出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
168~170頁
こうして<伊都>と<奴>との実体が明らかになり、
この二国が本来同じものであったことを知ると
「伊都から」「いや不弥から」という論争の
無意味なことがよくわかる。
だが念のためにもう一つ確かな証拠を御覧にいれておこう。
それは陳寿が骨組みとして利用したもののうち、
<広志逸文>にみられるものである。
それには<奴>も<不弥>もなくて、
はっきり「伊都、南へ邪馬臺国に至る」と書いてある。
陳寿はただ新らしく得た情報を、
こうした骨組みの上に、
忠実な史家として、
伊都国の部分に書き加えるという作業をしただけで、
本当の事情を詳しく知らない彼が、
それを道程に加えようとしたものでないことは、
今となってみれば明らかである。
それは舌たらずな部分的情報でしかなかったから、
彼としてもそれ以上の注釈ができなかったのである。
ここで水行十日で一体いまのどこへ行くのか?
ということを検討しておこう。
この表現が何kmを意味するかは、
船の遅速によって随分変るから今の段階では
他に算出資料を求めなけれはならない。
倭人章その他には
「郡から女王国まで万二千余里」という記載がある。
これを使うと、伊都国までが一万五百里だから、
残り千五百里で女王国に着くということになる。
牛津から83km強の位置は
熊本県の<八代>と<天草上島>の北端を結んだ辺りになる。
これに比べると熊本は近かすぎて、
首都になり日本になったのは後世で、
女王国ではあり得なかったことを示している。
<八代>か上島かが上陸点ということになるがどちらであろう。
記事には「水行十日陸行一ヶ月」という指示がある。
これを
A.水行しても隆行しても行けるという意味とする者と、
B.水行して上陸点から一ケ月という者とがあるが、
これまでは水かけ論に終っている。しかし、
この記事は、私たちには役にたつ。
A.上島は陸行では行けない。
B.上陸点から一ヶ月もかかる大きさをもっていない。
どう解釈しようと上島ではあり得ないことを、
はっきり示している。
かりに<天草>だとしても同じことである。
これに対して<八代>は、
一見して<山代>~<邪馬臺>に近い名をもっている。
それが何を意味するかは次著に譲るが、
上陸点はこれで確定したのである。
私たちは海退がはじまる前の<牛津の浜>から、
波静かな<有明海>を南に進む。
目的地は<八代>である。
それにしても、これは何という恵まれた水路であろう。
すぐ西には荒れ狂う<黒潮>が
波を噛んで北上しているというのに、
ここだけは別天地である。
倭人章を信頼して、その記事通りに進んだ私たちは、
そのコースが、この恵まれた安全な水路、
パーリ語でいう<ソチ>の海路に
導びくためのものであったことを、
痛感しないではおれない。
それは交通路としても文字通り幸(サチ)の海であったのである。
だが、いくら当時でもこの距離に十日もかかったろうか?
という疑問が残る。
帆船による船旅がどの程度のものか、
今少し調べておかねばならない。
「コラム:三つの情報源」(加治木原図)
<倭人章>と<魏略>と<広志>を比較すると、
図のように三つの異なった情報を
プラスしたものであることが明瞭になる。
二つの逸文記事は道程表であるが、
それに附加した最後のものは伊都国起点の距離表であって、
全く性格の異なったものであることが一目でわかる。
「魏略逸文:道程表」
7000余里 1000余里 1000余里 1000余里 500里
<帯方郡>──→<狗邪韓国>──→<対馬国>──→<一支国>──→<末盧>──→<伊都国>
「広志逸文:道程表」
500里
<倭国>────<伊都国>────→<邪馬臺国>
「魏志または倭人:距離表」
100里
┌───<不弥国>
<伊都国>─┤100里
│ │ └───<奴国>
陸行│ │
一月│ │ 水行
水行│ │二十日
十日│ │
<邪馬臺国><投馬国>
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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