出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
178~180頁
このうち薩摩の二ヶ所と宮崎は、
道路の距離を実測してみると余りに遠すぎて条件にあわず、
また前者は<八代>に上陸して山越えをする必然性もない。
残る三つの中に目ざす<邪馬壱国>があるのである。だが、
それは殆んど等距離で甲乙がつけ難いが、
倭人伝にはこれ以上の手がかりは
もう無いように見える。
せっかくここまで追いつめながら、
指の問からスルリと消え去ってしまったのであろうか。
いや私たちは、もう答えを知っているのである。
<卑弥呼>の名が何を意味したかを知り、
その名がどこからどこへ移動したかも知っている。
その姶良郡の中に<隼人>の町があり、
<鬼奴国>の<栗野>がある。
<人吉>から山を下れば、
その姶良郡は眼の前に横たわっているのである。
<鹿児島神官>のある<隼人>こそ、
千古の謎を秘めた<邪馬臺国>だったのである。
残り少ない紙数を有効に、
出来るだけ多くの証拠を御覧にいれることにしよう。
昭和10年に出版された島戸貞良氏著「鹿児島方言辞典」
(鹿児島県志布志町在住の著者の自費出版物)中に、
次の一項がある。
「ヒメコサア(クワンノンコ)クワンノンコウ 観音講。
┌─┐ ┌┐
姫講様[ヒメコウサマ](ヒメコサア)。毎月婦人の拝む講。」
「コラム:卑弥呼(原音は<ヒミコ>ではない)」
上古音 中古音 近世音
卑 pieg pjie pi
ペ ペ ピ
弥 miar mjie mi
マ メ ミ
呼 ka ruo hu
カ ロ フ
観音様というのは観世音菩薩のことであるから。
慈悲の仏さまということになる。
慈悲というのは私たちの現代語になおすと
結局「愛」ということに落ちつく語である。
この愛を、パーリ語では「ペマカ」という。
上古音でよむと卑弥呼はピッタリ
「ペマカ」への当て字だとわかる。
これが沖縄へ真っ直ぐに入ると、どうなるか。
<エ>音がないから<ペ>は<ピ>にかわり、
<ピ>は<フィ>と発音される。
<マ>は<目>(メ)と同じで<ミ>と発音される。
<カ>は<カ>または<クァ>と発音される
(これは<觚>という字が<コ>の部分に
当てられた三つの例をすでに見た。
それはパーリ語の<カ>がそのまま入ってきていた
証拠であるから「フィミカ」となる。
これが、さらに九州へ上陸し、<フィ>は<ヒ>に、
<ミ>は<メ>に、<カ>は<クヮ>即ち<コ>と
沖縄音が南九州音に変った可能性もある。
どちらから行っても、<ペマカ>から<ヒメコ>へ
無理なく移行する関係にある。
そればかりではない。
パーリ語には同じ「愛」を意味する語に<ピヤ>という
発音のものがある。
日本では<弥>に対する独得の発音に「ヤ」がある。
これは<卑弥>を、<ペメ>と<ピヤ>の二つに読んだために、
<ヤ>の音が定着したと考えると謎が解消することになる。
この<ピヤ>の音が日本に入っていたとすると、
さらにもう一つの謎もとける。
それは<ピヤ>の音にはパーリ語では櫂(かい)の意味も
あるからである。
<ア>と<カ>は<阿>と<可>の文字でわかる通り、
発音の強弱差に過ぎない。
また、<卑弥>を翻訳して<カイ>と発音することから、
<卑弥呼>が<カイコ>となり、
それが<オシラ神と蚕>の関係を説明する可能性も、
見逃すことのできない重要なものである。
さらにこの愛をマレー語では「カシー」という。
だから<ペマカ>はマレー経由でなく、
パーリ語のままで沖縄へ入ったのである。
この<カシー>を頭音使用と考えると、
<観世音>は北京音で<コァンシューイン>、
中国中部各地で<クァンシイン>であるから、
<クヮ>と<カ>、<シ>と<シ>、<イ>と<イ>でピッタり一致する。
これはマレー語の<カシー>に<合意の観世音>という漢字を
あてたものであることは明らかである。
なぜそう決められるかというと、
<観世音菩薩>は古来「南海古仏」として知られているからである。
この南海はインドと中国の南で間違いなく
マレー語圏を指している。
そしてそのマレー語「カシー」もまた九州に入っているのである。
それは福岡の<香椎>である。
ここには神功皇后を祭神とする香椎廟と、
仲哀天皇を祭神とする古(ふる)宮とがあり、
大正4年に合祀され現在では一つの香椎宮として鎮座し、
かっては官幣大社であった。
この<香椎>という地名は、次のように
最も古くかつ日本の建国に結びつく
国生み神話中の人物に深いかかわりがあるのである。
いま<鹿児島神宮>と呼ばれている神社は、
古くは<大隅一の宮>、
または<正(しょう)八幡宮>とよばれていた。
その正八幡縁起をよんでみると、
要点は次のようになっている。
「惟賢比丘筆記」
『震旦国の陳大王の7歳になる王女
「大比留女(オオヒルメ)」が、
朝日が胸を照した夢を見たところ懐妊し、王子を生んだ。
大王は異常な出来事に恐れをなして母子を
船にのせて海に流すと、その船は大隅の磯についた。
そこで王子の名「八幡」をとってその場所を八幡崎と名づけ、
王子を祭ったのが<正八幡宮>である。
母の王女は筑前に行き「<香椎>聖母大菩薩」と
崇(あが)められた。』
日本書記の国生みの段は多くの一書が
あって記事内容が一定しないが、それを総合してみると
「天下の主として日神その名を
<大日霊貴>(オオヒルメノムチ)またの名<天照大神>を生み、
<月弓尊>を生み」この二人を
「霊異之児」であるから此国に留めておいてはならないとして
天に送った。という。
ところが一書では、
その前または後で蛭児(ヒルコ)が生れたが
3歳になっても脚が立たないので、
淡洲(あわしま)という人物と共に
葦船または天の磐豫樟(いわクス)船にのせて流した。とある。
縁起と紀は多くの一致点をもっていることに
お気づきになると思う。
そして<鹿児島神宮>の祭神は、
「八幡」でも「応神天皇」でもなくて、
正しく「<ヒルコ>の命」別名、
<天津日高彦火火出見尊>と<豊玉比売命>なのである。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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