2010年6月9日水曜日

倭人圏の政治地図


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    173~174頁

 ついに私たちは千古の謎とされた女王国の故地、<八代>についた。

 しかし問題はこれですべて終ったのではない。

 なぜなら、水行十日と共に陸行一月という記事があったからである。

 これを水行すれば十日、陸行すれば一ヶ月かかる、

 と読むのが正しいと立証されていれば、

 <八代>が終点ということになるが、それがまだである現在、

 十日水行したのち、一ヶ月陸行した所に邪馬臺国がある。

 という読み方を無視することはできない。

 この二つの読み方のうち、どちらに分があるかというと、

 後者だとせねばならぬ証跡が倭人章には幾つもある。

 精密を主義とする私たちは先を急ぐことなく

 静かに検討しつつ進もう。

 記事をよく注意して読めば、<邪馬臺国>と<女王国>という

 二つの国名が使いわけられていることに気づく。

 <女王国>の方は順にあげて行くと

    ① 伊都王が皆統属女王国という部分。

 次に ② 女王国以北は其の戸数道里を略載できるが……

      という部分。

 次に ③ 奴国(旁国)が女王境界尽きる所という部分。

 次に ④ 郡より女王国に至る距離が万二千余里という部分。

 次に ⑤ 女王国より以北、特に一大率を置きという部分。

 次に ⑥ 女王国の東、海を千里渡るとまた国が有るという部分。

 と女王国という表現が慣用されているのに対し、

 南至る<邪馬壱国>、

 女王の都する所という部分に唯一度だけ「邪馬壱国」が出てくる。

 読み返して戴かなくてもわかると思うが、

 女王の都している部分だけが<邪馬壱国>であって、

 これはいわば都市国家の名称である。女王国という表現のものと、

 これとは全く同じなのではない。

 もちろん女王国の中に<邪馬壱国>があるが、

 それ以外の国々をも包含したものが女王国なのである。

 では何処からが女王国なのか。

 それは②によると戸数道里を記載したもの以外で、

 その南とあるから、<不弥国>より常の、

 国名だけの国々、すなわち其の余の 旁国と書かれたものと、

 邪馬臺国との総称である、ということになる。

 こう見て行くと、女王国と、それ以外の国々とは、

 はっきり区別されていたことが明らかになり、

 以北という一語で充分な程、

 厳密に南北の差があり、南か北かわからないような曖昧な位置。

 例えば<宇佐>とか<大和>とかに女王国が無かったことを

 理解することができる。

 また、女王国とそれ以外の声々との関係が浮び上ってくる。

 女王国というのはいわば<邪馬壱国連邦>であり

 帝国であったのに対し、

 他の諸国はこの超大国に臣従しながらも自治を

 保っている半属国であり、

 その中にもすでに官名が明らかにしたように、

 卑弥呼が君臨する天領があり、

 あるいは名目的な王室を残しながら、

 <卑弥呼>または<天の日矛>が副王として実権を

 操っているように見える国々があり、

 それらを伊都に置かれた軍団が厳しく監視して恐れられていた。

 これらの国々まで含めた全体は「倭」または「倭国」と呼ばれ、

 さらに倭国外に住む同「人種まで入れたものが、

 メイン・タイトルの「倭人」だったわけである。

 だから陳寿らは<侏儒国>や<裸国>、<黒歯国>もまた

 倭人の中に入れているのである。

 これらは気まぐれに、話を面白くするために挿入したのでなく、

 こうした人々が倭人を構成する人々と血縁があることを、

 当時なりに知り得た貴重な学識として記載したのである。

 私たちはすでに、陳寿の文章が一字一句もおろそかにせず、

 非常に精選し、適切に用いられて、

 いわば倹約しながらも一字一字が宝石のような

 素晴らしさを発揮することに気づいて来た。

 それは何故であろうか?

 彼は倭人伝だけを書いたのではなく、

 膨大な三国志を書いたのである。

 日本で木簡が使われていた平城京時代を去ること5世紀の昔、

 晋の筆紙は貴重であった。

 侏儒国以下の記事の特記はよくよくの事であり、

 数々は一笑に附する前にその努力に感謝すべきではなかろうか。

 「図:南九州要塞」(加治木原図)

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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