2010年6月17日木曜日

伊支馬はシバ王、薩摩王

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 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    195~197頁

 ここで問題があるのは、同じ倭人章にある<邪>字の発音である。

 <狗邪韓>は従来<クヤカン>とよまれてきたが、

 これはあり得ないとすれば<クディァカラ>となる。

 これは<ディァ>を日本流に<ダ>と発音すると<クダ>。

 <カラ>の<カ>を助詞の<ヶ>とすればクダヶ国。

 すなわち<クダラ>という国名に対する当て字ということになり、

 意味不明のクヤカソの誤りを証明することになるし、

 謎が一つとけたことにもなるのである。

 さらに検算を続けると、

 <掖邪狗>は<八坂>に対する当て字であったことはすでに見た。

 これは<ヤザカ>とよんだ結果だが、

 さらに<邪>を<ヂウォ>におきかえて見ると<ヤヂウォコ>となる。

 これもまた『記紀』に大国主の別名として記録されている

 八千矛に合う。

 さらに様々な発音の多民族が混住していたことと、

 すべての濁音を清音化し、

 短音化するという習慣が今に尾をひいている

 事実とを考え合せると、

 <ヂァ>は<ザ>に変って座摩(座間)という神名や地名を生み、

 さらに<サ>に変ったことも凝う余地がない。

 それは<八坂>が<ヤザカ>と<ヤサカ>の

 二た通りに発音されている事実とともに、

 国造本紀などに、武蔵の国に対して旡邪志国と

 当て字している例がある。

 <邪>は<サ>として使われている。

 これは邪馬臺国があったと同じ地域が、

 後世薩摩と書かれていることに結びつく。

 薩摩と書いて中国ではサモア島を意妹する。

 だからサマという発音に変ったものが、

 <サ>の国という形の<サ>津<マ>と助詞を挟んで

 <サツマ>となったと証明できるのである。

 こうしたことは為政者や居住者の勢力の消長を反映して起る。

 私たちにとっては重要な研究課題であることが

 おわかり戴けたと思う。

 「コラム:石体神社の由緒」(加治木原図)

 「彦火火出見尊のさだめられた高千穂宮のあとで、

 鹿児島神宮の旧鎮座地であります。

 {水鏡}や{今昔物語}などに応神天皇の生誕地としるされ、

  石神の信仰は古代より続いています。

  海幸、山幸にあやかる
 
  潮満の玉、

  潮干の玉、

  神功皇后の干満二玉もよく知られています。

  ここの小石は安産護符です。」とある。

 さらに角度を変えて<邪>の字のもつ意味を見てみると、

 『詩経』では「其虚其邪」とあって<徐>と同じ意味に用い。

 『史記』では「帰邪於終」と<余>と

 同じ語として使っている例がある。

 この<徐>はすでに見た通り韓国の首都の名に

 今も残る鹿児島弁の<徐伐><ソフル>の<徐>で、

 <襲>や<囎唹>に当るものであった。

 また<余>は、<磐余>、または<石余>と書いて<イハレ>と読み、

 <石禮>の<イハレ>と同一の地を指す。

 その石禮に当る<石體神社>のある位置が、

 <ヒルコ>を祭る<鹿児島神宮>の本当の社のあとで、

 <彦日日出見尊>の<高千穂の宮の旧跡>>であり、

 神功皇后の<磐余稚桜>の宮と同名であった。

 こう見てくると、

 <稚桜>の<チワウも、<徐>の<ヂョ>も、

 <襲>も<囎唹>も<千穂>もすべて<邪>と

 同じもの「ヂウォ」であり、結局<シバ>を意味するもので、

 それがまた<薩摩>の語源でもあり、

 <邪馬>という当て字で魏志に写されたものの

 正体だったことがわかるのである。

 その同じものが、<諏訪>や<周防>と

 写されていたこともすでに見た。

 <千穂>が<ヂウォ>であるなら、

 <千葉>もまた<シバ>の変音であることは明らかである。

 また<シバ>が<斯馬>や<斯麼>と写されて<シマ>と

 発音されたことは、

 <マ>と<バ>が常に混乱する日本語の幾つかの方言によって

 疑がう余地がない。

 ということは<邪馬>は<サマ>であると同時に<サバ>であり、

 景行紀などに登場する

 周芳の<娑麼>は<邪馬>でもあったことになる。

 こう見てくると<シバ>、<チバ>または<チマ>と

 読める<支馬>の文字をもった

 <伊支馬>の正体もまた明らかになる。

 マレー語では接頭辞の<イ>は<王>を意味する。

 <伊支馬>とは<シバの王>という名であったのである。

 それは同時に<薩摩の王>でもあり、

 <千穂の王>でもあり、<襲の王>でもあり、

 初期の<新羅王>でもあり一々あげるのが、

 わずらわしい程の多くのものと結びつく。

 ここまで来ると3世紀の発音は別として、

 <邪馬臺>は<隼人>とどういう関係があるか?

 という疑問が一つ残る。

 これを解決しないと読者はモヤモヤしたもので

 欲求不満に陥いられる恐れなしとしない。

 本書のしめくくりとして、

 それを明快に片づけて終ることにしよう。

 なぜ<邪馬臺>がいま<隼人>と書かれ<ハヤト>と

 発音されることになったのか。

 ということから話す必要がある。

 この<隼>という字は<ハヤブサ>という鳥の名であるから、

 これが当て字であることは明白で、

 その前半の音を利用したものである。

 『記・紀』を見ると、

 この地域には<速>という国名や名乗りが沢山見られる。

 これは間違いなく、

 私たちが「速い」と用いる<ハヤ>でスピードを意味する。

 これとパーリ語との関係を調べてみると、

 <速い>という語は<ジャバ>という。

 これはピッタリ<邪馬>と一致する。

 とすれば、

 ここは邪馬の都のあった土地であるから、

 <ト>は<都>の字の音であったと考えられる。

 <邪馬臺>がこの地から移動したか消えて無くなったかは

 次著に譲るが、少くとも、

 やがてここが都でなくなったことは事実であるから、

 <邪馬臺>でも<邪馬都>でも不都合になったことは

 疑がう余地がない。

 そこで改名者は<邪馬>の字音を<ジャバ>とし、

 これを意訳して<速>という文字を与えたとすると、

 <ハヤト>という地名の起源が非常にピッタリと説明できる。

 もちろん<都>の字も同音の人という和音字に変えられ、

 さらに<速>も後に<隼>という字に変えられて

 <隼人>という地名が固定したということになる。

 また<石>の古い音には<シワ>があり、

 <石神>とは<シバ>に他ならない。

            磐=石 =シワ(シバ)=石
           /
 邪馬=ジャバ=速=隼\
            余=禮

 臺 =都  =徒=人→   都  = 臺   体

 <ハヤト>という地名は、さきに<イワレ>とも

 不離の関係にあることを話したが、

 それらはいずれも邪馬臺そのものの

 変型したものであったのである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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