出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
186~191頁
さらに<卑弥呼>がパーリ語の<愛>であるという語源を
全く知らなかった江戸時代の古代史家、
鶴峰戊申が卑弥呼を熊襲国の女王として
大和の神功皇后に似せた姫尊(ヒメミコト)と
名乗った者としながら、
この可愛山陵を彼女の塚である、としている。
キメ手になるものを持たずに、
ただその大体の地理条件から邪馬臺国の位置を
大隅か薩摩のうちにあると見抜き、
必ず塚や城柵のあとが遺跡として残っているはずだとして、
この山陵を見出したのであった。
しかし、この山陵は卑弥呼の墓としての伝承はもっていない。
<可愛山陵>と書いて<エノヤマノミササギ>と読まれ、
延喜式の治部省諸陵寮の条には、
筆頭に「日向埃山陵」と書かれている。
<埃>は<エ>で、愛(アイ)の短音化した<エ>に
<埃>の字を当てたものである。
<愛>を<エ>と発音する例は、滋賀県の愛知川をエチ川と発音し、
記の国生みの段の「好(エエ)男、好女」が愛意登古(エオトコ)、
愛意登売(エオトメ)と
書かれているなど幾らでも挙げられるが、
この陵はニニギの尊のものとされているのである。
延喜式では続けて
「天津彦彦火瓊瓊杵尊。在日向国。無陵戸」とある。
神代三山陵の筆頭として皇室の最も尊崇厚かるべき
天孫降臨の天孫その人の墓が、
延喜式の当時すでに墓守りさえ居ないという矛盾が見られる。
ここで注意を要するのは、
<エ>の音だけでなく、<アイ>の音があったことが、
<川合>という用字ではっきり立証されていることである。
この陵は山頂にあり、山はどの山でも必ず周囲は谷で、
常に川に挟まれているのであるから、
この陵の<川合>は特に川やその合流点を示していない。
これは<カアイ>という発音に対する、
ごく自然な当て字と見るのが妥当である。
では<カアイ>とは何を意味するか。
<愛>を<アイ>と発音するのはいうまでもなく
漢民族系の人々である。
その中国と日本との共通習俗の一つに、
親愛の情をあらわす一法として相手の名または代名詞に
阿の字を冠する習いがある。
オ花、オ母、オ前など、よく御存知の通りである。
だから愛は「阿愛」であった。
この<阿>は多くの例で<カ>とも発音されていたことが
明らかになっている。
中国式に読むと<アアイ>だが、
日本式では<オアイ>、
沖縄式では<ウアイ>となる。
この<オアイ>と<ウアイという
二た通りの発音のままの地名ならびに姓が、
鹿児島には非常に古くからある。
それは「上井」と書かれ、
これが姓として呼ばれる時は敬称の殿をつけて
「ワッドン」と聞こえる。
このッは助詞の「津」であるから
「ワの殿」であり「倭の殿」または「和の殿」という
形を示している。
この<倭>は、北京音では<ウェイ>であって
<上井>とピッタリ一致する。
<上井>を<ウェイ>とよむのは本州弁で、
鹿児島では<ウアイ>または<オアイ>と発音する。
さらに<倭>の<ウェイ>と同音には<隈>、<尾>などがある。
<隈>は和音<クマ>で、
川内市の古い中心になった隈(くま)之城と一致し、
<尾>は倭の沖縄音<ゥオ>と一致する。
<クマ>が<日>の一音であったことはすでに見たから、
ここでも<愛>と<日>は<姶良>の<アイ国><アヒ国>と同じく
固く結びあっていたのである。
中国系のある人々は<卑弥呼>を自らの言葉で<阿愛>と呼び、
やがてそれに<倭>の字をあてた。
それがまた多くの同義語と当て字を生み出して行った証拠が
ずらりと整列して見られるのである。
「写真:卑弥呼の名をもつ日本最古の山陵」(川上正治氏撮影)
鹿野島県川内市の可愛山陵の遠望。
「図:現代語の相互関係(模式図)」(加治木原図)
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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