出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
171~172頁
かなり正確な水行時間の古代記録と考えられるものに、
<延喜式>主計上の<太宰府>への海路30日がある。
これは10世紀であるから、
大阪~博多間であるとして大過ないものである。
この間の距離概数約500km、一日16.7km程度になる。
これを中世の一般航路である福岡県豊前市に変えると約430km、
一日14.3kmになる。
もっとも、この延喜式の記載は、
それ程厳密なものでないことを心得ておく必要がある。
それは海路で越前国へ6日。加賀国へ8日。播磨国へ8日。
という書き方でわかる。
平安京は京都であるから、
播磨を姫路あたりと見て約110km、
8日だから一日12kmということになる。
これは古記録を現代の尺度や習慣でミクロ単位で考えたり、
一致させようとする愚を教えているのである。
船旅の日数などというものは、現代でも不安定なもので、
距離測定結果のようには扱かえない。
しかし、そんな数字でも大体の目安は得られる。
一日12kmから16~7kmぐらい、が10世紀の水行だったのである。
これは帆船があったことの明瞭な遣唐使以後であるから
帆船を使用したことは間違いないが、
より確実な帆船の航行記録が手許にある。
コースは逆だが地理的に九州を南北に航海しているから、
念のためそれを見ておこう。
慶長2年の第二次征韓役の際のものである。
島津義弘は十一反帆船を使って、
鹿児島県の川内川河口を3月18日出帆、
熊本県の佐志津、長崎の樺島、平戸、壱岐の勝本などを経て
4月19日に対馬に着いている。
この間32日。北上する対馬海流を利用しての400kmの水行である。
一日12.5km。十一反帆といぅのは大型帆船であり、
さらに海流に乗っている。
このことから逆算して延喜式の船が帆船であったことは
充分証明できる。
では倭人の方はどうか?
<牛津>~<八代>間は85kmほどであるから一日平均8.5km。
10世紀、16世紀末という時代差の割には速度の差は小さく、
また潮汐流、食糧、泊地の不便といった要素に
支配される部分の大きい当時の旅を
考えにいれると、
船の速度そのものは殆んど差がなかったと考えられる。
倭人達は原始的なものであったにしろ、
有明海でも帆船を用いていたのである。
統一邪臺国は世界にも比類のない素晴らしい水路をもっていた。
しかもその水路は幾重もの大半島や島々に囲まれ、
外敵の不意の襲撃を恐れずにすむ交通路である上に、
外部は強力な海流が北からの敵軍の南下と、
西の大陸からの侵攻を防いでいる。
邪馬臺国が東夷中唯一の統一国家を形成し、
卑弥呼がその盟主たり得た条件の一つに、
この難攻不落の一大天然要塞としての地の利が、
大きく働いていた事実を見逃してはならない。
「コラム:(征韓録)伴信友 手沢本 末尾頁」
このあとに一頁、ぎつしりと彼の自筆の批評、考証が加えられ、
史家信友の面目躍如たるものがある。(筆者所蔵)
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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