1>~<5>は南を意味する午。

 <6>~<8>は北を意味する子である。

 <1>父乙鼎。

 <2>功仲盒。

 <3>文王命癘鼎。

 <4>周琥。

 <6>父辛單。

 <7>子乙斗。

 <8>召伸考父壷。

 <1>と<6>が商代。

 <5>は漢代。他は周代のもの。

 <3>と<7>、<8>は鏡の円周と鈕、方格などを表現しており、

 ことに<3>は鈕に棒を通した形をしている。

 これでみると商には磁針があり、周には鏡があったことになる。

 (中国では現代地図とは逆に南が正面で上にくる。

 午と子とで指示方向が正反対になっている点に注意)

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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