2010年6月16日水曜日

邪馬臺国の発音と意味


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    192~194頁

 次は邪馬臺とは何を意味し、

 何と発音するのが正しいかという問題である。

  <邪>という字は、<ヤ>、<ジヤ>、<ヨ>などと

 日本で使われてきたが、

 北京音では<シェ>、

 広東音では<ツェ>、

 呉音では<ゼ>、

 上海音が<ジャ>である。

 また明(みん)音で<スウ>と使われている。

 カールグレンの研究によると、

 この邪の発音は2系統があり、

 上古音<ディオ>と<ディア>。

 中古音<ヂウォ>と<ヂァ>。

 近世音<スウ>と<シェ>に分れている。

 お気づきのように<ヤ>と発音するものはない。

 では日本で<ヤ>と用いられた例はいつからか。

 記紀万葉時代にありそうに思われるかも知れないが

 中田祝夫氏の新選古語辞典によれば、

 <ヤ>の音に用いられたのは

 <夜>、<移>、<也>、<野>、<耶>、<楊>、<椰>、
 <揶>、<瑯>、<八>、<矢>、<屋>の

 十二文字であって邪はヤ行はもちろん、

 他の仮名としても全く使われていない。

 筆者があげた<ヤ>という使用例は、

 邪馬臺以外には、はるか後世まで無い。

 3世紀当時、

 ヤマト論者のいうように邪馬臺国が
 
 ヤマトと発音されていたのなら、

 魏人はこんな文字よりも<ヤム>という発音の

 <奄>や<淹>や<掩>、<厭>、<弇>に、<ト>と

 はっきりした音の<土>、<吐>、<堵>、<稌>など

 幾らでも選んで用いることができた。

 それをしていないということは、

 魏使たちが耳にし、語りあっていた邪馬臺の発音は、

 ヤマト以外のものだったという動かない証拠なのであるる。

 これはヤマトが実在しなかったということではない。

 ただ邪馬臺とは別のものかまたは邪馬臺が

 ヤマトに変ったとしても、

 それは後世のもので、

 倭人章の邪馬臺でないことだけは、

 はっきり断定できるのである。


 <邪>と同じく<臺>も

 上古音<ダグ>、

 中古音<ダイ>、

 近世音<タイ>である。

 3世紀当時はせいぜい<ダ>までで、とうてい<ト>ではない。

 こうした奇妙な間違いがなぜ横行してきたか、

 それは字音が時代によって大きく変ったという事実や、

 字音の内容について無知であった江戸時代の学者たちが、

 いい加減につけた読み方が、似たような人々によって、

 何の疑問ももたれずに現在まで踏襲されたということである。

 ヤマタイコクなど実在しなかったのだ。

 実在したのは邪馬の用字が示す

 <ディオマ>、<ディァマ>あるいは<ヂウォマ>、

 <ヂァマ>に近い発音をもった国名であった。

 これは一見<ジョオウ>(女王)によく似ている、

 だが<女>は上古音<ニョ>、

 中古音<ニゥォ>または<ヌヂウォ>で、

 <ディ>または<ヂ>という強い頭音をもっていない。

 これは女王以外の、官名や伊勢や諏訪や祇園や賀茂、

 そのほか実に多くのものが一致して示した<ジワ>が

 <邪>の字の本体であり

 国称の<マ>が<馬>の字の意味するものであったというほかない。

 なぜなら、

 それだけの痕跡を今に伝える国の名が

 <ジワマ>と呼ばれたであろうことは

 当然といえるのに他にそれに当るものがない。

 さらにこれには中国側からの証拠といえるものがある。

 「写真:カリー女神像」(加治木原図)

 この像は北インドのものである。

 シバ大神の妻であったカリーは、

 仏教にとりいれられて訶梨帝菩薩と変化し

 新らしい縁起を与えられた。

 日蓮はこれを鬼子母神と訳したが、

 一方ではインド亜大陸の南海地方で慈母聖母としての

 愛の女神「カシー」となり、観世音の文字があてられた。

 奈良朝の厚い崇敬にもかかわらず香椎廟が

 当時の重要な祭政施行令であった

 延喜式の神名から除外されているのは、

 神功皇后を観世音すなわち仏と見ていたことの一証である。

 なお前出の観世音菩薩鏡の像と見比べて戴けば

 相互の類似が単なる空似でないことを

 御理解戴けよう。(筆者所蔵)

 それは中国で「邪教」という用字で呼ばれた起りが、

 やはりこのジワ教を意味したという事実である。

 文献に登場する邪教淫祠、

 または邪神というのは、

 いずれもヒンドゥ系の信仰を意味する。

 このことはインド各地の石窟寺院の実態を知る私たちには、

 すぐ納得のいく事実である。

 注意を要するのは、この<邪>という用字が、

 本来は<ジワ>に対する当て字であったということである。

 それは別に非難の意味で用いられたのではない。

 邪が悪の意味に転化したのは、

 儒教や仏教が猛烈に排撃非難した影響で、

 それ以前は善神と信じられたからこそ祭られていたのである。

 こうした事実を知らず、邪を卑字であるとして、

 女王国にわざわざこの悪い字を選んで使ったのは

 中国人の中華思想のあらわれである。

 と称してそれを軽蔑する風潮があったが、

 それは彼自身の無知と下司の勘ぐりを曝露しただけで、

 
 邪の字は別に倭人を卑しめて用いたのではなく、

 ジワ教の名に一番適切な名で、

 しかも中国での呼び名を用いるという、

 ごく当り前なことをしたまでなのである。

 同じことは卑弥呼の卑の字についてもいわれるが、

 これも本来は卑でなく、

 卑という別字が使われている。

 無知プラスいい加減な想像がどんなに恥かしいものであるか、

 ということをよく噛みしめておきたい。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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