2010年6月10日木曜日

卑弥呼の語源


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    178~180頁

 このうち薩摩の二ヶ所と宮崎は、

 道路の距離を実測してみると余りに遠すぎて条件にあわず、

 また前者は<八代>に上陸して山越えをする必然性もない。

 残る三つの中に目ざす<邪馬壱国>があるのである。だが、

 それは殆んど等距離で甲乙がつけ難いが、

 倭人伝にはこれ以上の手がかりは

 もう無いように見える。

 せっかくここまで追いつめながら、

 指の問からスルリと消え去ってしまったのであろうか。

 いや私たちは、もう答えを知っているのである。

 <卑弥呼>の名が何を意味したかを知り、

 その名がどこからどこへ移動したかも知っている。

 その姶良郡の中に<隼人>の町があり、

 <鬼奴国>の<栗野>がある。

 <人吉>から山を下れば、

 その姶良郡は眼の前に横たわっているのである。

 <鹿児島神官>のある<隼人>こそ、

 千古の謎を秘めた<邪馬臺国>だったのである。

 残り少ない紙数を有効に、

 出来るだけ多くの証拠を御覧にいれることにしよう。

 昭和10年に出版された島戸貞良氏著「鹿児島方言辞典」

 (鹿児島県志布志町在住の著者の自費出版物)中に、

 次の一項がある。
                               
 「ヒメコサア(クワンノンコ)クワンノンコウ 観音講。
       ┌─┐ ┌┐ 
   姫講様[ヒメコウサマ](ヒメコサア)。毎月婦人の拝む講。」

  「コラム:卑弥呼(原音は<ヒミコ>ではない)」

     上古音  中古音   近世音

  卑  pieg      pjie      pi

          ペ    ペ    ピ
 
  弥    miar      mjie      mi

          マ    メ    ミ

  呼    ka        ruo       hu

          カ    ロ    フ


 観音様というのは観世音菩薩のことであるから。

 慈悲の仏さまということになる。

 慈悲というのは私たちの現代語になおすと

 結局「愛」ということに落ちつく語である。

 この愛を、パーリ語では「ペマカ」という。

 上古音でよむと卑弥呼はピッタリ

 「ペマカ」への当て字だとわかる。

 これが沖縄へ真っ直ぐに入ると、どうなるか。

 <エ>音がないから<ペ>は<ピ>にかわり、

 <ピ>は<フィ>と発音される。

 <マ>は<目>(メ)と同じで<ミ>と発音される。

 <カ>は<カ>または<クァ>と発音される

 (これは<觚>という字が<コ>の部分に

 当てられた三つの例をすでに見た。
 
 それはパーリ語の<カ>がそのまま入ってきていた

 証拠であるから「フィミカ」となる。

 これが、さらに九州へ上陸し、<フィ>は<ヒ>に、

 <ミ>は<メ>に、<カ>は<クヮ>即ち<コ>と

 沖縄音が南九州音に変った可能性もある。

 どちらから行っても、<ペマカ>から<ヒメコ>へ

 無理なく移行する関係にある。

 そればかりではない。

 パーリ語には同じ「愛」を意味する語に<ピヤ>という

 発音のものがある。

 日本では<弥>に対する独得の発音に「ヤ」がある。

 これは<卑弥>を、<ペメ>と<ピヤ>の二つに読んだために、

 <ヤ>の音が定着したと考えると謎が解消することになる。

 この<ピヤ>の音が日本に入っていたとすると、

 さらにもう一つの謎もとける。

 それは<ピヤ>の音にはパーリ語では櫂(かい)の意味も

 あるからである。

 <ア>と<カ>は<阿>と<可>の文字でわかる通り、

 発音の強弱差に過ぎない。

 また、<卑弥>を翻訳して<カイ>と発音することから、

 <卑弥呼>が<カイコ>となり、

 それが<オシラ神と蚕>の関係を説明する可能性も、

 見逃すことのできない重要なものである。

  さらにこの愛をマレー語では「カシー」という。

 だから<ペマカ>はマレー経由でなく、

 パーリ語のままで沖縄へ入ったのである。

 この<カシー>を頭音使用と考えると、

 <観世音>は北京音で<コァンシューイン>、

 中国中部各地で<クァンシイン>であるから、

 <クヮ>と<カ>、<シ>と<シ>、<イ>と<イ>でピッタり一致する。

 これはマレー語の<カシー>に<合意の観世音>という漢字を

 あてたものであることは明らかである。

 なぜそう決められるかというと、

 <観世音菩薩>は古来「南海古仏」として知られているからである。

 この南海はインドと中国の南で間違いなく

 マレー語圏を指している。

 そしてそのマレー語「カシー」もまた九州に入っているのである。

 それは福岡の<香椎>である。

 ここには神功皇后を祭神とする香椎廟と、

 仲哀天皇を祭神とする古(ふる)宮とがあり、

 大正4年に合祀され現在では一つの香椎宮として鎮座し、

 かっては官幣大社であった。

 この<香椎>という地名は、次のように

 最も古くかつ日本の建国に結びつく

 国生み神話中の人物に深いかかわりがあるのである。

 いま<鹿児島神宮>と呼ばれている神社は、

 古くは<大隅一の宮>、

 または<正(しょう)八幡宮>とよばれていた。

 その正八幡縁起をよんでみると、

 要点は次のようになっている。

 「惟賢比丘筆記」

 『震旦国の陳大王の7歳になる王女

 「大比留女(オオヒルメ)」が、

 朝日が胸を照した夢を見たところ懐妊し、王子を生んだ。

 大王は異常な出来事に恐れをなして母子を

 船にのせて海に流すと、その船は大隅の磯についた。

 そこで王子の名「八幡」をとってその場所を八幡崎と名づけ、

 王子を祭ったのが<正八幡宮>である。

 母の王女は筑前に行き「<香椎>聖母大菩薩」と

 崇(あが)められた。』

 日本書記の国生みの段は多くの一書が

 あって記事内容が一定しないが、それを総合してみると

 「天下の主として日神その名を

 <大日霊貴>(オオヒルメノムチ)またの名<天照大神>を生み、

 <月弓尊>を生み」この二人を

 「霊異之児」であるから此国に留めておいてはならないとして

 天に送った。という。

 ところが一書では、

 その前または後で蛭児(ヒルコ)が生れたが

 3歳になっても脚が立たないので、 

 淡洲(あわしま)という人物と共に

 葦船または天の磐豫樟(いわクス)船にのせて流した。とある。

 縁起と紀は多くの一致点をもっていることに

 お気づきになると思う。

 そして<鹿児島神宮>の祭神は、

 「八幡」でも「応神天皇」でもなくて、

 正しく「<ヒルコ>の命」別名、

 <天津日高彦火火出見尊>と<豊玉比売命>なのである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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