出典:加治木義博:言語復原史学会
『魏志倭人章』詳解1
垂仁天皇の邪馬壹国
77~78頁
これまでみてきた候補者たちのうち誰々が、
『魏書倭人章』に記録された<邪馬壹国の4人>なのであろうか。
それを見分けるカギは第一に4人が揃っていること、
第二に4人が地位の順に並んでいること、
第三に政権担当者に相応(ふさわ)しい人物であること、
といった条件である。
第一の条件に合うのは崇神天皇朝と垂仁天皇朝であるが、
崇神朝で筆頭官の伊支馬に当たる名をもつ人物は、
皆子供ばかりで、
地位順という第二の条件に合わない。
同じことは景行天皇朝についてもいえる。
<伊支馬>にあたる<倭建命>は皇子で、
天皇より上位ということはありえない。
このことは第三の条件にも合わない。
では一つだけ残った垂仁天皇朝はどうか、
も少し許しく検討してみることにしよう。
筆頭の<伊支馬>は垂仁天皇自身。
これは合格である。
次の<弥馬升>は<日葉酢姫皇后>でこれも合格。
第三の<弥馬獲支>は妃の<円野阿邪美妹歌凝比売>でこれも合格。
第四の<奴佳鞮>もやはり妃の<沼羽田入比売>でこれも合格。
4人が揃い、4人が地位の順に並び、
4人とも政権担当者に相応しい人物であることという、
三つの条件が完全に揃っている。
さらにもう一つ絶対に忘れてはならない条件がある。
それは『記・紀』の記事内容の年代が、
『魏志倭人章』の邪馬台国の年代と、
かけ違っていては何にもならないということである。
ほぼ年代が確実とされているのは、
「倭の五王」時代に合う点の多い仁徳系皇朝であるが、
この4~5世紀の記事の前に、
適当な間隔を置いて配置された垂仁天皇朝の記事は、
3世紀半ばの実在である邪馬台国の年代と、
よく合っていて何も問題は残らない。
これほどよく一致することは、どんなに偶然が重なったとしても、
絶対にありえない。
ほんの少しの偶然が重なることもごく希なのに、
これを大量の偶然が重なった奇跡とする者がいれば、
それは余りにも非科学的で、
良識に欠けるとしかいいようがない。
官名
<卑弥呼> <伊支馬> <弥馬升> <弥馬獲支> <奴佳鞮>
皇朝
3 安寧 ※
5 孝昭 ※ ※
7 孝霊 子
10 崇神 ※ 子 ※ ※ ※
11 垂仁 ※ ※ ※ ※ ※
12 景行 子 ※ 子
14 仲哀 ※
これを見ると<伊支馬>、<弥馬升>、<弥馬獲支>、<奴佳鞮>の
四官名が揃っているのは、明らかに垂仁朝だけである。
『魏書倭人章』の<邪馬壹国>は、
『記・紀』の垂仁政権以外にありえない。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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