出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
173~174頁
ついに私たちは千古の謎とされた女王国の故地、<八代>についた。
しかし問題はこれですべて終ったのではない。
なぜなら、水行十日と共に陸行一月という記事があったからである。
これを水行すれば十日、陸行すれば一ヶ月かかる、
と読むのが正しいと立証されていれば、
<八代>が終点ということになるが、それがまだである現在、
十日水行したのち、一ヶ月陸行した所に邪馬臺国がある。
という読み方を無視することはできない。
この二つの読み方のうち、どちらに分があるかというと、
後者だとせねばならぬ証跡が倭人章には幾つもある。
精密を主義とする私たちは先を急ぐことなく
静かに検討しつつ進もう。
記事をよく注意して読めば、<邪馬臺国>と<女王国>という
二つの国名が使いわけられていることに気づく。
<女王国>の方は順にあげて行くと
① 伊都王が皆統属女王国という部分。
次に ② 女王国以北は其の戸数道里を略載できるが……
という部分。
次に ③ 奴国(旁国)が女王境界尽きる所という部分。
次に ④ 郡より女王国に至る距離が万二千余里という部分。
次に ⑤ 女王国より以北、特に一大率を置きという部分。
次に ⑥ 女王国の東、海を千里渡るとまた国が有るという部分。
と女王国という表現が慣用されているのに対し、
南至る<邪馬壱国>、
女王の都する所という部分に唯一度だけ「邪馬壱国」が出てくる。
読み返して戴かなくてもわかると思うが、
女王の都している部分だけが<邪馬壱国>であって、
これはいわば都市国家の名称である。女王国という表現のものと、
これとは全く同じなのではない。
もちろん女王国の中に<邪馬壱国>があるが、
それ以外の国々をも包含したものが女王国なのである。
では何処からが女王国なのか。
それは②によると戸数道里を記載したもの以外で、
その南とあるから、<不弥国>より常の、
国名だけの国々、すなわち其の余の 旁国と書かれたものと、
邪馬臺国との総称である、ということになる。
こう見て行くと、女王国と、それ以外の国々とは、
はっきり区別されていたことが明らかになり、
以北という一語で充分な程、
厳密に南北の差があり、南か北かわからないような曖昧な位置。
例えば<宇佐>とか<大和>とかに女王国が無かったことを
理解することができる。
また、女王国とそれ以外の声々との関係が浮び上ってくる。
女王国というのはいわば<邪馬壱国連邦>であり
帝国であったのに対し、
他の諸国はこの超大国に臣従しながらも自治を
保っている半属国であり、
その中にもすでに官名が明らかにしたように、
卑弥呼が君臨する天領があり、
あるいは名目的な王室を残しながら、
<卑弥呼>または<天の日矛>が副王として実権を
操っているように見える国々があり、
それらを伊都に置かれた軍団が厳しく監視して恐れられていた。
これらの国々まで含めた全体は「倭」または「倭国」と呼ばれ、
さらに倭国外に住む同「人種まで入れたものが、
メイン・タイトルの「倭人」だったわけである。
だから陳寿らは<侏儒国>や<裸国>、<黒歯国>もまた
倭人の中に入れているのである。
これらは気まぐれに、話を面白くするために挿入したのでなく、
こうした人々が倭人を構成する人々と血縁があることを、
当時なりに知り得た貴重な学識として記載したのである。
私たちはすでに、陳寿の文章が一字一句もおろそかにせず、
非常に精選し、適切に用いられて、
いわば倹約しながらも一字一字が宝石のような
素晴らしさを発揮することに気づいて来た。
それは何故であろうか?
彼は倭人伝だけを書いたのではなく、
膨大な三国志を書いたのである。
日本で木簡が使われていた平城京時代を去ること5世紀の昔、
晋の筆紙は貴重であった。
侏儒国以下の記事の特記はよくよくの事であり、
数々は一笑に附する前にその努力に感謝すべきではなかろうか。
「図:南九州要塞」(加治木原図)
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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