出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
195~197頁
ここで問題があるのは、同じ倭人章にある<邪>字の発音である。
<狗邪韓>は従来<クヤカン>とよまれてきたが、
これはあり得ないとすれば<クディァカラ>となる。
これは<ディァ>を日本流に<ダ>と発音すると<クダ>。
<カラ>の<カ>を助詞の<ヶ>とすればクダヶ国。
すなわち<クダラ>という国名に対する当て字ということになり、
意味不明のクヤカソの誤りを証明することになるし、
謎が一つとけたことにもなるのである。
さらに検算を続けると、
<掖邪狗>は<八坂>に対する当て字であったことはすでに見た。
これは<ヤザカ>とよんだ結果だが、
さらに<邪>を<ヂウォ>におきかえて見ると<ヤヂウォコ>となる。
これもまた『記紀』に大国主の別名として記録されている
八千矛に合う。
さらに様々な発音の多民族が混住していたことと、
すべての濁音を清音化し、
短音化するという習慣が今に尾をひいている
事実とを考え合せると、
<ヂァ>は<ザ>に変って座摩(座間)という神名や地名を生み、
さらに<サ>に変ったことも凝う余地がない。
それは<八坂>が<ヤザカ>と<ヤサカ>の
二た通りに発音されている事実とともに、
国造本紀などに、武蔵の国に対して旡邪志国と
当て字している例がある。
<邪>は<サ>として使われている。
これは邪馬臺国があったと同じ地域が、
後世薩摩と書かれていることに結びつく。
薩摩と書いて中国ではサモア島を意妹する。
だからサマという発音に変ったものが、
<サ>の国という形の<サ>津<マ>と助詞を挟んで
<サツマ>となったと証明できるのである。
こうしたことは為政者や居住者の勢力の消長を反映して起る。
私たちにとっては重要な研究課題であることが
おわかり戴けたと思う。
「コラム:石体神社の由緒」(加治木原図)
「彦火火出見尊のさだめられた高千穂宮のあとで、
鹿児島神宮の旧鎮座地であります。
{水鏡}や{今昔物語}などに応神天皇の生誕地としるされ、
石神の信仰は古代より続いています。
海幸、山幸にあやかる
潮満の玉、
潮干の玉、
神功皇后の干満二玉もよく知られています。
ここの小石は安産護符です。」とある。
さらに角度を変えて<邪>の字のもつ意味を見てみると、
『詩経』では「其虚其邪」とあって<徐>と同じ意味に用い。
『史記』では「帰邪於終」と<余>と
同じ語として使っている例がある。
この<徐>はすでに見た通り韓国の首都の名に
今も残る鹿児島弁の<徐伐><ソフル>の<徐>で、
<襲>や<囎唹>に当るものであった。
また<余>は、<磐余>、または<石余>と書いて<イハレ>と読み、
<石禮>の<イハレ>と同一の地を指す。
その石禮に当る<石體神社>のある位置が、
<ヒルコ>を祭る<鹿児島神宮>の本当の社のあとで、
<彦日日出見尊>の<高千穂の宮の旧跡>>であり、
神功皇后の<磐余稚桜>の宮と同名であった。
こう見てくると、
<稚桜>の<チワウも、<徐>の<ヂョ>も、
<襲>も<囎唹>も<千穂>もすべて<邪>と
同じもの「ヂウォ」であり、結局<シバ>を意味するもので、
それがまた<薩摩>の語源でもあり、
<邪馬>という当て字で魏志に写されたものの
正体だったことがわかるのである。
その同じものが、<諏訪>や<周防>と
写されていたこともすでに見た。
<千穂>が<ヂウォ>であるなら、
<千葉>もまた<シバ>の変音であることは明らかである。
また<シバ>が<斯馬>や<斯麼>と写されて<シマ>と
発音されたことは、
<マ>と<バ>が常に混乱する日本語の幾つかの方言によって
疑がう余地がない。
ということは<邪馬>は<サマ>であると同時に<サバ>であり、
景行紀などに登場する
周芳の<娑麼>は<邪馬>でもあったことになる。
こう見てくると<シバ>、<チバ>または<チマ>と
読める<支馬>の文字をもった
<伊支馬>の正体もまた明らかになる。
マレー語では接頭辞の<イ>は<王>を意味する。
<伊支馬>とは<シバの王>という名であったのである。
それは同時に<薩摩の王>でもあり、
<千穂の王>でもあり、<襲の王>でもあり、
初期の<新羅王>でもあり一々あげるのが、
わずらわしい程の多くのものと結びつく。
ここまで来ると3世紀の発音は別として、
<邪馬臺>は<隼人>とどういう関係があるか?
という疑問が一つ残る。
これを解決しないと読者はモヤモヤしたもので
欲求不満に陥いられる恐れなしとしない。
本書のしめくくりとして、
それを明快に片づけて終ることにしよう。
なぜ<邪馬臺>がいま<隼人>と書かれ<ハヤト>と
発音されることになったのか。
ということから話す必要がある。
この<隼>という字は<ハヤブサ>という鳥の名であるから、
これが当て字であることは明白で、
その前半の音を利用したものである。
『記・紀』を見ると、
この地域には<速>という国名や名乗りが沢山見られる。
これは間違いなく、
私たちが「速い」と用いる<ハヤ>でスピードを意味する。
これとパーリ語との関係を調べてみると、
<速い>という語は<ジャバ>という。
これはピッタリ<邪馬>と一致する。
とすれば、
ここは邪馬の都のあった土地であるから、
<ト>は<都>の字の音であったと考えられる。
<邪馬臺>がこの地から移動したか消えて無くなったかは
次著に譲るが、少くとも、
やがてここが都でなくなったことは事実であるから、
<邪馬臺>でも<邪馬都>でも不都合になったことは
疑がう余地がない。
そこで改名者は<邪馬>の字音を<ジャバ>とし、
これを意訳して<速>という文字を与えたとすると、
<ハヤト>という地名の起源が非常にピッタリと説明できる。
もちろん<都>の字も同音の人という和音字に変えられ、
さらに<速>も後に<隼>という字に変えられて
<隼人>という地名が固定したということになる。
また<石>の古い音には<シワ>があり、
<石神>とは<シバ>に他ならない。
磐=石 =シワ(シバ)=石
/
邪馬=ジャバ=速=隼\
余=禮
臺 =都 =徒=人→ 都 = 臺 体
<ハヤト>という地名は、さきに<イワレ>とも
不離の関係にあることを話したが、
それらはいずれも邪馬臺そのものの
変型したものであったのである。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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